橘周太大隊長の最近のブログ記事

 題名は、私の好きな作家「佐藤愛子」さんの「戦いすんで日が暮れて」より拝借しました。

 必死に戦ってきた中、日が落ちると共に戦闘は終了し、辺りを眺めながら今日一日の出来事が頭の中を走馬灯のように流れ、呆然としている静岡連隊将兵の様が浮かんできます。

 橘大隊長のご遺体を前にした内田軍曹の姿に近いものがあります。

 待ちに待ったロシア軍の包囲網から突破する好機が来た時にはすでに橘大隊長は亡く、命に代えてもと誓った自分が生き延びてしまった現実が内田軍曹を打ちのめします。

 ありあわせのもので急造の担架をこしらえ橘大隊長のご遺体を運ぶ手はずを整えます。

 この時まだ第3師団は総攻撃の最中です。大島師団長の1日は首山堡が陥落するまで終わらなかったようです。

 盛んな砲声を耳にし附近の兵に内田軍曹が命じます。

『「今に増援隊が前進してきたら、健者傷者の区別なく、いやしくも射撃の出来るものは、ことごとくこの壕の前崖によって、高地上の敵に向かって援護の急射撃を加え、増援隊の突進を援けると共に戦友の英霊を慰めよう。」

 と申し合わせて、弾薬を拾い集めて腕を扼しつつ待ちわびたが、はるかに微弱な銃声が聞こえるのみで、容易に増援隊の近づいてくる気勢は見えなかった。』

 戦意衰えを見せない静岡連隊の将兵です。この時の戦意を支えていたのは戦死者に対する追悼の気持ちだけでありましょう。

 前線に友軍は姿を見せず、内田軍曹は5名の兵士と共に橘大隊長のご遺体を急造担架で運びます。ロシア軍の包囲網からの脱出です。

 

 一方、第3師団よりこの日の戦況報告を受けた第2軍司令部には激震が走りました。關谷連隊長、橘大隊長戦死、歩兵第34連隊死傷者多数。

 容易な戦いと楽観はしておりませんでしたが、これほどの損害がでるとも想像を超えていました。「ああ静岡連隊」には、静岡連隊の死傷者数をどのようにして郷土静岡に報告するか悩んだとあります。

 

 山頂陣地はもとより第1塁までもロシア軍の手中に帰しました。

 早朝の奮戦が嘘のような状況であります。周囲は皆負傷兵のみ、補給や後送はなく灼熱の太陽の下で渇に苦しむ将兵であります。

 内田軍曹の記録よりこの時の首山堡陣地の様子を紹介します。

『その頃は頂上は勿論高地一帯ことごとく敵影ならざるはなく、第1塁第2塁の胸檣(※きょうしょう)上にずらりと並べられた敵の銃剣は、日光に反射してキラキラと輝き渡っている、壮観というか不気味というか、げにや「剣の襖」とはかくのごときを形容するの言葉であろう。銃砲声の間間には、敵の指揮官が何事をか号令する、声高な叫びが手に取るように聞こえてくる。時には喋々喃喃と露兵同士が語り合っている話し声さへはっきりと耳に入ってくる有様である。

 「この高地、断じて敵に渡すな」と眦を決して怒号せる橘大隊長の言葉も、今はすでに甲斐なし。もし隊長がこの悲惨な状況を知ったら、恐らく憤死するのであろう、私にしても癇癪玉が破裂しそうな悔しさを感じる。』

 完全にロシア軍包囲下に置かれました。ただ、熊は逆襲に来ません。生き残りの静岡連隊将兵がいまだ性懲りもなく銃撃戦を行っているからです。熊でも命がほしいのです。

 

 橘大隊長が受けた傷は7箇所です。時間的に受傷した箇所を列挙していきます。

 突撃時に、右手に銃剣による裂傷。

 白兵戦時に、左手に銃弾による擦過傷。(指が何本か失っています)

