首山堡の激戦の最近のブログ記事

 落合参謀長遺族の抗議を受けて司馬遼さんも再度文献を当たり訂正文を発表しました。

 全集28巻の巻末にある月報に記事があります。題名は「首山堡と落合」です。(文庫版にもあるようですが私は未確認)

 読んでみますと驚くことが!。

 司馬遼さん公刊戦史を入手し読んでおられるのです!。(全集お読みの方は既知でしょう)

 ・・・・が、しかし「坂の上の雲」を読んでも公刊戦史の影響は感じられません・・・。私は遼陽の記事だけでしか詳しく読んでいませんが、公刊戦史が参考にされた形跡は全くありません。落合参謀長のご遺族より抗議を受けたことも公刊戦史を参考にしなかった故です。落合参謀長のくだりだけは司馬遼さんの創作でしょう。

 ではなぜ司馬遼さんは公刊戦史を軽視したのでしょうか。

 私の想像では、この「坂の上の雲」は司馬遼さん風の「真相はかうだ」ではないでしょうか。

 終戦後GHQよりラジオ放送された「真相はかうだ」は、戦争の真相を発表し大本営発表に騙されていた国民の関心を引いたようです。もちろん私は聞いたことはありませんので、古書よりもれ知ることぐらいがせいぜいです。しかし、このラジオ番組「真相はかうだ」は、信憑性があるとは言えないうわさ話や中傷(匿名の投書)を元ににしていたため、現在では参考にされることがありません。当時は大本営発表自体が虚構であったために多くの国民が耳を傾けたことは無理もありません。

 この「真相はかうだ」は当時の司馬遼さんも関心を持って聞いていたのでしょう。それゆえに公刊戦史=大本営発表とし参考にしなかったのではないでしょうか。そのほかの古書より情報を集めそれを司馬遼さんの想像力でつなぎ合わせて「坂の上の雲」は作り出されたと考えています。司馬遼さんが博識であり一級の作家であるから可能であったのです。(そうでなければ事実だけ集めただけで力尽きてしまう・・・・実体験より)

 こちらは日露戦争当時の落合豊三郎参謀長です

落合豊三郎少将.15.02.06.

 優秀そうなお顔をされています。現実に士官学校の成績も優秀だったそうです。(当然陸軍大学でも)

 司馬遼さんの弁明書であります「首山堡と落合」より抜粋し紹介します

「坂の上の雲」が発表されて、落合豊三郎第2軍参謀長のご遺族が司馬遼さんに参謀長に関する記載に関して抗議しました。その経過に関して遺族の方が書かれた「落合豊三郎と孫子の兵法」という著書に記載されております。(もちろん抗議とは書かれておりませんが・・・。)

 こちらがその本です

落合豊三郎と孫子の兵法.15.02.06.

 この本は、2012年9月に購入しました。

 購入した理由は、關谷鉻次郎連隊長について書かれていないかと思ったからです。落合参謀長は旧士官学校で關屋連隊長と同じ3期です。陸軍大学では同期か關谷連隊長が1期上かわかりませんが、何か手がかりになることが記載されていないかと当時は非常に期待しておりました。

 ・・・・が、關谷連隊長については全く記載がありませんでした。

 それもそのはず、この本は司馬遼さんに対する抗議のために書かれたものであるからです。

 では、「坂の上の雲」で司馬遼さんがどのように落合参謀長のことを書かれたのでしょうか、全集より抜き書きします

 私のうちには父の購入した「坂の上の雲」が全巻ありますが、私は読んだことがありませんでした。確かハードカバーの本で1冊350円でしたから、父の購入した時期は私の生まれる前でしょう。

 中学校か小学校高学年位に一度ページを開いたことがありましたが、当時では難しすぎたのか、それとも私と相性が悪かったのか読む気がしないまま時がたちました。司馬遼さんの作品はそれなりに購入して読んでおりますが、なぜか今でも坂の上の雲は読む気になれません。

 それでも参考までにと県立図書館で司馬遼さんの全集から「遼陽」の項だけコピーして目を通しました。

 

 ・・・・・・・・・・。

 

 なんと申しますか、作家の作品に資料的な価値を求めては悪いのですが、これはかなりひどい作品であると感じます。同じ作家である児島襄さんの「日露戦争」のほうはそれでも公刊戦史に目を通してあることはうかがえます。(それでも私ですらわかる誤記・誤認があります)。

 司馬遼さんは公刊戦史にすら目を通していません。綿密な資料調査で有名な司馬遼さんですら気が付かなかったのか、気が付いてもあえて面倒であったのか判りませんが、日本の公刊戦史を参照されていないため時系列的に話が並んでいません。

 私が読んでみて、話があちこちに動いてしまっていて判り難い、話の前後に矛盾が生じていることがかなり気になりました。

 そしてそれ以上に個人攻撃がひどい。戦後進歩的文化人が行った中傷合戦と重なるような感じがしました。あまり細かい点を挙げていくと坂の上の雲のファンにやられる恐れがあるのでいくつかのみ挙げてみます

 首山堡の激戦時に窮地にあった静岡連隊の連隊旗、通称軍旗を保護し旅団本部まで奉移(※ほうい・・・日本の象徴だけに言葉も独特です)した功績は非常に高く評価されました。この一事を持って和田順雄少尉、山本恵作軍曹、下田銀蔵一等兵の3名が第2軍軍司令長官奥保鞏大将より授与されました。一事の功績で同時に三名も授与されたことは異例のことであります。

 軍旗とはそれほど重要なものであります。旅団長児玉恕忠少将が涙を流したことは、同郷の乃木希典大将の事例と重ね合わせて安堵されたことと静岡連隊が壊滅したことを実感されたのでしょう。

 私もブログで幾度か紹介してまいりましたが、これは駿河人らしい勇戦の一つとして私自身関心をもっていたからです。

 山本軍曹は軍旗を助けようと敵弾雨の中飛び出したのではありません。負傷された和田少尉を背負って後送しようとしている道中の出来事であったのです。軍旗を助けようとしたのではなく、負傷した上官を助けようとなした勇敢な行動の延長線上に軍旗を保護することとなったのです。

 こちらは山本軍曹の遺族の方より頂戴しました、軍曹のお写真です

山本恵作軍曹.15.01.02.

 山本軍曹はお写真が嫌いだったようで残っている写真はわずかだったようです。

 感状のお写真も紹介します

静岡連隊の遼陽会戦。

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 静岡連隊の遼陽会戦、首山堡の激戦について紹介してまいりました。

 首山堡の激戦カテゴリーのほうにそれまでの記事があります。

 続き物のお話は下のページにまとめてあります。

静岡連隊首山堡の激戦 『24編まとめページ』

静岡連隊首山堡の激戦 『資料編』

 

 すべてまとめてはいませんが少しは見易くなったかと。

 

 また資料を入手いたしましたのでより詳細に遼陽会戦についてしょうかいしてまいります。

 こちらは「日露戦争実記」にあります、關谷鉻次郎連隊長のお写真です

關谷連隊長.15.01.09.

 遼陽大決戦の勇将と題してあります。

 關谷連隊長を中心に砲兵第14連隊連隊長及び砲兵第6連隊長のお写真もあります。

 この日露の戦いが火力戦である事の証左でもあります。砲兵が耕し歩兵が占領するのです。静岡連隊の首山堡戦も変則的ですがその定石にほかなりません。静岡連隊撃退に向かってきたシタケルベルグ中将取っときの予備兵力一個旅団半の戦力は、首山堡南方高地周辺で日本軍野砲兵連隊の猛射を受け甚大なる損害を受けたと推察されます。(ロシア軍は自軍の損害を改竄する癖があるので公表された数値は信頼できない)

 第3師団の主目標である「北大山」陣地を破壊したのも徒歩砲兵部隊の火力でありました。砲兵の役割は重要であることが全軍に認識されていたのでしょう

 静岡連隊の首山堡における戦いについては、私は祖父からの話で知りました。もちろん私の祖父は大正生まれですから日露戦争については伝聞です。

 關谷連隊長、橘大隊長の指揮の下激戦を行ったというものです。非常に簡略な祖父の話です。(当然ですが、私の祖父は日露戦当時生まれていないのです。詳しく知っているわけがないのです。)

 私の近い親戚に日露戦争に参加された方でもいれば別ですが、私の曽祖父の兄弟はすべて養子で跡取りとなっているので徴兵はされません。私の身内で日露戦参加者はゼロです。支那事変より対米戦にかけて、私の祖父を含め身内より多くの若者が出征しました。もちろん白木の箱で凱旋された方もおります。

