關谷鉻次郎連隊長の最近のブログ記事

 私のうちには父の購入した「坂の上の雲」が全巻ありますが、私は読んだことがありませんでした。確かハードカバーの本で1冊350円でしたから、父の購入した時期は私の生まれる前でしょう。

 中学校か小学校高学年位に一度ページを開いたことがありましたが、当時では難しすぎたのか、それとも私と相性が悪かったのか読む気がしないまま時がたちました。司馬遼さんの作品はそれなりに購入して読んでおりますが、なぜか今でも坂の上の雲は読む気になれません。

 それでも参考までにと県立図書館で司馬遼さんの全集から「遼陽」の項だけコピーして目を通しました。

 

 ・・・・・・・・・・。

 

 なんと申しますか、作家の作品に資料的な価値を求めては悪いのですが、これはかなりひどい作品であると感じます。同じ作家である児島襄さんの「日露戦争」のほうはそれでも公刊戦史に目を通してあることはうかがえます。(それでも私ですらわかる誤記・誤認があります)。

 司馬遼さんは公刊戦史にすら目を通していません。綿密な資料調査で有名な司馬遼さんですら気が付かなかったのか、気が付いてもあえて面倒であったのか判りませんが、日本の公刊戦史を参照されていないため時系列的に話が並んでいません。

 私が読んでみて、話があちこちに動いてしまっていて判り難い、話の前後に矛盾が生じていることがかなり気になりました。

 そしてそれ以上に個人攻撃がひどい。戦後進歩的文化人が行った中傷合戦と重なるような感じがしました。あまり細かい点を挙げていくと坂の上の雲のファンにやられる恐れがあるのでいくつかのみ挙げてみます

 關谷連隊長について記事を書いておりますが、一番肝心なお名前のほう誤認しておりました。一昨年より新たな記事では修正を始めておりますが、ここでご報告いたします。

 關谷連隊長のお名前は、銘次郎(めいじろう)と表記してきましたが、正しくは鉻次郎(かくじろう)がです。

 金と名の銘ではなく、金の各で(鉻)であります。

 これは關谷連隊長の御子孫の方が一昨年メールにてお知らせくださいました。私も即手持ちの資料を総動員して再調査を行いましたが、出た結論は「鉻次郎」でありました。

 ここまで關谷連隊長のお名前について書かなかった理由は、いろいろ他の調査と重なったことと、なぜ私が銘次郎と誤認したのか(当初は鉻次郎が誤植と考えていました)、理由を調べないと気がすまなかったので時間をかけました。

 静岡連隊の公刊戦史である「歩兵34連隊史」ではもちろん「鉻次郎」です。当時の新聞である「静岡新報」も振り仮名をふって「鉻次郎」(かくじろう)であります。

 そして何より關谷連隊長が寺内正毅元帥に出されたお手紙のお名前も「鉻次郎」であります。ここまでくると迷うことはありません。本人の署名が一番正しくて当然です。

 誠に失礼なことをいたしました。

 カテゴリーについては今年中には変更しておきます。一昨年以前の記事については・・・・とりあえずそのままにさせていただきます。理由は、パソコン検索では「銘次郎」で検索されるからです。誤解にせよ私以外の歴史研究をされている方も關谷連隊長のお名前に関して誤認をされていると思われます。段階をおいて変更していきます。

 では、なぜ私が連隊長のお名前を誤認をしたのか・・・・・

静岡連隊の遼陽会戦。

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 静岡連隊の遼陽会戦、首山堡の激戦について紹介してまいりました。

 首山堡の激戦カテゴリーのほうにそれまでの記事があります。

 続き物のお話は下のページにまとめてあります。

静岡連隊首山堡の激戦 『24編まとめページ』

静岡連隊首山堡の激戦 『資料編』

 

 すべてまとめてはいませんが少しは見易くなったかと。

 

 また資料を入手いたしましたのでより詳細に遼陽会戦についてしょうかいしてまいります。

 こちらは「日露戦争実記」にあります、關谷鉻次郎連隊長のお写真です

關谷連隊長.15.01.09.