 山頂における白兵戦時に、腹部貫通銃創。

 砲撃戦時に、砲断片による腰部打撲。

 内田軍曹による後送時に、左右胸部貫通銃創、左上膊貫通銃創、鼠径部貫通銃創。

 以上です。致命傷は避けられましたが早く軍医の手当てを受けないと大事になります。

 必死に手を尽す内田軍曹ですがどうしようもありません。ロシア軍の包囲は水も漏らさぬ完璧ぶりで看護兵が負傷兵の収容に来るどころか、こちらから這い出ることすらできません。内田軍曹が送った伝令白鳥伍長は狙撃を受け大腿部に貫通銃創を負いました。

 

 そんな状況下端然とされていた橘大隊長です。

 後退していく負傷兵を見ると呼んで慰労の言葉をかけます。一人一人にです。

 自身の負傷よりも、兵の負傷のほうが気になる方でありました。しかし、後退していった負傷兵はただの一兵も、救護所のある向陽寺にたどり着いた者はありませんでした。

 すべて首山堡南方高地前面に広がる高粱畑で打ち倒されました。

 ほとんど一方的にロシア軍に痛めつけられる、惨めな静岡連隊将兵の中で光る橘大隊長の姿です。

 關谷銘次郎連隊長の戦死をもち、午前9時静岡歩兵34連隊は師団司令部より全滅と判断されます。

 全滅です。つまり白旗を揚げて降伏しても欧米の常識では不名誉ではありません。

 第3師団司令部大島義昌中将の再編成の命令は、授与するべき上級指揮官がおりませんでした。静岡連隊の将兵には、關谷連隊長の下した最初の命令のみしかありません。

 あちこちの死角を即席の壕としてこもり銃撃戦をするしか方法はありません。

 起伏の少ない首山堡南方高地の斜面です。身を隠すものといえば、砲弾炸裂孔、地形を利用して円匙(えんぴ)で掘った塹壕、そして死体です。

 一番後送したい負傷兵も応急処置のみで炎天下の中放置されていました。無傷の将兵はほとんどいません。皆大なり小なり負傷しています。一旦後退し負傷兵に軍医の手当てを受けさせ、再編成し再度攻勢をとりたいところです。

 当然ですが、駿河人は「いけいけ、どんどん」主義では有りません。常識があります。無駄な犠牲は好みません。(教育レベルが高いですから)

 しかし、陣地奪回を果たした猛り狂うロシア軍が静岡連隊の後退を許しはしませんでした。熊どもは突撃逆襲を行い皆殺しにするつもりであったのですが・・・、生き残りの兵卒が銃撃を行います。首山堡南方陣地では早期に壊乱した第11中隊や第5中隊などの兵卒は集結し土人の墳墓を盾として銃撃を行います。

 その上、野砲兵第3連隊に加えて野砲兵第13連隊が首山堡南方陣地及び西方陣地に向けて猛射を浴びせます。すでに山頂陣地に静岡連隊の将兵は一兵もいないことを知っています。この援護射撃のおかげで熊の逆襲を受けずにすんだといえます。

 その代り、静岡連隊将兵は一兵たりとも後方へ下がることができなくなりました。公刊戦史と内田軍曹の記録を基に地図に記してみます。

首山堡陣地の状況.12.09.10.

 青い丸で囲ったところがロシア軍が確保した陣地です。

 赤い斜線で囲った部分が、ロシア軍の射弾が集中する所です。十字砲火と言うのでしょうか。ロシア軍は距離を測って標識を立ててあります。その距離にあわせて射撃すれば有効弾になるように事前に準備をしておりました。それが確実に機能しております。

 遼陽街道から向陽寺(村名)方向まで這い出る隙間がないくらい密度の高い銃撃です。この時期この包囲網から這出た兵卒は一兵もいませんでした。動くものすべてに猛烈な射撃を浴びせるロシア軍です。(熊どもも駿河兵の突撃が怖いのです・・・・当然です)