 これまでの遼陽会戦における静岡連隊の戦いについての記事は、すべて古書より私が調査したものです。当時の生存者より聞き取りをする好機は昭和30年代が最後です・・・・・。ということは進歩的文化人と一緒に馬鹿学生(馬鹿教員)が大騒ぎをしていた時代であります。思うように生存者から当時の経緯を記録することは難しいようです。(その当時私は生まれていません)

 さて、現在まで一部の方々において語り継がれている静岡連隊の首山堡の戦いです。死傷者の数も第2軍の死傷者に占める割合が約2割。戦死傷者に占める戦死者の割合が4割を越す激戦でした。この数値がいかに異常なものかを含めて、静岡連隊各大隊の死傷者の数を統計より紹介します。

 

 奥大将率いる第2軍の遼陽の大会戦は、8月31日の首山堡防御線においての戦いがメインであります。この首山堡防御線を突破した事により遼陽会戦の勝敗が決しました。つまり決戦です。

 第2軍に於いては8月31日の戦いにおける戦死者がこの遼陽の大会戦における戦死者のほとんどであります。公刊戦史である「明治37,8年日露戦史」第3巻の巻末にあります資料より、第2軍の各部隊の戦死傷者数を紹介します。

 戦局に非常に大きな影響を与えた大決戦であった「遼陽会戦」ですが、旅順攻防戦や奉天会戦に比べると陰の薄い感じがします。海外的にも日本の宣伝下手のため大きな影響を与える事ができなかったようです。しかし、勝利は勝利です。この緒戦の大会戦に勝利しえた為にその後の戦いによい影響があったことは間違いはありません。負けていたら・・・・次はどうなったのか。

 これまで静岡歩兵第34連隊について紹介してきましたが、第2軍隷下の部隊の状況も比較参考までに必要だと思いました。他の部隊についてはよく調査はしておりませんが、人的被害に関しては資料がありますので紹介します。

 なぜ、静岡において8月31日が戦勝記念日として祀られてきたのか、その理由の一端がわかります。

 

 本日は8月31日です。戦前静岡に於ける戦勝の記念日であります。

 首山堡祭として駿府城にあった静岡34連隊にて祝賀会が開かれておりました。しかし、昭和20年8月15日以後戦勝記念日は無くなりました。GHQにとっては敗戦した日本には戦勝記念日は必要なしと判断されたのでしょう。

 GHQの去った後は進歩的文化人と称するインテリがいろいろとご活躍をなされ、いろいろと日本に混乱をもたらして下さいました。

 その混乱も収まりかけた昭和47年板妻駐屯地にある普通科34連隊にて「橘祭」が行われる事になりました。もちろん旧軍34連隊の将兵と遺族の方々も参加しておりました。

 首山堡祭と昔の名称を持ち出すといろいろいと差支えるので、橘大隊長のお名前をお借りした「橘祭」としたのだと私は推察しています。進歩的文化人の方々のご活躍を他所に静岡では静岡連隊将兵の功績を顕彰する行事が保存されました。

  

 夏になりました。

 現在では敗戦の日である8月15日が記念日となっておりますが、戦前の静岡では8月31日が戦勝の記念日として陸軍墓地や護国神社などでお祭りされておりました。

 素人ながらその8月31日の記念日にあった出来事をまとめてみました。

 こちらは物語風に作りました静岡連隊の首山堡の激戦です。

静岡連隊首山堡の激戦 『24編まとめページ』

 

 もちろん上記の記事はすべて図書館や購入した古書を基に作成いたしました。決してファンタジーではありません。

 この記事では、記事を作成するに当り参考とした資料を示した記事を紹介いたします。

 順番が多少前後する所はありますが・・・・その点ご了承ください。

 13編あります。

 素人の戦史探求でしたが何とか続きページ24編、その他含めて計48篇のページで紹介してまいりました。

 見直していきますと・・・・ところどころ誤認・誤解が見えますが、まあ素人の調査ですので大目に見てやってください。(肝心な部分はそれほど間違いはないはずですが・・・・。)

 1篇~24篇までの続きページを見やすいように簡単な紹介を含めてリンクを張っていきます。

 

静岡県護国神社.12.09.06.

 写真は静岡県護国神社です。

 

 日露戦争3大会戦の一つであります遼陽会戦、首山堡の戦いが舞台であります。

 8月25日有名な仙台第2師団の弓張嶺への夜襲にはじまり、9月4日遼陽城占領まで、10日間の戦いが遼陽会戦といわれております。

 この10日間の戦いの内で、8月31日の首山堡の戦いを制したことで日本軍の勝利が決定しました。(9月1日未明完全占領)

 静岡連隊が死山血河の激戦をおこなった1日であります。

 遼陽会戦は9月4日、遼陽城占拠を持って終結しました。

 ロシア軍が首山堡防御線を撤退した3日後のことであります。

 日露両軍とも勝利を宣言した珍しい戦いでもありました。

 日本軍はもちろん遼陽城占拠とロシア軍の撤退が勝利の根拠ですが、ロシア軍は予定の撤退であり日本軍に対して多くの消耗を強いた戦いであることが根拠になっています。

 第3者としてこの戦場にいた多くの外国観戦武官はどのように見ていたか?。こちらのほうは詳しく調べていませんが日本軍勝利の印象が強かったと考えています。

 彼らですら不可能であろうと考えていた首山堡陣地を1日で突破してしまったのですから、「日本軍侮るべからず」との思いを強くしたのでしょう。

 勝敗の分岐点となった「北大山」一番乗りをなした市川紀元二少尉が最高の栄誉に輝いたことは異論の無い所です。(小才子の井口・松川は・・・・・面白くない所でしょう)

 しかし、参加部隊の中で最大の敵兵力と激戦を行い、最大の損害を出した静岡歩兵34連隊には部隊感状はありませんでした。公には何等功績が無いことであります。

 理由は一つ、攻撃目標である首山堡南方高地を占領できなかったことであります。

 ・・・・・・・・・・・。

 部隊配置とそれぞれの攻撃目標を見れば一目瞭然、静岡連隊が首山堡南方高地を占拠できる可能性は万に一つもありません。北大山には1個師団に相当する兵力で攻撃したことに対し、ロシア軍予備兵力が集結する地点に近い首山堡南方高地には静岡連隊の僅か1個連隊のみの兵力しかありません。

 敵予備兵力の吸引・拘束が任務であると考えるべきです。この点立派に任務を果たしました。圧倒的なロシア軍の反撃にずたずたにされ組織的抵抗ができなくなっても、なお踏みとどまり戦線を支えました。

 「健気」、この言葉がしっくり来ます。第2軍に従軍していた欧州の観戦武官が感心したものは、堅固な陣地に突撃し白兵戦を展開する日本軍将兵の健気さでありましょう。

 

 準備不足を承知で關谷連隊長が攻撃命令を受け入れた理由が見えてくるような気がします。

 9月1日、シタケリベルグ中将の指揮するシベリア第1軍団は首山堡防御線より撤退し、遼陽の本防御陣地にこもります。

 首山堡陣地戦での敗北をクロパトキン将軍が認めたからに他なりません。

 遼陽の本防御線での戦いは本隊の撤退する時間稼ぎであります。

 本防御線も手の込んだ作りになっておりますが、首山堡の高所を押さえられた以上砲弾の雨を受けることは必至であります。この防御線で僅かでも時間を稼いで、鉄道により物資、部隊、負傷兵の後送を行います。

 名将の名に恥じないクロパトキン将軍の引き際であります。隷下の部隊に死守を命ずる反面、できる限り無駄な戦いを避けます。

 撤退するロシア軍に向けて日本軍は砲撃をする事が精々で包囲し殲滅まで至りませんでした。周到な計画による余力を持った撤退戦です。

 

 この首山堡の防御線について、クロパトキン将軍だけでなくロシア軍に従軍していた欧州の観戦武官も日本軍が突破できると考えていませんでした。守備していた部隊は2個師団ですが、野戦築城の陣地は堅固であり、クロパトキン将軍の本隊から予備兵力を投入するには容易な距離にもありました。

 欧州の軍隊や蛮族では簡単に落とすことのできない陣地が首山堡の防御線です。

 東洋の小国は、その陣地線をたった1日で突破したわけです。ロシア軍司令部だけでなく観戦武官すべてが想像を超えた恐怖に包まれていたことは間違いはありません。クロパトキン将軍はそれ以上の失態を犯さなかった故に「予定の撤退」と公表することができましたが、内心は敗北感に満ちていたことでしょう。