 遼陽大決戦の勇将と題してあります。

 關谷連隊長を中心に砲兵第14連隊連隊長及び砲兵第6連隊長のお写真もあります。

 この日露の戦いが火力戦である事の証左でもあります。砲兵が耕し歩兵が占領するのです。静岡連隊の首山堡戦も変則的ですがその定石にほかなりません。静岡連隊撃退に向かってきたシタケルベルグ中将取っときの予備兵力一個旅団半の戦力は、首山堡南方高地周辺で日本軍野砲兵連隊の猛射を受け甚大なる損害を受けたと推察されます。(ロシア軍は自軍の損害を改竄する癖があるので公表された数値は信頼できない)

 第3師団の主目標である「北大山」陣地を破壊したのも徒歩砲兵部隊の火力でありました。砲兵の役割は重要であることが全軍に認識されていたのでしょう

 遼陽会戦は9月4日、遼陽城占拠を持って終結しました。

 ロシア軍が首山堡防御線を撤退した3日後のことであります。

 日露両軍とも勝利を宣言した珍しい戦いでもありました。

 日本軍はもちろん遼陽城占拠とロシア軍の撤退が勝利の根拠ですが、ロシア軍は予定の撤退であり日本軍に対して多くの消耗を強いた戦いであることが根拠になっています。

 第3者としてこの戦場にいた多くの外国観戦武官はどのように見ていたか?。こちらのほうは詳しく調べていませんが日本軍勝利の印象が強かったと考えています。

 彼らですら不可能であろうと考えていた首山堡陣地を1日で突破してしまったのですから、「日本軍侮るべからず」との思いを強くしたのでしょう。

 勝敗の分岐点となった「北大山」一番乗りをなした市川紀元二少尉が最高の栄誉に輝いたことは異論の無い所です。(小才子の井口・松川は・・・・・面白くない所でしょう)

 しかし、参加部隊の中で最大の敵兵力と激戦を行い、最大の損害を出した静岡歩兵34連隊には部隊感状はありませんでした。公には何等功績が無いことであります。

 理由は一つ、攻撃目標である首山堡南方高地を占領できなかったことであります。

 ・・・・・・・・・・・。

 部隊配置とそれぞれの攻撃目標を見れば一目瞭然、静岡連隊が首山堡南方高地を占拠できる可能性は万に一つもありません。北大山には1個師団に相当する兵力で攻撃したことに対し、ロシア軍予備兵力が集結する地点に近い首山堡南方高地には静岡連隊の僅か1個連隊のみの兵力しかありません。

 敵予備兵力の吸引・拘束が任務であると考えるべきです。この点立派に任務を果たしました。圧倒的なロシア軍の反撃にずたずたにされ組織的抵抗ができなくなっても、なお踏みとどまり戦線を支えました。

 「健気」、この言葉がしっくり来ます。第2軍に従軍していた欧州の観戦武官が感心したものは、堅固な陣地に突撃し白兵戦を展開する日本軍将兵の健気さでありましょう。

 

 準備不足を承知で關谷連隊長が攻撃命令を受け入れた理由が見えてくるような気がします。

 題名は、私の好きな作家「佐藤愛子」さんの「戦いすんで日が暮れて」より拝借しました。

 必死に戦ってきた中、日が落ちると共に戦闘は終了し、辺りを眺めながら今日一日の出来事が頭の中を走馬灯のように流れ、呆然としている静岡連隊将兵の様が浮かんできます。

 橘大隊長のご遺体を前にした内田軍曹の姿に近いものがあります。

 待ちに待ったロシア軍の包囲網から突破する好機が来た時にはすでに橘大隊長は亡く、命に代えてもと誓った自分が生き延びてしまった現実が内田軍曹を打ちのめします。

 ありあわせのもので急造の担架をこしらえ橘大隊長のご遺体を運ぶ手はずを整えます。

 この時まだ第3師団は総攻撃の最中です。大島師団長の1日は首山堡が陥落するまで終わらなかったようです。

 盛んな砲声を耳にし附近の兵に内田軍曹が命じます。

『「今に増援隊が前進してきたら、健者傷者の区別なく、いやしくも射撃の出来るものは、ことごとくこの壕の前崖によって、高地上の敵に向かって援護の急射撃を加え、増援隊の突進を援けると共に戦友の英霊を慰めよう。」