 静岡連隊の将兵は袋の鼠となりました。

 このロシア軍の包囲下において、終始立派な態度でおられた橘周多大隊長と駿河人の駿河人らしい姿を内田軍曹の手記より紹介します。

 首山堡南方高地の戦いは、山頂陣地を占領するまでも大激戦でしたが、真の戦いは山頂陣地においてのものです。

 ロシア軍の1部隊でも多くの部隊をこの首山堡南方高地に引付けなくてはなりません。

 僅か70名までも撃ち減らされた静岡34連隊第1大隊の将兵は陣地奪回を企図するロシア兵を迎え撃ちます。

 一派、二派と何とか熊の猛攻を撃退していきますが、こちらの損害も甚大です。散らばっていた第1大隊の将兵も集まってきますが、消耗のほうが激しく兵員数は増加しません。

 それでも頑強に抵抗し後退する気配を見せない静岡連隊の将兵に対して、業を煮やした熊どもは砲撃を行います。

 猛砲撃です!。敵も味方もお構いなく一掃しようかと思われるほどの無差別な砲撃が始まりました。それをみた日本軍砲兵部隊も砲撃を開始します。

 太陽は昇り周囲は光に照らされます。首山堡南方高地は日露両軍の砲弾が雨のように降りそそぎ多くの将兵を吹き飛ばしていきます。

 その中で端然と指揮をとる橘周多大隊長がおり、4名の将校が檄を飛ばし、羅刹のごとく奮戦するわずか70名の駿河兵がいました。

 そこへ第2線に有った無傷の第2大隊の2個中隊、第6、第7中隊が増援にきました。約400名の増援です。窮地の中増援を得て士気揚がる静岡連隊第1大隊の将兵です・・・・・・・しかし熊は更に援軍を得て猛攻をかけてきました。

 この砲弾雨下の戦闘は、黒牛荘(村名)北方に陣を置いた第3師団司令部より観望されたそうです。

 日本軍の砲撃は野砲兵第3連隊(第1大隊欠)により行われました。

 久しぶりの戦争の記事であります。

 昨年板妻駐屯地にて撮影してきました。

 橘中佐の資料では良く紹介されている絵画であります。

 こちらです。

内田軍曹橘大隊長救出の場.12.12.19.

 うまく写真が撮れなくて失礼・・・・。

 

 この状況は首山堡南方高地山頂陣地にて重傷を負われた橘大隊長を、大隊書記である内田軍曹が仮包帯所へお連れする場面です。

 まだこの時点では静岡34連隊第1、第2大隊は山頂陣地を確保していました。

 橘大隊長の傷は両手に擦過傷、腹部貫通銃創、断片による腰部打撲など、かなりの傷を負っておられました。

 簡単に状況を説明します。

 

 板妻駐屯地にある資料館は国費(税金)で建設されたものではありません。

 有志の方(静岡34連隊)の寄付により建設されたものであります。

 自衛隊普通科34連隊に永久貸与されております。他にはあまり例のない経歴を持った建物であります。

 板妻駐屯地資料館.12.12.19.

 入り口に入ってすぐ目に付くものは、橘大隊長の胸像です。

 

 一昨日見学した自衛隊普通科34連隊板妻駐屯地です。

 こちらに、戦後製作された「橘周太」大隊長の銅像があります。

 写真を撮ってきました。

 こちらです。

橘大隊長と私.12.12.19.

 橘大隊長の台座のわきに立っているのが私です。

 ここ自衛隊普通科34連隊は首山堡の戦いで勇名を馳せた静岡34連隊の後継連隊として伝統を受け継いでおります。そのためこちらに橘大隊長の銅像が祭ってあります。

 私個人と致しましては「関谷銘次郎」連隊長の銅像も大希望する所でありますが・・・、あの時代に橘大隊長の銅像だけでも建設されたことは奇跡に近いです。

 静岡(駿河)のお国柄として、思想的に右や左にぶれにくい所があるのか?