 難攻不落の首山堡陣地が破られたと決定つけたのが市川紀元二少尉による北大山第1堡塁の占拠です。

 公刊戦史や多くの日露戦史には大きく書かれていませんが、この小さな一歩がクロパトキン将軍他に撤退を決断させたのです。

 理由は、市川紀元二少尉の部隊を撃破するための予備兵力が尽きていたことであります。

 日本軍は市川紀元二少尉の小部隊に続いて続々と将兵を送り込んできます。ロシア軍のほうは第2堡塁で支えることが限界で撃退するほどの力はありませんでした。この時点で北大山の陣地が突破されることは時間の問題となりました。クロパトキン将軍は余力のあるうちに撤退を決断したわけです。

 「予備兵力が尽きた」・・・・これは旅順要塞の陥落の理由と同じであります。こちらは有名な二百三高地での激戦で部隊が消耗しステッセル中将は降伏を決断しました。旅順要塞は背後が海なので逃げる所がありません。

 では、この首山堡ではどこで消耗戦が行われたのでしょうか。

 夜陰にまぎれて敵前より後退してくる静岡連隊の生き残りの将兵です。

 關谷連隊長の後任に臨時として第2大隊長鈴木則柯少佐が連隊長代理として部隊を再編します。

 午後11時、集結した静岡連隊の将兵は僅か900名です。

 命令も行き届かないことから集合していない兵卒もあります。又負傷による一時的な戦闘不能者も多数あったと推察されます。内田軍曹の記録を見ていると・・・・負傷者はどうも入院患者の事を指すのではないかと思います。(ということは銃創を負っていても負傷者に数えられない兵卒が多数在ったと考えられます)

 兎に角も部隊が集結し組織的な戦闘ができうる状態となりました。(といっても1個大隊に満たない兵力です)

 前日の散兵壕にこもり残兵の収容を行います。この時に本日初めての食事と休息を取ることができたのでしょう。

 疲労困憊している中でも戦意は衰えていません。陣地により次の攻撃の命令を待ちます。

 

 翌午前1時より2時の間(内田軍曹の記録より)にロシア軍は首山堡陣地戦より撤退しました。

 払暁期、隣の歩兵33連隊が北大山を占領し他の部隊も続きました。この首山堡南方高地は後備歩兵第43連隊が突入し占領がなりました。

 1発も銃を射つことなく占領ができました。

 午前6時、兵卒の休息、部隊の整頓を終えた静岡連隊も激戦をおこなった首山堡南方高地山頂へ向かいます。

 題名は、私の好きな作家「佐藤愛子」さんの「戦いすんで日が暮れて」より拝借しました。

 必死に戦ってきた中、日が落ちると共に戦闘は終了し、辺りを眺めながら今日一日の出来事が頭の中を走馬灯のように流れ、呆然としている静岡連隊将兵の様が浮かんできます。

 橘大隊長のご遺体を前にした内田軍曹の姿に近いものがあります。

 待ちに待ったロシア軍の包囲網から突破する好機が来た時にはすでに橘大隊長は亡く、命に代えてもと誓った自分が生き延びてしまった現実が内田軍曹を打ちのめします。

 ありあわせのもので急造の担架をこしらえ橘大隊長のご遺体を運ぶ手はずを整えます。

 この時まだ第3師団は総攻撃の最中です。大島師団長の1日は首山堡が陥落するまで終わらなかったようです。

 盛んな砲声を耳にし附近の兵に内田軍曹が命じます。

『「今に増援隊が前進してきたら、健者傷者の区別なく、いやしくも射撃の出来るものは、ことごとくこの壕の前崖によって、高地上の敵に向かって援護の急射撃を加え、増援隊の突進を援けると共に戦友の英霊を慰めよう。」

 と申し合わせて、弾薬を拾い集めて腕を扼しつつ待ちわびたが、はるかに微弱な銃声が聞こえるのみで、容易に増援隊の近づいてくる気勢は見えなかった。』

 戦意衰えを見せない静岡連隊の将兵です。この時の戦意を支えていたのは戦死者に対する追悼の気持ちだけでありましょう。

 前線に友軍は姿を見せず、内田軍曹は5名の兵士と共に橘大隊長のご遺体を急造担架で運びます。ロシア軍の包囲網からの脱出です。

 

 一方、第3師団よりこの日の戦況報告を受けた第2軍司令部には激震が走りました。關谷連隊長、橘大隊長戦死、歩兵第34連隊死傷者多数。

 容易な戦いと楽観はしておりませんでしたが、これほどの損害がでるとも想像を超えていました。「ああ静岡連隊」には、静岡連隊の死傷者数をどのようにして郷土静岡に報告するか悩んだとあります。

 

 遠州磐田出身「市川紀元二」少尉の部隊により第1堡塁を占拠されたロシア軍北大山陣地です。

 午前の戦いぶりを第3師団長大島中将より叱咤された各連隊も猛撃します。決して各連隊将兵は臆して縮こまっていたわけではありません。(まあ、遠州人の部隊があるのですから当然ですが)

 解釈は色々ありますが、石原大佐への督戦命令はどちらかと言うと山口旅団長の頭ごなしに命令を出したとも解釈できます。山口少将の左遷はこの時点で決定的でしょう。

 想像ですが、場合によっては大島師団長自ら陣頭に立って突撃を行う腹で居られたのではなかったか。

 

 弾幕射撃の中果敢な突撃が各所で行われました。

 次々各部隊の将兵が参集する北大山山頂陣地ですが、将校の数に比べて兵卒の数が少ないと言う奇妙な現象すら現れました。(兵卒4~500名ほど)

 各将校の勇敢なる突撃指揮が兵卒をして勇戦させる原動力であることはどこの戦場でも同じようです。

 日本軍の猛烈な攻撃に慌てふためくクラウゼ少将です。

 まさか・・・・寡兵で第1堡塁を占拠するとは考えられないことだったのでしょう。計画ではロシア軍の弾幕射撃の前に全滅することになっていました。しかし、陣地の多くは日本軍砲兵隊の射撃により破壊され兵卒にも被害が出ており、計画通りの戦いが出来ない状態となっておりました。

 日本軍は続々と部隊を山頂陣地に送り込みます。こちらはかねての計画通りの行動です。ロシア軍は第2堡塁に下がり迎え撃ちます。

 山頂陣地を占領する日本軍部隊を駆逐する為、クラウゼ少将は予備兵力を集めます。

 首山堡南方高地を日本軍主攻と判断していたシベリア第1軍団司令官シタケリベルグ中将の手元には・・・・・予備兵力はありません。

 混乱するロシア軍指揮官と北大山陣地で激戦をおこなう日露両軍の兵士です。

 

 静岡歩兵34連隊が攻撃した高地は内田軍曹の記録及び公刊戦史では「首山堡南方陣地」又は「148高地」であります。中村昌第4中隊長代理の資料では「饅頭山」と記載されておりますが、黒木第1軍が攻撃した陣地にも「饅頭山」がありますので誤認防止のためあえて「饅頭山」の呼称は使用していません。

 午前10時、第3師団司令部より「正午を期し総攻撃を敢行する」との命令が下されます。この命を受け野砲連隊は攻撃準備射撃を行い、予備部隊は攻撃開始地点へ移動を開始します。

 静岡連隊の状況はというと・・・・、そこここの死角にこもる小集団の群れの有様でした。負傷兵がほとんど、健常者や軽傷者(弾を受けていても動ける間は軽傷です)は重傷者を守りながらロシア兵と銃撃戦を展開していました。将校も軍刀ではなく戦死者の小銃を取り射撃戦を行っていました。(水や弾薬の補給もなく全員疲れきっていました)

 ロシア軍が本気になって逆襲を行えば間違いなく成功しました。それも僅かな兵で。2個中隊ほどでも各所に散らばる静岡連隊将兵を各個撃破することができたのです。

 負傷兵をかばう静岡連隊将兵との間の白兵戦も僅かな間で、戦闘員すべてなぎ倒されその後、負傷兵が一人ずつ熊の銃剣で止めを刺されていったことでしょう。

 その恐るべき熊の突撃はありませんでした。研究者はロシア軍の特性を持ち出して説明するのかもしれませんが、私には天が助力してくれたのでないかとさえ考えてしまいます。

 例えるなら、まな板の上の鯉・・・・といった状況です。熊から見ればいつでも皆殺しにできたのです。

 

 その静岡連隊に、ついに援軍が到着しました。後備歩兵第11旅団です。海南(和歌山)の部隊です。

 公刊戦史の地図に推定の進路を記載します。

後備歩兵第11旅団の進路.12.09.10.