 と申し合わせて、弾薬を拾い集めて腕を扼しつつ待ちわびたが、はるかに微弱な銃声が聞こえるのみで、容易に増援隊の近づいてくる気勢は見えなかった。』

 戦意衰えを見せない静岡連隊の将兵です。この時の戦意を支えていたのは戦死者に対する追悼の気持ちだけでありましょう。

 前線に友軍は姿を見せず、内田軍曹は5名の兵士と共に橘大隊長のご遺体を急造担架で運びます。ロシア軍の包囲網からの脱出です。

 

 一方、第3師団よりこの日の戦況報告を受けた第2軍司令部には激震が走りました。關谷連隊長、橘大隊長戦死、歩兵第34連隊死傷者多数。

 容易な戦いと楽観はしておりませんでしたが、これほどの損害がでるとも想像を超えていました。「ああ静岡連隊」には、静岡連隊の死傷者数をどのようにして郷土静岡に報告するか悩んだとあります。

 

 帝国陸軍の軍旗は、昭和20年の敗戦まで一度として敵軍に鹵獲されたことがありませんでした。(西南戦争は除外)

 かの名将ナポレオン将軍の部隊ですら敵軍に軍旗を鹵獲されているのです。負け戦の渦中にあって日本陸軍の部隊は軍旗だけは特別な配慮をなしたようです。

 軍旗(連隊旗)は天皇陛下より拝受したものであります。日本そのものともいえます。

 こちらが明治末期、大島虎毅連隊長の時に撮影された静岡34連隊の軍旗であります。

静岡34連隊軍旗.12.09.06.

 まだこの時には布地が残っております。

 日露戦争緒戦の徳利寺の開戦で敵の一弾が軍旗を傷つけたのが最初です。そして首山堡の戦いでここまでになったと思います。

 

 首山堡南方高地の山頂陣地はロシア軍のものとなりました。橘大隊長の後をついで第2大隊大隊長「鈴木則柯」少佐が指揮を執りましたが、ロシア軍の増援に次ぐ増援に抗し切れなかったのでしょう。

 こちらは2個大隊とはいいますが実数は1個大隊半です。兵力は約1500名。

 ロシア軍はこの首山堡南方陣地に対して5個大隊半・・・・約5,500名の兵力を投入したのです。簡単な算数です。

 将校の多くは死傷し、兵卒はそこここに固まる小集団となりました。それでも目前の敵に銃火を放つ意気は保持していたようです。熊の突撃だけは防げましたが、陣地奪回は完全に不可能となりました。

 弱兵の評がある駿河兵でありますが負傷兵以外の後退者はなく、健気にも踏みとどまって戦線を支えています。敵部隊をこの地に留めて置くためです。

 連隊長關谷銘次郎大佐は最後の決断をします。

 児玉恕忠旅団長より増援を受けた予備兵力、第5中隊の2個小隊とともに首山堡陣地に対して突撃をかけます。

 時は午前8時すぎです。

 日露戦争で一番最初の大会戦が「遼陽会戦」です。

 旅順要塞の攻防戦はまだ始まったばかりです、この戦に勝利しないと日本はより苦境に陥ります。

 真剣勝負の一戦であります。

 

 さて、この遼陽会戦の首山堡戦については、よく黒木第1軍を助ける「助攻」であるといわれております。(戦記物ではよくある話です)

 全体で見れば、遼陽会戦ではロシア軍のほうが日本軍のより兵力、砲力は勝っております。しかし、公刊戦史に記載されている首山堡周辺の兵力の配置図をみると、この首山堡戦に関してはかなり異なった見解が出来そうです。

 

首山堡ロシア軍配置図.12.08.29.

