市川紀元二中尉の最近のブログ記事

 9月1日、シタケリベルグ中将の指揮するシベリア第1軍団は首山堡防御線より撤退し、遼陽の本防御陣地にこもります。

 首山堡陣地戦での敗北をクロパトキン将軍が認めたからに他なりません。

 遼陽の本防御線での戦いは本隊の撤退する時間稼ぎであります。

 本防御線も手の込んだ作りになっておりますが、首山堡の高所を押さえられた以上砲弾の雨を受けることは必至であります。この防御線で僅かでも時間を稼いで、鉄道により物資、部隊、負傷兵の後送を行います。

 名将の名に恥じないクロパトキン将軍の引き際であります。隷下の部隊に死守を命ずる反面、できる限り無駄な戦いを避けます。

 撤退するロシア軍に向けて日本軍は砲撃をする事が精々で包囲し殲滅まで至りませんでした。周到な計画による余力を持った撤退戦です。

 

 この首山堡の防御線について、クロパトキン将軍だけでなくロシア軍に従軍していた欧州の観戦武官も日本軍が突破できると考えていませんでした。守備していた部隊は2個師団ですが、野戦築城の陣地は堅固であり、クロパトキン将軍の本隊から予備兵力を投入するには容易な距離にもありました。

 欧州の軍隊や蛮族では簡単に落とすことのできない陣地が首山堡の防御線です。

 東洋の小国は、その陣地線をたった1日で突破したわけです。ロシア軍司令部だけでなく観戦武官すべてが想像を超えた恐怖に包まれていたことは間違いはありません。クロパトキン将軍はそれ以上の失態を犯さなかった故に「予定の撤退」と公表することができましたが、内心は敗北感に満ちていたことでしょう。

 難攻不落の首山堡陣地が破られたと決定つけたのが市川紀元二少尉による北大山第1堡塁の占拠です。

 公刊戦史や多くの日露戦史には大きく書かれていませんが、この小さな一歩がクロパトキン将軍他に撤退を決断させたのです。

 理由は、市川紀元二少尉の部隊を撃破するための予備兵力が尽きていたことであります。

 日本軍は市川紀元二少尉の小部隊に続いて続々と将兵を送り込んできます。ロシア軍のほうは第2堡塁で支えることが限界で撃退するほどの力はありませんでした。この時点で北大山の陣地が突破されることは時間の問題となりました。クロパトキン将軍は余力のあるうちに撤退を決断したわけです。

 「予備兵力が尽きた」・・・・これは旅順要塞の陥落の理由と同じであります。こちらは有名な二百三高地での激戦で部隊が消耗しステッセル中将は降伏を決断しました。旅順要塞は背後が海なので逃げる所がありません。

 では、この首山堡ではどこで消耗戦が行われたのでしょうか。

 遠州磐田出身「市川紀元二」少尉の部隊により第1堡塁を占拠されたロシア軍北大山陣地です。

 午前の戦いぶりを第3師団長大島中将より叱咤された各連隊も猛撃します。決して各連隊将兵は臆して縮こまっていたわけではありません。(まあ、遠州人の部隊があるのですから当然ですが)

 解釈は色々ありますが、石原大佐への督戦命令はどちらかと言うと山口旅団長の頭ごなしに命令を出したとも解釈できます。山口少将の左遷はこの時点で決定的でしょう。

 想像ですが、場合によっては大島師団長自ら陣頭に立って突撃を行う腹で居られたのではなかったか。

 

 弾幕射撃の中果敢な突撃が各所で行われました。

 次々各部隊の将兵が参集する北大山山頂陣地ですが、将校の数に比べて兵卒の数が少ないと言う奇妙な現象すら現れました。(兵卒4~500名ほど)

 各将校の勇敢なる突撃指揮が兵卒をして勇戦させる原動力であることはどこの戦場でも同じようです。

 日本軍の猛烈な攻撃に慌てふためくクラウゼ少将です。

 まさか・・・・寡兵で第1堡塁を占拠するとは考えられないことだったのでしょう。計画ではロシア軍の弾幕射撃の前に全滅することになっていました。しかし、陣地の多くは日本軍砲兵隊の射撃により破壊され兵卒にも被害が出ており、計画通りの戦いが出来ない状態となっておりました。

 日本軍は続々と部隊を山頂陣地に送り込みます。こちらはかねての計画通りの行動です。ロシア軍は第2堡塁に下がり迎え撃ちます。

 山頂陣地を占領する日本軍部隊を駆逐する為、クラウゼ少将は予備兵力を集めます。

 首山堡南方高地を日本軍主攻と判断していたシベリア第1軍団司令官シタケリベルグ中将の手元には・・・・・予備兵力はありません。

 混乱するロシア軍指揮官と北大山陣地で激戦をおこなう日露両軍の兵士です。

 