 赤色が、後備歩兵第12連隊です。

 紫色が、後備歩兵第43連隊です。

 静岡連隊の協力は得られず、高地の防御はいまだ堅固であることは指揮官である隠岐旅団長にはわかっておりました。

 公刊戦史にこのように書かれています。

『状況甚だ切迫せるを見、断然独力を以て攻撃せんと欲し』

 隠岐旅団長には、静岡連隊が際どい状況におかれたと判断されたのでしょう。果敢に突撃を開始します。

 時は総攻撃に先立つ、午前11時20分。

 後備兵は、一度現役兵を務めた予備役兵を再招集した兵であります。当然現役兵に比べて年を取っております。(30代です)。家族もいます。現役兵に比べて弱いといわれています。(家族がいるので当然です)

 隠岐少将はその後備兵に対して命じます。

「後備は役に立たぬと他から思われている、その名誉を回復するのは今じゃ。その首山の東南方高地はその連隊が占領せよ」

 旅団長の勇ましい命令に応え2個連隊が、首山堡南方高地及び達子栄東北高地(静岡連隊第3大隊が攻撃をかけた高地)に向けて突撃します。

 しかし・・・・・・・・・。

 8月31日正午。

 第三師団長大島義昌師団長は「師団総攻撃」を命じます。

 北大山を攻撃する右翼隊の3連隊はいくばくか損害を出していますが、静岡連隊のそれとは比較になりません。その上、静岡連隊が身をもって吸引した敵兵力はかなりのもの、北大山攻略の適期ともいえます。

 命令はただ一言、「突撃」あるのみです。

 

市川紀元二中尉像 全体 北大山ロシア軍陣地直下に取り付いていた部隊は、名古屋第6連隊第1大隊第2中隊です。中隊長は「松井石根」大尉です。

 ロシア軍の弾幕射撃がここでも有効に機能していました。兵の損害も出ています。中隊長松井石根大尉も大腿部に貫通銃創を負いました。しかし、総攻撃の命令が下されました。

 松井大尉は市川紀元二少尉に命じます。(市川紀元二中尉伝より)

 『「おれはここで指揮を取るから市川行って見んか」

 と声をかけるや否や、低くはあるが力強く

 「行きましょう」

 と一言、折から味方の榴弾が2発前面で破裂して黒煙が濛々と上がったのを利用し、軍刀を揮って跳出した。』

 

 北大山を守備するロシア軍指揮官はクラウゼ少将です。この峻険な位置にある陣地を突破されるとは夢にも考えていなかったようです。首山堡南方高地と異なり大兵を運用できるような余裕のある地形ではありません。寡兵で突撃してくる攻撃側を掃射すれば良いのです。防御側が圧倒的に有利です。

 しかし、日本軍砲兵部隊の執念は凄まじく短時間で守備兵と防御陣地の多くを破壊しました。クラウゼ少将にとって計算外の事態が起こりました。その上昨日派遣された予備隊は引き戻され、自身の部隊の一部も首山堡南方高地で静岡連隊と戦闘しておりました。

 守備隊が・・・・・名古屋第6連隊の突破を許すこととなりました。

 時刻は、総攻撃が始まった僅か30分後、午後0時30分です。

 この突撃こそ、ロシア軍司令長官「クロパトキン」将軍をして撤退を決断させる一撃になったのです。

 午前中の戦況はおそらく大島義昌師団長をして激怒させたものであったでしょう。

 寡兵でロシア軍の大軍と戦い全滅した部隊がある一方で、一歩も突撃していない部隊があるのです。同じ第3師団の部隊です。いくら人間ができているといえでも、この状況で怒れない人物では師団長たる資格はありません。

 責任問題です。

 静岡連隊の詳細なる損害はわかりませんが、かなりの戦死傷者を出していることは見ればわかります。いくら静岡連隊将兵に対して美辞麗句を並べたてた処で、損害に見合う戦果を挙げなくては師団長として責任を問われます。何時の時代でも日本の国では責任は問われるのです。

 大島師団長としては、自身の責任問題よりも武士としての面目も丸つぶれです。

 すばやく作戦を建て直し再度の総攻撃に移ります。今度こそは総攻撃です。

 第2軍より与えられた予備兵力後備歩兵第11旅団をも戦線に投入します。

 後備歩兵第11旅団(旅団長 隠岐重節少将)

 ・第12連隊(連隊長 渡邊勝重大佐)、第43連隊(連隊長 佐野島丹蔵大佐) ・・・攻撃目標・達子栄東北高地。

 ・第22連隊(香渡範三郎中佐)・・・攻撃目標・北大山。

 予備隊など部隊を後置しておりますが主力はこの方面を攻撃しました。

 

 総攻撃は正午です。それに先立ち猛烈な砲撃戦が行われます。

 北大山を砲撃した徒歩砲兵第4連隊の使用弾種は他のものとは違います。

 名古屋第3師団師団長「大島義昌」中将は長州の出身です。もちろん士族です。

 戊辰戦争が初陣です。西南戦争にも従軍しております。

 この方より見た午前中の戦況は芳しいものではありませんでした。

 関谷銘次郎率いる静岡歩兵34連隊の奮戦は、歴戦の大島中将をして感心せしめる働きがあったことは間違いはありません。しかし、その代償として第3師団はもとより第2軍における最高の連隊長を戦死させ、静岡連隊は全滅と判断されるほどの損害を受けております。

 大島中将の戦況を睨む目は、第3師団の主攻撃目標たる「北大山」攻撃を担当する第5旅団長山口圭蔵少将に向けられました。

 第3師団の75%の戦力(歩兵3個連隊)を預かっていながら、何等戦果を挙げていないのが戦術の名手と称されてきた山口少将です。(※・この点「作戦の神様」と称された金沢の辻正信とにています。机上の空論を絵にかいたような俊才馬鹿です。)

 この遼陽会戦後山口圭蔵少将は更迭され最終的に免職になったそうです。研究家「大江志乃夫」さんの著書では、旅団本部の位置が師団司令部より後方にあったため戦意不足を問われ更迭されたとありますが、午前中の戦況を見ていた大島中将としては山口少将の指揮そのものが許されざる怠慢であります。

 山口少将が預かる第3師団右翼隊は、第18連隊、第6連隊、第33連隊です。児玉恕忠少将指揮下より第33連隊を引き抜いて右翼隊の指揮に入れています。

 3個連隊あって戦果はありません。

 北大山のロシア軍陣地にすらたどり着いていません。

 名古屋第6連隊のみが副防御(鉄条網、狼穽)を突破してロシア軍陣地直下に迫ったのみで、豊橋第18連隊、名古屋第33連隊にいたっては突撃開始地点より一歩も前進していません

 こやつ何をやっているのか。と怒りに燃えていることは想像できます。

 静岡34連隊は充分すぎるほど働いてくれました。敵部隊の吸引に成功しています。ただ、静岡連隊自体壊滅する状況になっていることも大島中将を悩ましていたことでしょう。

 静岡連隊の生き残りの将兵の銃撃や野砲兵連隊の攻撃阻止砲撃でかろうじて戦線を保っていますが、ロシア軍が本気になって攻勢をかけてくれば生き残りの静岡連隊の将兵ことごとく散華することは間違いのないところです。この時の静岡連隊の状況では2個中隊ほどの兵力でも充分壊滅させることができると判断できます。

 戦況を好転させ静岡連隊の救援も行わなくてはいけません。師団長として苦慮しすばやく作戦を立て直します。発令は午前10時です。「正午を持って総攻撃を行う」です。

 果敢なる攻撃命令を発する大島師団長に小ざかしい進言をする山口圭蔵少将です。

 山頂陣地はもとより第1塁までもロシア軍の手中に帰しました。

 早朝の奮戦が嘘のような状況であります。周囲は皆負傷兵のみ、補給や後送はなく灼熱の太陽の下で渇に苦しむ将兵であります。

 内田軍曹の記録よりこの時の首山堡陣地の様子を紹介します。

『その頃は頂上は勿論高地一帯ことごとく敵影ならざるはなく、第1塁第2塁の胸檣(※きょうしょう)上にずらりと並べられた敵の銃剣は、日光に反射してキラキラと輝き渡っている、壮観というか不気味というか、げにや「剣の襖」とはかくのごときを形容するの言葉であろう。銃砲声の間間には、敵の指揮官が何事をか号令する、声高な叫びが手に取るように聞こえてくる。時には喋々喃喃と露兵同士が語り合っている話し声さへはっきりと耳に入ってくる有様である。