 こちらが首山堡戦2日前のロシア軍の配置図です。

 

 兵力は、シベリア第1軍団とミチェンコ少将率いる騎兵1個師団です。

 簡単に言えば、合計で歩兵2個師団と騎兵1個師団です。

 

 我らが日本軍は、第2軍と第4軍です。

 合計で、歩兵5個師団と騎兵1個旅団(秋山支隊)です。

 

 日本軍有利です。砲力も歩兵の数に比例して日本軍圧倒的に有利です。

 つまり、第2軍、第4軍ともに首山堡を攻略して遼陽に向かう作戦計画であったことは確実であります。決して助攻ではありません。首山堡を突破する用意がありました。

 しかし、攻撃時期について満州軍総司令部にいる小才子井口・松川より口出しされてきます。この会戦時期について雑音が入らなければ周到な準備を行い犠牲を少なく攻略できたことは間違いありません。攻撃時期もそれほど遅くならないことはいうまでもありません。

 雨のため街道はぬかるみ、重量のある砲車の移動には時間がかかりました。ロシア軍より妨害の射撃を受けながらであればなおのことです。しかしこれも1,2日で何とかなる話でした。(距離的に)

 満州軍総司令部の攻撃督促はすべての意味で日本軍には不の効果がありました。第2軍との攻撃開始までのやりとりを見ると非は満州軍総司令部にあります。詳細のリンクはこちら。もう一つ記事を追加しました。

 

『鞍山站、遼陽は男子埋骨の地となす。』首山堡戦(序)

首山堡総攻撃の前日、第2軍司令部の苦悩

 

 満州軍総司令部の小才子どもとは異なり、さすがは歴戦の勇将である奥、野津両大将です。敵に倍する兵力を持ちながら決して敵の防御陣地を侮りません。

 しかし、状況は悪いほうに向かってきました。ロシア軍が逆襲に転じてきました。

 關谷銘次郎連隊長が士官学校に入学されたのが明治10年、17歳の時です。

 その後士官学校の機構が改編されたので、旧陸士または士官生徒と呼ばれます。

 Wikiでもありますが、關谷連隊長は士官生徒3期です。

 これは、護国神社遺品館にあります、日露戦闘時34連隊第1大隊の中隊長でありました木下秀次郎中隊長の残された記録、「歩兵第34連隊首山堡付近の戦闘について」にも記載がありました。

 そのため間違いなく士官生徒(旧陸士)3期であると認められます。

 (基本的にはWikiは証拠として考えておりません・・・残念ながら)

 

木下文書.12.09.07.

 こちらが証拠の木下文書です。

 といいましても、もちろん他にも確認できます。

 明治10年陸軍士官学校へ入学した生徒は第3期生であることは、「陸軍士官学校」という資料で確認できます。また、柴五郎さんの資料でも明治10年に入学されたことが記されております。

 

 この士官生徒3期の方で主要な人物の名前が、「陸軍大学校」昭和48年12月発行の書籍に記載がありました。

 紹介します。

 現在調査を行っております、静岡第34連隊連隊長「関谷銘次郎」大佐です。

 資料があまりないので、資料集めが専らです。

 こちらの写真は博文館発行の「日露戦争実記」にありました、關谷銘次郎連隊長とご家族の写真です。

關谷銘次郎連隊長と家族.11.12.08.01.