 昨年長崎県にあります橘神社に行ってまいりました。

 長崎ではいまだに慕われている橘周太大隊長であります。

 自宅を改造した記念館に内田軍曹から橘周太大隊長のご家族に当てた戦死にいたる状況を綴った手紙が展示してありました。

 こちらです。

 

内田軍曹の記録

 オリジナルか、写しかわかりませんが和紙に筆で書かれております。

 この内田軍曹の手紙と同じものが静岡県護国神社の遺品館にございます。

 静岡連隊の戦闘は、首山堡南方高地で行われました。

 この時の先陣は橘大隊長が率いる第1大隊です。もう一つの先陣である第3大隊は暗夜のため道を間違い隣の高地に攻撃をかけました。(南方高地の西側の高地)

 第2線(後続)の第2大隊はこちらも暗夜のため第1大隊と距離が離れてしまいました。

 

 当然ですが、なれぬ敵地でしかも暗夜(月は出ているが)では道を迷うのは必然です。

 このため払暁攻撃は橘大隊の単独攻撃となりました。

 この戦闘を詳細に物語ることが出きる方は「内田清一軍曹」であります。

 この内田軍曹の著書「ああ彼の赤い夕陽」を主に、公刊戦史等を肉付けして紹介します。

關谷銘次郎連隊長

 こちらは、關谷銘次郎連隊長のお孫さん(もちろん私よりかなり年齢は上の方です)より頂戴した、關谷連隊長の写真です。

 私が入手した中で一番綺麗に写っている写真です。

 

 内田軍曹の記録では、首山堡戦の始まりは關谷連隊長と橘大隊長の別れのシーンから入ります。

 もし、映画が造られるとすれば首山堡戦で一番重要な場面になるところです。

 本日は8月30日です。

 首山堡攻撃の前日です。

 総司令部からの命を受け、第2軍は攻撃命令を下します。

 第3師団は前進し首山堡より4,600mの距離にある土台子に陣を張ります。

 各連隊は更に前進し陣地構築と偵察を行います。

 敵の砲火の中での偵察です。

 天候は「雨」。

 

首山堡南方高地の全景.12.08.30. こちらは内田軍曹の著書「ああ彼の赤い夕陽」にありました首山堡南方高地の写真です。別名饅頭山とも呼ばれたようです。地図では148高地です。

 

 この陣地を取り囲むように、鉄条網、狼穽(尖ったくいが刺してある落とし穴)が配置してありました。そして、高地下に広がる畑は高粱が植えてあり、これをロシア軍は地上60~90cm位の部分で折り曲げており日本軍の進撃妨害と射界の清掃をおこなっておりました。

 ずいぶん念の入った準備を行っております。

 日本軍は30日に首山堡に接近し偵察、陣地構築、そして翌31日早朝夜襲(払暁攻撃か?)です。こちらは準備も何もあったものではありません。

 この準備不足は静岡連隊の将兵の血で補われたわけです。責任は総司令部の速戦にあります。

 この日の静岡連隊の様子を前掲の内田軍曹の著書より紹介します。 

 本日は日米開戦の日でございます。南雲機動部隊がオワフ島真珠湾を奇襲した日であります。

 支那との戦いが片付かない状態で(片付けられないような国家が)、当時でも最強と言われるアメリカに戦端を開いたのですから、おかしくなったのかと言われてもおかしくありません。(・・・・・。)


 日本は戦に破れましたが・・・別に私が負けたわけではありませんから、感傷的にならずに記事を書いていきます。

 ただ、もしアメが駿河湾に上陸していたら・・・私の家、親戚一同みな死んでいた事は間違いありません。断言できるだけ悲しいものですが。


 さて、石光少佐の『望郷の歌』 から橘少佐の転属です。

 橘周太少佐は奥軍司令官ともお知り合いだったそうです。橘少佐が東宮武官だった時の武官長が奥軍司令官であったそうです。橘少佐は関谷連隊長とも士官学校で教え子、教官の関係でありましたから、橘少佐としても第2軍そして静岡34連隊は最高の勤務先であったのではないかと思えます。