 「この高地、断じて敵に渡すな」と眦を決して怒号せる橘大隊長の言葉も、今はすでに甲斐なし。もし隊長がこの悲惨な状況を知ったら、恐らく憤死するのであろう、私にしても癇癪玉が破裂しそうな悔しさを感じる。』

 完全にロシア軍包囲下に置かれました。ただ、熊は逆襲に来ません。生き残りの静岡連隊将兵がいまだ性懲りもなく銃撃戦を行っているからです。熊でも命がほしいのです。

 

 橘大隊長が受けた傷は7箇所です。時間的に受傷した箇所を列挙していきます。

 突撃時に、右手に銃剣による裂傷。

 白兵戦時に、左手に銃弾による擦過傷。(指が何本か失っています)

 山頂における白兵戦時に、腹部貫通銃創。

 砲撃戦時に、砲断片による腰部打撲。

 内田軍曹による後送時に、左右胸部貫通銃創、左上膊貫通銃創、鼠径部貫通銃創。

 以上です。致命傷は避けられましたが早く軍医の手当てを受けないと大事になります。

 必死に手を尽す内田軍曹ですがどうしようもありません。ロシア軍の包囲は水も漏らさぬ完璧ぶりで看護兵が負傷兵の収容に来るどころか、こちらから這い出ることすらできません。内田軍曹が送った伝令白鳥伍長は狙撃を受け大腿部に貫通銃創を負いました。

 

 そんな状況下端然とされていた橘大隊長です。

 後退していく負傷兵を見ると呼んで慰労の言葉をかけます。一人一人にです。

 自身の負傷よりも、兵の負傷のほうが気になる方でありました。しかし、後退していった負傷兵はただの一兵も、救護所のある向陽寺にたどり着いた者はありませんでした。

 すべて首山堡南方高地前面に広がる高粱畑で打ち倒されました。

 ほとんど一方的にロシア軍に痛めつけられる、惨めな静岡連隊将兵の中で光る橘大隊長の姿です。

 關谷銘次郎連隊長の戦死をもち、午前9時静岡歩兵34連隊は師団司令部より全滅と判断されます。

 全滅です。つまり白旗を揚げて降伏しても欧米の常識では不名誉ではありません。

 第3師団司令部大島義昌中将の再編成の命令は、授与するべき上級指揮官がおりませんでした。静岡連隊の将兵には、關谷連隊長の下した最初の命令のみしかありません。

 あちこちの死角を即席の壕としてこもり銃撃戦をするしか方法はありません。

 起伏の少ない首山堡南方高地の斜面です。身を隠すものといえば、砲弾炸裂孔、地形を利用して円匙(えんぴ)で掘った塹壕、そして死体です。

 一番後送したい負傷兵も応急処置のみで炎天下の中放置されていました。無傷の将兵はほとんどいません。皆大なり小なり負傷しています。一旦後退し負傷兵に軍医の手当てを受けさせ、再編成し再度攻勢をとりたいところです。

 当然ですが、駿河人は「いけいけ、どんどん」主義では有りません。常識があります。無駄な犠牲は好みません。(教育レベルが高いですから)

 しかし、陣地奪回を果たした猛り狂うロシア軍が静岡連隊の後退を許しはしませんでした。熊どもは突撃逆襲を行い皆殺しにするつもりであったのですが・・・、生き残りの兵卒が銃撃を行います。首山堡南方陣地では早期に壊乱した第11中隊や第5中隊などの兵卒は集結し土人の墳墓を盾として銃撃を行います。

 その上、野砲兵第3連隊に加えて野砲兵第13連隊が首山堡南方陣地及び西方陣地に向けて猛射を浴びせます。すでに山頂陣地に静岡連隊の将兵は一兵もいないことを知っています。この援護射撃のおかげで熊の逆襲を受けずにすんだといえます。

 その代り、静岡連隊将兵は一兵たりとも後方へ下がることができなくなりました。公刊戦史と内田軍曹の記録を基に地図に記してみます。

首山堡陣地の状況.12.09.10.

 青い丸で囲ったところがロシア軍が確保した陣地です。

 赤い斜線で囲った部分が、ロシア軍の射弾が集中する所です。十字砲火と言うのでしょうか。ロシア軍は距離を測って標識を立ててあります。その距離にあわせて射撃すれば有効弾になるように事前に準備をしておりました。それが確実に機能しております。

 遼陽街道から向陽寺(村名)方向まで這い出る隙間がないくらい密度の高い銃撃です。この時期この包囲網から這出た兵卒は一兵もいませんでした。動くものすべてに猛烈な射撃を浴びせるロシア軍です。(熊どもも駿河兵の突撃が怖いのです・・・・当然です)

 静岡連隊の将兵は袋の鼠となりました。

 このロシア軍の包囲下において、終始立派な態度でおられた橘周多大隊長と駿河人の駿河人らしい姿を内田軍曹の手記より紹介します。

 帝国陸軍の軍旗は、昭和20年の敗戦まで一度として敵軍に鹵獲されたことがありませんでした。(西南戦争は除外)

 かの名将ナポレオン将軍の部隊ですら敵軍に軍旗を鹵獲されているのです。負け戦の渦中にあって日本陸軍の部隊は軍旗だけは特別な配慮をなしたようです。

 軍旗(連隊旗)は天皇陛下より拝受したものであります。日本そのものともいえます。

 こちらが明治末期、大島虎毅連隊長の時に撮影された静岡34連隊の軍旗であります。

静岡34連隊軍旗.12.09.06.

 まだこの時には布地が残っております。

 日露戦争緒戦の徳利寺の開戦で敵の一弾が軍旗を傷つけたのが最初です。そして首山堡の戦いでここまでになったと思います。

 

 首山堡南方高地の山頂陣地はロシア軍のものとなりました。橘大隊長の後をついで第2大隊大隊長「鈴木則柯」少佐が指揮を執りましたが、ロシア軍の増援に次ぐ増援に抗し切れなかったのでしょう。

 こちらは2個大隊とはいいますが実数は1個大隊半です。兵力は約1500名。

 ロシア軍はこの首山堡南方陣地に対して5個大隊半・・・・約5,500名の兵力を投入したのです。簡単な算数です。

 将校の多くは死傷し、兵卒はそこここに固まる小集団となりました。それでも目前の敵に銃火を放つ意気は保持していたようです。熊の突撃だけは防げましたが、陣地奪回は完全に不可能となりました。

 弱兵の評がある駿河兵でありますが負傷兵以外の後退者はなく、健気にも踏みとどまって戦線を支えています。敵部隊をこの地に留めて置くためです。

 連隊長關谷銘次郎大佐は最後の決断をします。

 児玉恕忠旅団長より増援を受けた予備兵力、第5中隊の2個小隊とともに首山堡陣地に対して突撃をかけます。

 時は午前8時すぎです。

 静岡34連隊第1大隊が首山堡南方陣地を占拠したのは、午前5時45分(公刊戦史より)です。

 ロシア軍に奪回されたのは、午前6時30分ごろ(公刊戦史より)です。僅か1時間に満たない占領でした。

 この事は前線に近い黒牛荘北方高地に陣を敷いていた第3師団司令部より観察されていたのでしょう。また、前線で戦っている静岡連隊第3大隊及び第6連隊が首山堡南方方面よりの銃撃が始まったことで理解されました。それまでは、そちらの方面よりの攻撃が全くなかったからです。

 ロシア軍司令部はかなり優秀であると判断されます。陣地線の一部が占領されると即座に予備兵力を集め奪回を企図します。すばやい処置であるといえます。ただ、日本陸軍の指揮官のほうがより優秀であるだけです。静岡34連隊は陽動部隊であるのです。敵部隊を吸引することが任務なのです。

 兵法の基本は、兵力に疎密をつけることです。敵の寡兵にこちらは大軍で攻めることが常道です。ロシア軍第1軍団首脳部は誤認しました。静岡連隊に大軍を当てた事は間違いではないのですが、他の戦線が手薄になりました。

 第3師団の主攻撃目標は北大山です。この方面で寡兵となったロシア軍に対して1個師団以上の兵力を持って攻撃をかけます。(第3師団の3個連隊及び第5師団の一部)。

 一度配備され戦闘を開始した部隊は他の方面への転用は難しくなります。当たり前の話ですが、1人や2人の人数では有りません。1千名単位の部隊でありますので、確実に敵の脅威がなくなったと判断されるまでは転用は不可能です。