 「地震学事始」を書かれた橋本万平さんが取材された方は、次女喜代(きよ)さん(写真の文字は誤記です)と三女菊子さん、そして四郎さんの3名です。

 橋本さんのおかげで關谷連隊長の年表を作れるようなものです。

 年表を作成するに当たって参考にしました資料は、

 「征露岳南武鑑」(主にこちらを参考にしました)

 「地震学事始」 橋本万平著

 「第34連隊史」

 「明治三十七八年戦役実話精神教育資料」

 「朝日新聞記事」

 「ああ、静岡34連隊」

 「日露戦争実記記事」

 「静岡新報記事」

 以上です。

 年表を正確に作るため複数の資料を参考にしました。(できるだけ一次資料になりうる物を参考にしました)

 2回目になりますが、岡部にあります曹洞宗「常昌院」に伺いました。

 この常昌院にあります木像は、すべて旧志太郡の戦死者(日露戦争)であるわけですが、唯一志太郡以外の方が祀ってあります。

 

 はい、もちろんその方こそは「関谷銘次郎」連隊長です。

 こちらです。

關谷連隊長の木像.12.09.13.

 今回こちらの常昌院にお伺いしたわけは、こちらの關谷連隊長の木像の謂れとなにか資料を拝見できればと思い立ったわけです。

 さて・・・・結果は・・・。

 静岡連隊の戦闘は、首山堡南方高地で行われました。

 この時の先陣は橘大隊長が率いる第1大隊です。もう一つの先陣である第3大隊は暗夜のため道を間違い隣の高地に攻撃をかけました。(南方高地の西側の高地)

 第2線(後続)の第2大隊はこちらも暗夜のため第1大隊と距離が離れてしまいました。

 

 当然ですが、なれぬ敵地でしかも暗夜(月は出ているが)では道を迷うのは必然です。

 このため払暁攻撃は橘大隊の単独攻撃となりました。

 この戦闘を詳細に物語ることが出きる方は「内田清一軍曹」であります。

 この内田軍曹の著書「ああ彼の赤い夕陽」を主に、公刊戦史等を肉付けして紹介します。

關谷銘次郎連隊長

 こちらは、關谷銘次郎連隊長のお孫さん(もちろん私よりかなり年齢は上の方です)より頂戴した、關谷連隊長の写真です。

 私が入手した中で一番綺麗に写っている写真です。

 

 内田軍曹の記録では、首山堡戦の始まりは關谷連隊長と橘大隊長の別れのシーンから入ります。

 もし、映画が造られるとすれば首山堡戦で一番重要な場面になるところです。

 『鞍山站(あんざんてん)、遼陽は男子埋骨の地となす。』この言葉は橘大隊長の手紙に書かれていた言葉です。

 8月20日前後に書かれた手紙に記されておりました。

 

 鞍山站の防御線では日露両軍の決戦が行われると将兵すべてが考えておりました。(鞍山站防御線は黄色で囲った部分です)

 それが・・・・・空振りです・・・・。

 

遼陽ロシア軍防御線.12.08.27.1. 以下、私の勝手な解釈です。 

 総司令部参謀井口・松川はあわてます。

 井口も松川も、なぜロシア軍がせっかく手間をかけて作ったものを簡単に手放すのか理解できなかったのです。(当然野戦軍の撃滅を目的とすれば陣地は1手段に過ぎないものです)

 一言で言えば貧乏性、もう少し突っ込むと相手の心が理解できない「自己中」野郎であります。

 

 鞍山站陣地を占拠した28日公刊戦史では次のように記載されています。

 『鞍山站附近の敵兵陣地を捨てて退却せしにより総司令官は敵の更に遼陽附近において真撃なる戦闘を交うるや否やを疑い前計画のごとく一度この線上に開進するか如きは徒に敵に余裕を与うるものとなし機を失せず追撃を継続し・・・(略)』

 つまり、敵に余裕を与えず追撃しろと言うことです。

 

 翌29日には、総司令部(井口・松川)の判断と第2軍参謀本部(落合参謀長)との間に軋轢が生まれます。

 この記録は、司馬遼さんが参考にした「機密日露戦史」から抜粋します。

 現在、静岡連隊の記録を整理しております。もちろん遼陽の会戦のところだけですが、かなりボリュームがあります。

 昔の新聞『静岡新報』を調べていましたら、關谷連隊長及び静岡連隊の勇将の記事がありました。よく見比べてみると・・・『征露岳南武鑑』の記事はこの静岡新報が元になっている事が分かりました。