 8月31日正午。

 第三師団長大島義昌師団長は「師団総攻撃」を命じます。

 北大山を攻撃する右翼隊の3連隊はいくばくか損害を出していますが、静岡連隊のそれとは比較になりません。その上、静岡連隊が身をもって吸引した敵兵力はかなりのもの、北大山攻略の適期ともいえます。

 命令はただ一言、「突撃」あるのみです。

 

市川紀元二中尉像 全体 北大山ロシア軍陣地直下に取り付いていた部隊は、名古屋第6連隊第1大隊第2中隊です。中隊長は「松井石根」大尉です。

 ロシア軍の弾幕射撃がここでも有効に機能していました。兵の損害も出ています。中隊長松井石根大尉も大腿部に貫通銃創を負いました。しかし、総攻撃の命令が下されました。

 松井大尉は市川紀元二少尉に命じます。(市川紀元二中尉伝より)

 『「おれはここで指揮を取るから市川行って見んか」

 と声をかけるや否や、低くはあるが力強く

 「行きましょう」

 と一言、折から味方の榴弾が2発前面で破裂して黒煙が濛々と上がったのを利用し、軍刀を揮って跳出した。』

 

 北大山を守備するロシア軍指揮官はクラウゼ少将です。この峻険な位置にある陣地を突破されるとは夢にも考えていなかったようです。首山堡南方高地と異なり大兵を運用できるような余裕のある地形ではありません。寡兵で突撃してくる攻撃側を掃射すれば良いのです。防御側が圧倒的に有利です。

 しかし、日本軍砲兵部隊の執念は凄まじく短時間で守備兵と防御陣地の多くを破壊しました。クラウゼ少将にとって計算外の事態が起こりました。その上昨日派遣された予備隊は引き戻され、自身の部隊の一部も首山堡南方高地で静岡連隊と戦闘しておりました。

 守備隊が・・・・・名古屋第6連隊の突破を許すこととなりました。

 時刻は、総攻撃が始まった僅か30分後、午後0時30分です。

 この突撃こそ、ロシア軍司令長官「クロパトキン」将軍をして撤退を決断させる一撃になったのです。

 板妻駐屯地にある資料館は国費(税金)で建設されたものではありません。

 有志の方(静岡34連隊)の寄付により建設されたものであります。

 自衛隊普通科34連隊に永久貸与されております。他にはあまり例のない経歴を持った建物であります。

 板妻駐屯地資料館.12.12.19.

 入り口に入ってすぐ目に付くものは、橘大隊長の胸像です。

 

 本日は8月31日です。首山堡陥落の日とともに関谷銘次郎連隊長、橘周太大隊長以下静岡34連隊約500名の命日であります。


 本日の記事の主人公は市川紀元二中尉です。(この時は少尉です)

 静岡34連隊が奮戦空しく首山堡をロシア兵の手に委ねました、その後名古屋6連隊に属する市川紀元二少尉率いる小隊が奪取しました。(北大山)

静岡新聞 市川紀元二

 

 ロシア軍の計画的な撤退が背景にあるようです。しかし、静岡連隊の奮戦も無駄なものではなく、首山堡陣地群をあくまで日本軍を引付けるおとり(言い方がわからないので)として考えていたロシア軍も一時的とはいえ橘大隊に首山堡の重要拠点を早期に奪取されてしまったのですから、他の方面に向わせる部隊を首山堡に廻さなくてはならなくなつてしまいました。その数、2万といわれています。

 ロシア軍1個師団が静岡34連隊の奮戦に逆にこちらの方面に足止めされてしまったというところでしょう。(負ければ完全に悲劇でした)

 この激戦を栄光にかえた方こそ遠州出身の市川紀元二中尉でありました。

 

 この記事は平成23年8月31日に作成しました。

副題・ 軍神・壮烈な最後  人望のあった大隊長
 昭和33年8月30日 静岡新聞夕刊

静岡新聞 橘中佐

もちろん、橘中佐のお話は、内田軍曹から始まります。また、村松少尉、下村 元大将のお話も貴重です。


 タイプしていて・・・結構きついです。まあ、首山堡を攻めるよりははるかに楽ですが、農作業と兼任はやはりつらい・・・。


 文字ばっかりです。

 

 この記事は平成23年8月29日に作成しました。

副題・自ら死の突撃決行 部下に温情・関谷連隊長
 昭和33年8月29日 静岡新聞夕刊

 関谷銘次郎連隊長は、橘中佐のお名前に隠れてあまり知られていない方です。

 また、項を改めて紹介しますが、岐阜県大垣の方です。
 もちろん士族です。

 

静岡新聞 關谷連隊長 元部下の生の声が記録されております。関谷連隊長の貴重な資料であります。(關谷連隊長の評価は非常に高いのですが、記録がほとんど残されていない方であります。現在調査中です。)