 愉快であります。シベリア第1軍団の2個師団の兵力のうち1個旅団強の兵力を1個連隊が引受けたのですから。他の戦線への影響はかなりのものです。

 ・・・・・・しかし、遂に静岡連隊の勇戦奮闘も限界を迎えます。

 

 

 橘大隊長が腰に砲弾片を受けて倒れられます。大隊の指揮は第6、第7中隊に続いて到着した第2大隊長「鈴木則柯」少佐が執ります。

 2個中隊の増援を受け熊の攻勢を跳ね返します。

 しかし、それまで第1大隊の士気を維持してきた勇将、橘大隊長と中村昌中尉を戦線から失う大打撃を受けました。

 中村第4中隊長代理は、足だけでなく胸部にも銃弾を受けていました。ご当人の記録には触れてありませんでしたが、状況的に夕暮れまで首山堡南方陣地の斜面死角におられたと想像しています。

 橘大隊長は、右手に銃剣による裂傷、左手には銃弾を受けています(指を何本か飛ばしています)そして、腹部に貫通銃創を受けています。その上に砲断片を腰部に受けたわけです。(砲断片による外傷はなし)。

 近年発行された日露戦争関係の書籍には、橘大隊長は砲弾片を受けて腰が砕かれたと記載されたものがありますが・・・・内田軍曹の手記に目を通したほうが良いでしょう。調査不十分であります。まだこの時点では意識もしっかりしており、歩行にも支障はありませんでした。ただ、この砲弾片の打撲傷がその後橘大隊長を苦しめる傷となりました。

 勇敢な将校とその意気に答えるように奮戦する多くの駿河兵の犠牲により、ロシア第1軍団長シタケリベルグ中将の関心はこの首山堡南方高地に引付けられてきます。

 この首山堡南方陣地こそ日本軍の主攻撃目標であると判断したのです。

 第3師団司令部の作戦が成功しつつあります。

 敵将シタケリベルグ中将は予備兵力を首山堡南方陣地に集結させます。公刊戦史を参考にしてその兵力を計算してみます。

 ただ、僅か1個連隊兵力にぶつけるにはあまりにも過剰な兵力であります。

 ・・・・・敵兵力を吸引した代償は、岳南健児(駿河人のこと)の命であります。

 

 上空では榴散弾が散弾の雨をふらせ、地表では榴弾が炸裂する、そのただ中で行われた熊との白兵戦です。

 僅か70名余の静岡連隊第1大隊の兵卒です。

 少数と看破され、一蹴しようかと攻めてくる熊の大軍です。ようやくこちらにも援軍が到着しました。

 第2線に配置されていた、第2大隊の第6、第7中隊です。(第5中隊は旅団予備になっており、第8中隊は予備隊として野砲兵第3連隊の警備についていました。よってこの時点で第2大隊は2個中隊の戦力しか持っていませんでした。)

 2個中隊、約400名の増援です。この増援を得て熊に対して反撃を開始します。

 熊の攻勢は正面からだけではありません。日本軍右翼の方向・・・つまり北大山の方角より攻撃をかけてきました。時間から考えてクラウゼ少将指揮下の部隊にほかなりません。(中村中尉の記録より)

 山頂陣地正面と右翼より攻勢をかけられ戦線が崩れるかと思われる時、増援部隊の反撃が功を奏して熊は退却します。

 しかし、これまで橘大隊長の右腕として前線指揮を取っていた勇敢無比なる「中村昌」中尉は負傷されます。そして、橘大隊長も砲断片をうけ倒れます。

 ついに第1大隊は中隊長以上の指揮官をすべて失いました。

 首山堡南方高地争奪戦末期のお話です。

 

 首山堡南方高地の戦いは、山頂陣地を占領するまでも大激戦でしたが、真の戦いは山頂陣地においてのものです。

 ロシア軍の1部隊でも多くの部隊をこの首山堡南方高地に引付けなくてはなりません。

 僅か70名までも撃ち減らされた静岡34連隊第1大隊の将兵は陣地奪回を企図するロシア兵を迎え撃ちます。

 一派、二派と何とか熊の猛攻を撃退していきますが、こちらの損害も甚大です。散らばっていた第1大隊の将兵も集まってきますが、消耗のほうが激しく兵員数は増加しません。

 それでも頑強に抵抗し後退する気配を見せない静岡連隊の将兵に対して、業を煮やした熊どもは砲撃を行います。

 猛砲撃です!。敵も味方もお構いなく一掃しようかと思われるほどの無差別な砲撃が始まりました。それをみた日本軍砲兵部隊も砲撃を開始します。

 太陽は昇り周囲は光に照らされます。首山堡南方高地は日露両軍の砲弾が雨のように降りそそぎ多くの将兵を吹き飛ばしていきます。

 その中で端然と指揮をとる橘周多大隊長がおり、4名の将校が檄を飛ばし、羅刹のごとく奮戦するわずか70名の駿河兵がいました。

 そこへ第2線に有った無傷の第2大隊の2個中隊、第6、第7中隊が増援にきました。約400名の増援です。窮地の中増援を得て士気揚がる静岡連隊第1大隊の将兵です・・・・・・・しかし熊は更に援軍を得て猛攻をかけてきました。

 この砲弾雨下の戦闘は、黒牛荘(村名)北方に陣を置いた第3師団司令部より観望されたそうです。

 日本軍の砲撃は野砲兵第3連隊(第1大隊欠)により行われました。

 せっかく有力な予備兵力を手に入れたと思ったら・・・・・、すぐに引き戻された気の毒なシベリア第1軍団軍団長「シタケリベルク中将」です。(8月30日、首山堡戦前日のお話です)

 本当に日本軍には幸いです。シベリア第1軍団の2個師団の兵力であれだけの悪戦をしたのですから・・・・、もしクロパトキン将軍の派遣した予備兵力(歩兵1個師団強、砲兵1個旅団弱)が首山堡陣地群に配備されていれば、1日で突破することができない可能性が非常に高くなります。(不可能ではないのかもしれませんが)

 

 目前で日本軍が展開し戦闘準備をしているのですからシタケリベルク中将も落ち込んではいられません。特にロシア軍左翼方面に日本軍の姫路第10師団が攻撃をかけてきたのですから総攻撃間近と見てよいのでしょう。

 即座に首山堡正面陣地の守備隊に予備兵力を送ります。(この時はまだクロパトキン将軍の援軍を当てにしていたようです)

 我らが静岡連隊に関係のある陣地に対する援軍について列挙していきます。

首山堡陣地地名.12.08.29.

 公刊戦史の地図です。

 この配備図は8月29日のものです。初期配置です。

 この陣地正面展開している部隊の補強に予備兵力を送りました。

 赤線が引いてある地名は「方家屯」(ほうかとん)・・・読み方が正しいか?

 青線を引いてある地名は「新立屯」(しんりっとん)・・・同上。

 水色の線を引いてある地名は「北大山」(きたたいさん)です。ここが第3師団及び右翼にある第5師団の一部が攻撃目標とした要所です。

 紫の丸で囲んであるところが、我らの静岡連隊が攻撃をかけた「首山堡南方高地」です。標高148mでありますから、「148高地」と呼ばれても良いのですが203高地と比べてインパクトがないので首山堡南方高地と呼びます。(まあ、首山堡だけでも良いのですが正確さにかけるので)

 なお、静岡連隊の左翼は、日の本の国最強兵団と呼んでも間違いのない「熊本第6師団」です。レーシ大佐が守備する陣地に攻撃をかけました。こちらの方面は静岡連隊の戦闘とあまり関係がないので詳細な調査はしておりません。(この師団で突破できない陣地はどこの師団が攻撃しても駄目です)

 さて、シタケリベルク中将が派遣した予備兵力はどのようなものでありましたか。

 首山堡陣地群を守備しているロシア軍部隊は「シタケリベルク中将」指揮下のシベリア第1軍団です。歩兵2個師団が基幹部隊です。

 シタケリベルグ中将も日本軍の攻撃が激しさを増すことにより総司令官のクロパトキン将軍に対して援軍の要請を行います。

 ここでふと考えるのですが、クロパトキン将軍はロシア軍左翼に大迂回を仕掛けてきた黒木第1軍を最初に攻撃するつもりではなかったか。欧米の観戦武官が「成功の可能性は数%」と称した黒木第1軍の大迂回攻撃です。この時第1軍の兵力は僅か2個師団弱です。

 首山堡には日本軍に兵力では劣る2個師団の兵力を配備しておりましたが、首山堡陣地の堅固さから3倍の兵力(6個師団相当)と互角に戦えるとの判断があったのではないか。首山堡で黒木第1軍を壊滅させるまで時間稼ぎをしてくれればそれで十分であります。