 明治37年9月11日の静岡新報に『地震学の泰斗と戦死せし關谷大佐』と言う題名で記事があります。

 内容は先に紹介しました記事とほぼ同じでありますが、異なる部分を紹介します。

(文字が判別できない部分は○とします)

(前略)地震学研究者の奨励金にあられたき旨申し込まれたる学友松井直吉氏○力して關谷奨学金と命名し今尚大学に保存しありと言う。この後地震学は今の理学博士大森房吉氏關谷博士の遺志を継承して専ら之が研鑽に従事し日本をして世界における最も地震学の進歩せし国と稍せしむるにいたりし次第なり。

 兄弟共に国家の為その職に殪る(たおる)家門の光栄むしろこれにすぎたるはあらざるべし。

 ・・・・やはりこの記者もそのように感じたのでしょう。決しておべんちゃらではありません。ただ、關谷清景博士、関谷銘次郎大佐共に出世にはまるで関心のない方である上に、是非の判断に厳しい方であるので、おそらくは煙たがられていた方であったと想像しております。

 

 橋本万平さんの著作『地震学事始 : 開拓者・関谷清景の生涯』。 に書かれておりますが、関谷清景博士のお墓は兵庫にあります。こちらに訪れた方はほとんどいないそうです。ただ確認は出来ておりませんが、今村博士が何時の頃か学生を連れてお参りに見えたそうです。

 『東京大学百年史・資料3』に關谷博士の奨学金の記載がありましたのであわせて紹介します。

 

 橋本万平さんの著作『地震学事始 : 開拓者・関谷清景の生涯』。  

 この本と出会ったことで關谷銘次郎連隊長のお人柄について幾分か知ることが出来ました。橋本さん苦心の作でありますこの著書には私は心から感謝しております。  

 橋本万平さんは2006年に亡くなられております。享年93歳。  

 橋本さんと私全く接点はないのでありますが近い部分があるようです。橋本さんの著書に『素人学者の古書探求』(東京堂出版)があります。私のこのカテゴリーは古書探求です。知らず知らずですが同じような言葉を使っております。  もちろん橋本さんの『素人学者の古書探求』は図書館より借りてきて拝見しました。本のなかで自分も経験があることが出てくると相槌を打ちながら楽しく読ませていただきました。  

 私は完全な素人でありますが、僅かでも橋本さんの労に報いたく一つのエピソードを紹介いたします。關谷清景博士の奨励金です。   

 『地震学事始 : 開拓者・関谷清景の生涯』を御覧になりました方、こちらのエピソードも参考にしてみてください。  出典は静岡県立図書館に所蔵されております「征露岳南武鑑」明治40年11月11日発行(非売品)です。  静岡県軍人伝の關谷銘次郎大佐の項にありました。  

 紹介します。

 橋本万平著 『地震学事始 : 開拓者・関谷清景の生涯』。この本を拝見いたしましていろいろ面白い記事がたくさん書かれておりました。


 関谷銘次郎連隊長の事を紹介する前に、この方を紹介します。

 
 向坂兌さんです。この方と関谷博士はロンドンで一緒でした。向坂さんは法律の勉強で留学しましたが28歳で亡くなりました。

 この方の姉様が、名古屋大学第三代学長勝沼精藏博士の御祖母様であります。(山梨医大紀要 勝沼精藏先生の嘆息-杉浦重剛撰文「向阪兌之墓」-)より

 勝沼博士は静中で増井博士より3級上です。お生まれは兵庫県ですが静岡市でお育ちになりました。(当時も静岡市です)


 こう見ていきますと(こじつけに近いですが)静岡と縁のある方が集まってきました。


 さて、本題の関谷銘次郎連隊長の記録です。

 

 この記事は平成23年12月23日に作成しました。

静岡県立図書館にてこの本を借りてきました。(腰が悪くなった日です)