 静岡連隊は実に上官に恵まれた連隊であります。今後、日本一の指揮官に恵まれた連隊と呼称してもよいと思いますが。

 

 この記事は平成23年12月8日に作成しました。

 橘大隊長は、その呼称が明らかなように静岡連隊の第1大隊長に赴任した後の呼称がそのまま一般には残っております。階級は少佐です。僅か20日間の大隊長でした。


 その橘周太少佐が静岡連隊に赴任する前の武勇伝を書き残してくれた方がおります。後に橘少佐が勤められた第2軍管理部長を勤めることになります石光真清少佐です。

 この本です。

望郷の歌

 全4巻の単行本です。これら4冊は約10年前に東京神田古本街のはずれにある古書店で求めました。この本は日露戦争に関する書籍では結構引用されています。しかし、私でも分かる誤記、誤認が所々ありましたが、第2軍司令部においでになっただけあってかなり参考になる記録を残してくれております。


 石光少佐は橘少佐とかなり親しい間柄であったそうです。石光少佐は熊本の出身、橘少佐は長崎ですから親近感があったのかもしれません。(もちろん共に士族の出身です)


 さて、静岡連隊にこられる前の橘少佐ですが、なかなかの武勇伝を残してくれております。

 

 この記事は平成23年12月3日作成しました。

 8月9日に静岡県護国神社の遺品館を見学した時、

 

 『・・・・む!』

 とした、展示品がありました。これです。

 

内田軍曹の記録コピー 勿論昔からありましたがコピーです。橘大隊長の最後が記録されております。

 私は昔の字が読めないので(内田軍曹のお名前は知識にありましたが)、よく観ないで通り過ぎていました。もちろん現在もこの字は読めません。しかし、この文と同じものを目にした記憶があります。


 場所は長崎、橘中佐の記念館です。

 

 この記事は平成23年8月12日に作成しました。

長崎見聞録 橘神社

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 時間通り長崎駅に到着しました。

 長崎といえばハイカラなイメージがあります。しかし、来てみるとなんだか静岡と同じような感じがします。山が近いからそのような気がするのでしょうか。(静岡の中心の話ではありません。あくまで私の住んでいる小坂と比較してです)


 お迎えにきてくださる間その辺をきょろきょろします。(どこいってもおのぼりさんです)


 車で橘神社、島原方面を案内していただきます。

 

橘周太大隊長像 全形

 橘周太大隊長の像です。戦前より現存する唯一の銅像です。

 静岡の駿府城に、同じく首山堡で戦死された関谷銘次郎連隊長の銅像と共に橘大隊長の像もありましたが、戦時中金属の供出で現在はありません。

 お墓はご両者とも静岡市葵区沓谷(くつのや)の旧陸軍墓地にあります。(ただ、地元の方の話によると橘大隊長のお骨は遺族の方が長崎に持っていかれたそうです)

・・・・、その後の調査で陸軍墓地のお墓は記念碑的なものであるようです。お骨は入ってはいないようであります。

 

 この記事は平成23年 5月12日作成しました。

 

 もう時期、8月31日がやってまいります。

 

 静岡で昭和52年8月に静岡歩兵34連隊の後継に当ります、自衛隊普通科34連隊に県内在住の彫刻家堤達男氏の手による銅像が建立されました。また、県内勇士の遺品など、2千点に及ぶ資料が展示された郷土資料館があり、部内外者に開放しているしている事が『静岡歩兵34連隊史』き記載されておりました。(昭和54年3月1日発行)
 また、橘連隊の伝統を守るべく、隊章も当時のデザインを継承し、首山堡陥落の8月31日には橘祭を行っている事も記載されておりました。

 そこで、私は31日を前にして、その事を伺いに板妻駐屯地へ友人2人と向いました。同級生せいちゃんと先輩Mさんです。共に歴史に関心があり、出身高校も同じです。まあ、気が合うんです。

 
 さて、結果はいかがでしたでしょうか。

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