 ロシアきっての名将クロパトキン将軍の各個撃破作戦が成功するか、我らが日本軍が首山堡陣地群を突破するか二つに一つであります。どう考えても黒木第1軍の兵力では多大の期待はかけられません。2個師団弱です(近衛師団と仙台第二師団の一部を残していきました)。

 主攻撃は第2・4軍が担当する首山堡陣地群です。(と判断しています)

 8月30日早朝より姫路第10師団の攻撃はかなりシタケリベルグ中将に対して心理的圧力をかけたようです。中将は即座に援軍要請をクロパトキン将軍に送ります。

 日本軍の多方面からの攻撃にクロパトキン将軍も軍予備兵力よりシベリア第1軍団、シベリア第3軍団に対して援軍を送ります。

 シベリア第1軍団に対して送られた兵力はかなりのものです。

 日露戦争遼陽会戦の研究もそれなりに深くなってきております。

 首山堡の激戦にて、なにゆえ日の本の国最弱の兵(実績なし)であったはずの駿河兵が、歴戦の列強観戦武官をも感激させた勇戦奮闘を遂げたことに端を発した調査であります。

 そんなに凄まじい戦いをしたのかと、疑問に思ってもわかりやすく書かれた資料がないので(又はうそを平気で記載している研究者もいるから驚きです)、一次資料を収集して、信頼できる研究者の資料を参照してまとめております。

 さて、遼陽の戦いでは猛烈な砲撃戦が日露両群の間で展開されました。

 「砲兵が耕し、歩兵が進む」です。定石どおりの火力戦です。

 しかし、この時の砲撃戦で使用された砲弾は多くが「榴散弾」でありました。このことを紹介してくれた資料は兵頭二十八先生の「有坂銃」であります。(私は初版本を東京で購入しました・・・はるか昔の話です)

 そうです大日本帝国陸軍砲兵連隊の装備している野砲は、有坂成章大佐(当時)が設計したものです。

 当時の野砲は基本的に「榴散弾」を発射する砲の事を指しました。現在主流の「榴弾」ではありません。

 こちらが榴散弾の図です。昭和17年の「科学朝日」2月号より拝借しました。

榴散弾.12.09.25.

 これが榴散弾です。

 内部の中心管に詰められている点火薬が発射の時に着火して導火線のように燃え一定長さ(時間)で内部の炸薬に引火し空中で炸裂します。

 中心管内部の点火薬が燃えながら飛んでいくので、曳火(えいか)射撃と呼ばれます。

 この砲弾がどのように敵軍へ被害をもたらすのか。

 日露戦争で一番最初の大会戦が「遼陽会戦」です。

 旅順要塞の攻防戦はまだ始まったばかりです、この戦に勝利しないと日本はより苦境に陥ります。

 真剣勝負の一戦であります。

 

 さて、この遼陽会戦の首山堡戦については、よく黒木第1軍を助ける「助攻」であるといわれております。(戦記物ではよくある話です)

 全体で見れば、遼陽会戦ではロシア軍のほうが日本軍のより兵力、砲力は勝っております。しかし、公刊戦史に記載されている首山堡周辺の兵力の配置図をみると、この首山堡戦に関してはかなり異なった見解が出来そうです。

 

首山堡ロシア軍配置図.12.08.29.

 こちらが首山堡戦2日前のロシア軍の配置図です。

 

 兵力は、シベリア第1軍団とミチェンコ少将率いる騎兵1個師団です。

 簡単に言えば、合計で歩兵2個師団と騎兵1個師団です。

 

 我らが日本軍は、第2軍と第4軍です。

 合計で、歩兵5個師団と騎兵1個旅団(秋山支隊)です。

 

 日本軍有利です。砲力も歩兵の数に比例して日本軍圧倒的に有利です。

 つまり、第2軍、第4軍ともに首山堡を攻略して遼陽に向かう作戦計画であったことは確実であります。決して助攻ではありません。首山堡を突破する用意がありました。

 しかし、攻撃時期について満州軍総司令部にいる小才子井口・松川より口出しされてきます。この会戦時期について雑音が入らなければ周到な準備を行い犠牲を少なく攻略できたことは間違いありません。攻撃時期もそれほど遅くならないことはいうまでもありません。

 雨のため街道はぬかるみ、重量のある砲車の移動には時間がかかりました。ロシア軍より妨害の射撃を受けながらであればなおのことです。しかしこれも1,2日で何とかなる話でした。(距離的に)

 満州軍総司令部の攻撃督促はすべての意味で日本軍には不の効果がありました。第2軍との攻撃開始までのやりとりを見ると非は満州軍総司令部にあります。詳細のリンクはこちら。もう一つ記事を追加しました。

 

『鞍山站、遼陽は男子埋骨の地となす。』首山堡戦(序)

首山堡総攻撃の前日、第2軍司令部の苦悩

 

 満州軍総司令部の小才子どもとは異なり、さすがは歴戦の勇将である奥、野津両大将です。敵に倍する兵力を持ちながら決して敵の防御陣地を侮りません。

 しかし、状況は悪いほうに向かってきました。ロシア軍が逆襲に転じてきました。

 久しぶりの戦争の記事です。

 あくまで歴史的探究心と故人への追悼を目的としたものです。政治的意図はございません。

 

 さて弁解はこのくらいで、「静岡連隊埋骨の地」と呼ばれた首山堡南方高地の激戦であります。

 資料をよく読みまとめてきたつもりですが・・・・基礎的なことが疑問になってきました。

 「ロシア軍の戦力」はいかほどか?

 そうです、会戦当時に陣地に展開していたロシア軍部隊だけでなく、予備兵力として後置したあった部隊も重要な意味を持ってきます。

 内田軍曹の手記をかなり参照してまいりましたが、新たに仕入れました中村昌中尉(橘大隊にて唯一生き残った中隊長です!!!)の手記と公刊戦史をもう一度精読してまとめなおしております。

 研究も深くなってきました。

 参考になる地図はこちらです。

 

遼陽会戦首山堡陣地地図.12.08.29.

 黒塗りの駒の形が兵力を表します。

 横に小さく書いてある数字と記号が部隊名と部隊を表します。

 

 公刊戦史でもページにより多少数字が異なっている部分もございますが・・・・影響が無い範囲ですので・・・。

 この首山堡陣地群を守備しているロシア軍部隊は、「シベリア第1軍団」です。

 軍団長は、「シタケリベルグ中将」

 隷下の部隊は、

 東狙撃兵第1師団(第1連隊、第2連隊、第3連隊、第4連隊)

 東狙撃兵第9師団(第33連隊、第34連隊、第35連隊、第36連隊)

 騎兵旅団(騎兵10中隊、騎砲6門)

 東狙撃砲兵第1旅団

 東狙撃砲兵第9旅団

 東部シベリア工兵第1大隊

 機関銃1中隊

 

 戦力合計

 歩兵24大隊

 騎兵10中隊

 騎砲6門

 砲64門

 機関銃8丁

 工兵1大隊

 以上です。

 この数の兵力がどのように配置されていたのか。

 

 久しぶりの戦争の記事であります。

 昨年板妻駐屯地にて撮影してきました。

 橘中佐の資料では良く紹介されている絵画であります。

 こちらです。

内田軍曹橘大隊長救出の場.12.12.19.

 うまく写真が撮れなくて失礼・・・・。

 

 この状況は首山堡南方高地山頂陣地にて重傷を負われた橘大隊長を、大隊書記である内田軍曹が仮包帯所へお連れする場面です。

 まだこの時点では静岡34連隊第1、第2大隊は山頂陣地を確保していました。

 橘大隊長の傷は両手に擦過傷、腹部貫通銃創、断片による腰部打撲など、かなりの傷を負っておられました。

 簡単に状況を説明します。

 

 首山堡南方陣地に対するロシア軍の砲撃は西北首山の陣地に展開する砲兵部隊より始まりました。

 地図で詳しく記されているものがありました、「歩兵第34連隊首山堡付近の戦闘について」の巻末に添付されていました。

 こちらです。

首山堡南方陣地砲撃図.12.09.07.01.

 

 見難いのですが、首山堡南方高地を砲撃したロシア軍砲撃部隊が記されています。わかりやすいように赤丸で印をつけました。

 1が西北方首山に展開する部隊です。

 2が首山堡南方高地と北大山の間の鞍部に展開する部隊です。

 首山堡南方高地を砲撃した部隊は上記2つの部隊であります。

 

 では、我ら日本軍を援護する野砲部隊はどこに展開していたのか?