 丁度、県立大学の図書館から借りた本の期限が来たのでついでに借りました。


 関谷清景博士は関谷銘次郎連隊長のお兄様でいらっしゃいます。生誕の地の碑が地元の方の手により造られ現在にも残ります。この場所は関谷連隊長の生誕の場所でもあります。場所は岐阜県大垣駅のすぐそばです。


 関谷博士は東京帝国大学にて山川健次郎博士と同じ時期に教授を務めていらっしゃったようです。

 学士という言葉はこの明治の世に生まれた言葉でしょうが、関谷博士や山川博士の伝記を拝見しておりますと、正に学問の士(侍)の意味で作られたのではないかと思います。

 戦場ではなく研究に命をかけた侍であります。関谷家は兄弟で両方の方面で偉業をなしたと言えます。


 さて、その『地震学事始 : 開拓者・関谷清景の生涯』の結びの部分の一部を紹介します。橋本万平さんがなぜ関谷博士の伝記をまとめる事になったのかわかります。

 

 この記事は平成23年12月22日に作成しました。

 関谷銘次郎連隊長の資料を調査しておりますが、私随分そそっかしい男でして目を通していて紹介する事を忘れておりました。


 関谷連隊長の銅像の碑文です。現在実物は静岡の沓谷にあります陸軍墓地に現存します。この碑文の写しが「歩兵第34連隊史」に記載されておりました。


 この文章の中に関谷連隊長の御家族の事が記載されております。関谷連隊長は岐阜県大垣市の御出身です。


 お父様は、岐阜県士族関谷玄助氏

 お兄様は、世界初の地震学者、理学博士関谷清景。
 岐阜県の偉人として紹介されております。また、wikiにも紹介されております。
 リンクです。
 
公報おおがき
 WIKIです。

 国立科学博物館地震資料室


 関谷博士は明治29年結核の為亡くなりました。 関谷博士の伝記『地震学事始 : 開拓者・関谷清景の生涯』と言う書籍があります。静岡県立図書館にありますので読んでみます。

 wikiの関谷博士の記事には、関谷銘次郎大佐の事は何も書かれておりませんでした。詳しい理由は分かりませんが・・・(軍人と言う理由でしょうか)


 関谷銘次郎連隊長の碑文は銅像の件と一緒に紹介します。

 

 この記事は平成23年12月16日作成しました。

 

やまひこ農園のHPリニューアルしました。(4月20日.2015)

 

やまひこ農園HPトップページ

やまひこ農園トマト栽培

やまひこ農園まくわうり栽培

やまひこ農園スイカ栽培

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 本日、やまひこ農園の野菜を放射能検査にだすため珍しく焼津に行きました。


 帰りに、日露戦争の英霊を木像にして祭ってあります岡部の常昌院に向いました。


 「ああ、静岡連隊」にも記事がありましたが、関谷銘次郎連隊長以下227柱の立像が安置されているとの事。(こちらの旧地名で志太郡の地域の戦死者を1体1体の木像に名前を書いて祭ってあります)


 こちらが常昌院です。

常昌院

曹洞宗のお寺です。

 

 この記事は平成23年12月13日に作成しました。

関谷銘次郎連隊長

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 関谷銘次郎連隊長についてその後も調査しておりますが・・・関谷連隊長の記載がある小伝も古書もありませんでした。

 インターネットで検索したら・・・・私のブログが幾件もヒットしました・・・・内容は見なくても判っております。


 そのため、「ああ、静岡34連隊」「ああ彼の赤い太陽」に少し記載がありましたので紹介します。

 HPの記事で関谷銘次郎大佐は上原勇作元帥、秋山好古大将と陸軍士官学校で同期だと記載されていましたが・・・確認できる資料がないので確信がありません。


 こんなに記録の無い方でありますが(理由が不明です)、静岡連隊の将兵から慕われた連隊長であった事はまちがいがありません。新聞記事ですが下のリンクよりどうぞ。

『思い出す8月31日』・・・その2 関谷連隊長 (静岡新聞記事)

 

 この記事は平成23年10月26日に作成しました。

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