 静岡県護国神社の遺品館は静岡に縁のある部隊で散華した方の遺品が数多く展示してあります。

 もちろん生還した勇姿の記念の品もございます。

 ただ、量が非常に多いので(特に太平洋戦争当時)、展示場所が様々である事が欠点でありますが、保管状況はほかでは見られない良好な状態です。

 高校生の時はよくこの遺品館に立ち寄り展示の品々を見て回りました。

 

 今回は年齢相応に知識と展示品の価値がわかるようになったので、以前と違った角度から拝見しております。

 今回目玉となりましたものは、「歩兵第34連隊首山堡付近の戦闘について」という小冊子です。

 第34連隊首山堡附近の戦闘について.12.09.07.

 古い小冊子です。コピーです。

 この小冊子は、34連隊第1大隊の中隊長でありました木下秀次郎中隊長のご子息から寄贈されたものです。

 木下中隊長は病気の為首山堡戦の前に野戦病院に入院した為、代わって中村昌大尉が指揮を取りました。

 木下中隊長は復帰し沙河の会戦で負傷いたしました。

 この記録は、公刊戦史の不備を補う為中村昌大尉が書かれたものです。

 私が知る限り1級の資料です。

 こちらもおいおい紹介します。

 

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 日露戦争

 午前5時45分(公刊戦史より)、日章旗が首山堡南方高地にひるがえりました。

 まだ辺りは、薄く朝もやに包まれていました。

首山堡南方陣地より東方を望む.12.09.04.

 こちらの写真は、遼陽占領記念写真帳(博分館)より拝借しました。

 ほとんど身を隠すものがありません。木もほとんど生えていない、岩だけの禿山のようです。

 射撃の標的のようになりながら、この陣地に肉薄し白兵戦を行った静岡連隊第1大隊です。残存兵力は僅かに約70名。

 この時静岡連隊だけが敵陣に取り付き白兵戦を展開したのです。

 彼我の死体が累々として相交じり、悲壮な光景であったようです。

 熊はあきらめておりません。直に新鋭部隊を繰り出してきます。

 また、熊の咆哮です。「ウラー」、「ウラー」を連呼しながらの熊の突進です。

 

 首山堡一帯を守備している「西シベリア第1軍団」司令部の関心は、首山堡南方高地に引付けられました。

 作戦は成功しつつあります。

 この時の状況は、第1堡塁を攻撃した時と同じ状況でした。

 掩体にこもるロシア兵に撃ちすくめられ、進むことが出来なくなりました。

 

 戦線にいた将校は、橘大隊長、片寄副官、中村第4中隊長代理、第3中隊中野中尉、第4中隊高瀬少尉の僅か5名。その他の将校はすべて死傷。

 勇敢な下士官の指揮により戦線を維持し、兵卒同士励ましあって退却を防止している・・・・惨めな状況でありました。

 

首山堡山頂.12.04.01.04.

 

 上の地図で、黄色で囲った部分が首山堡南方高地の山頂陣地です。周囲僅かに3、40mくらいの小拠点でありました。ここが首山堡で一番標高が高い位置にある陣地であります。

 左の青いまるで囲ったところは、静岡連隊第3大隊です。隣の高地におります。

 右の緑の丸の部分が、北大山です。こちらからも銃撃を受けていました。

 

 周囲のからの十字砲火の中、攻撃が停滞し・・・・完全に手詰まりの感がありました。

 

 その中で立ち上がった方が「中村昌」第4中隊長代理です。

 右手に軍刀、左手に拳銃を持ち、形相勇ましく突撃命令を下します。

 遂に第1堡塁を占拠します。

 公刊戦史では、午前5時20分です。

 下の絵は「図説 日露戦争」に収録されている当時の絵です。

第1塁に突撃する橘大隊長.11.12.08.

 もちろん想像図でありますが、なにか雰囲気が伝わってきます。

 橘大隊長に魅せられた第1大隊の将兵は奮戦します。

 

 白兵戦が不得意といえども、熊を相手に一歩も引きません。

 有史以来強兵と言われたことがない駿河人の白兵戦です。

 首山堡南方高地にあるロシア軍第1陣地に取り付く前に、ロシア軍の十字砲火にさらされ攻撃が一時頓挫しました。

 すでに中隊長2名が戦死しております。

 静岡連隊第1大隊の孤軍奮闘です。

 

 第3師団では左から、静岡34連隊、名古屋33連隊、名古屋6連隊、豊橋18連隊と並んで攻撃をかけました。

 敵陣肉薄しているのは、静岡連隊と名古屋6連隊だけでした。

 

 この模様を、「回顧30年 日露大戦を語る」 東京日日新聞社 昭和10年発行より、当時第6連隊の中隊長を勤めておられた松井石根大将の記録を紹介します。

 

 『そうこうしているうちに夜が明けた。

 見るというと右の方に第18連隊、左の方に第33連隊、その次に第34連隊がいるはずであるのに第18連隊も第33連隊も来ていないで、ずっと向うの崖の中腹に第34連隊の一部が噛り付いているのがわかった。

 即ちそれが橘大隊であった。

 橘大隊は緩斜面のところでしばしば逆襲を受けてやられたのだが、僕のところは非常な急斜面で彼我の距離が50mくらいしかなく、敵の話が聞こえるくらいだったから、敵が我らを突き落とそうと思えば容易であるのだが、地形があまりに急傾斜であったのと、友軍の第18連隊か何かが右の方から援護射撃を盛んにしてくれたため、敵はとうとう出て来れなかったので、それでわれわれは持ちこたえられたのである。』

 

 

橘周太大隊長.11.05.04. 

 上の写真は、長崎橘神社にあります「橘周太大隊長」の写真です。

 

 静岡連隊第1大隊は窮地に陥っていました。

 第1大隊と同じく左1線を任された第3大隊は暗夜のため道を見失い隣の高地に攻撃をかけていました。後続しているはずの第2大隊とは、こちらも暗夜のため連絡を失いました。

 この時は、撃ち減らされた第1大隊だけしかありませんでした。

 遂に橘大隊長、「突撃」の命を下します。

 明け方の薄暗い首山堡に、初めて突撃ラッパが鳴り響きます。

 今日が首山堡祭の日であります。

 現在行われているかどうかは不明ですが・・・・・。

 平成24年11月23日 板妻の普通科34連隊公報の方より、首山堡際は8月最終日曜日に行われていることをお知らせいただきました。

  

 108年前の今日、首山堡南方高地に対して静岡連隊が突撃をかけます。

 僅か5時間でこの首山堡は岳南健児(駿河人のこと)埋骨の地となるわけです。

 時系列的にまとめていきます。

 

 午前2時30分静岡連隊第1大隊は移動を開始します。

 大築第1中隊を右1線、安藤第3中隊を左1線

 青山第2中隊を右2線、中村第4中隊を左2線

 に配置して前進します。

 

 この時の道案内は昨晩より将校斥候の任についていた小原田軍曹です。

 

 全軍粛々と前進します。

 月明かりが反射するので小銃に着剣はしません。虫の音ににせた音色の笛で連絡を取ります。

 高地7合目附近に設けられた敵の第1塁まで、6,70m程の距離から突撃を開始します。

 時刻は午前4時です。

 静岡連隊の戦闘は、首山堡南方高地で行われました。

 この時の先陣は橘大隊長が率いる第1大隊です。もう一つの先陣である第3大隊は暗夜のため道を間違い隣の高地に攻撃をかけました。(南方高地の西側の高地)

 第2線(後続)の第2大隊はこちらも暗夜のため第1大隊と距離が離れてしまいました。

 

 当然ですが、なれぬ敵地でしかも暗夜(月は出ているが)では道を迷うのは必然です。

 このため払暁攻撃は橘大隊の単独攻撃となりました。

 この戦闘を詳細に物語ることが出きる方は「内田清一軍曹」であります。

 この内田軍曹の著書「ああ彼の赤い夕陽」を主に、公刊戦史等を肉付けして紹介します。

關谷銘次郎連隊長

 こちらは、關谷銘次郎連隊長のお孫さん(もちろん私よりかなり年齢は上の方です)より頂戴した、關谷連隊長の写真です。

 私が入手した中で一番綺麗に写っている写真です。

 

 内田軍曹の記録では、首山堡戦の始まりは關谷連隊長と橘大隊長の別れのシーンから入ります。

 もし、映画が造られるとすれば首山堡戦で一番重要な場面になるところです。

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