 

 基本的にはそのまま転記ですが、タイプが下手な為不要と思われる部分は(ほとんどありませんが)除きます。また、誤認による誤記や、字が判別しない場合○○とします、御容赦ください。

 

 この記事は平成23年8月21日に作成しました。

 この座談会は、『思い起こす8月31日』と題しまして昭和33年8月28日~9月1日の5日間連載された記事です。静岡県立図書館のマイクリフィルムからコピーしてきましたが・・・画像が悪く、写真は黒ずみ文字はかすれて判別しにくいものもあります。(もう少しきれいに撮れないものか)


 どうせ一般の目に触れる事が無い記事ですが。首山堡の勇者の話を聞くことは無駄にはならないと思いますので紹介します。


 この座談会は、市川紀元二像の除幕式に合わせて市民の関心を高める為に企画されました。

 昔は8月の戦争の話は、この首山堡(遼陽)の戦いのことだったようです。現在は・・・言うまでも無く敗戦記です。


 さて、この記録だけではありませんが、この首山堡の戦いで高名な方(私が知る方ですが)を観てみますと面白い事がわかります。

 

 この記事は平成23年8月21日に作成しました。

 東京大学当局から厄介者扱い(そのように扱われていました。時の総長は小野塚 喜平次。新潟出身の政治学者です)されていました市川紀元二像ですが転機が訪れました。


 共に首山堡で戦った上官(戦友と呼んだほうがよいのかもしれませんが)松井石根大将の言によるところです。

 昭和10年日露戦役30周年、東京日日新聞座談会における松井大将の話

 「この間も帝大工学部の催しで中尉のお祭りをやったので自分も参加したが、もう当時の人達は学生は勿論職員も中尉の事を知らない人が多かった。それで僕が憤慨して当時の事情を話した事もあったが、特に遺憾に思ったのは銅像の軍刀が折れていることである。誰か子供がいたずらしてとったものらしいがこれはどうかして直してもらいたい希望している」。

 その後間もなく破損は修繕されました。このことについては「電気乃友」昭和10年4月号の市川中尉30年祭(3月7日)の記事の中に渋沢元治博士の話が載っています。(渋沢元治博士は、昭和33年8月31日 静岡県護国神社での除幕式に参加されております)

 

 この記事は平成23年8月13日に作成しました。

 市川紀元二像は二つありました。
 

 一つは、東京大学工科大学の方々を中心に建立された、静岡県護国神社に現存するもの。もう一つは、市川中尉の地元磐田にて有志の方が建立されたものです。こちらは戦時中に供出されました。


 私、早速『市川紀元二中尉伝』横山 英著 を古本屋より求めまして調べてみました。その本を参考に東大にて建立されました市川紀元二像についての記録を紹介します。この『市川紀元二中尉伝』は静岡県立図書館にあります。

市川紀元二中尉像 反対側全体

 東京大学工学部電気工学科主任教授 山下英男祝辞では分かりませんでしたが、東京大学にあった時から市川紀元二像いろいろと波風があったようです。(戦前の話です)

 この市川紀元二像を建立し守ってくださった方のお名前が分かるのであえて紹介します。

 

 この記事は平成23年8月13日に作成しました。

 静岡新聞昭和33年9月1日の朝刊に市川紀元二中尉の銅像除幕式の記事が載っていました。

 この8月31日を挟んだ1週間、当時を知る方の座談会記事が掲載されました。あの、橘中佐を看取られた内田軍曹が健在でした!・・・驚きです。項を改めて紹介します。(とにかく長いんです)

  
 こちらがその記事です。

静岡新聞 昭和33年8月31日

 

 なぜ、8月31日に除幕式を行うかといいますと、この日が遼陽の会戦最大の激戦でありました首山堡の戦いを征した日であります。もちろん、首山堡一番乗りの快挙を成し遂げられた方は市川紀元二少尉(当時)であります。(資料により9月1日となっておりますが、静岡連隊の奮戦は8月31日でありますので・・・細かい話は・・・)

 

 この記事は平成23年8月10日に作成しました。

 

 日露戦争の英雄の銅像も多くは戦時中金属物供出で撤去されました。

 

 静岡にありました、関谷連隊長、橘大隊長の銅像も供出されました。長崎にある銅像は、地元の方が砂浜に埋め守ってくれた為に現存しています。静岡の場合は、連隊本部にありましたから・・・守りようがありません。市川紀元二中尉の銅像がもう1つ掛川のほうにあったことが別宮先生の著書に書いてありましたが、やはり駅前にあったため供出されました。(その後調査で中泉駅前、現在の磐田駅前にあったそうです)

 
 この市川紀元二像は東大の構内にあり工学部の教授方を中心に守ってくれていました。終戦後もGHQより撤去されないよう職員一同この像を隠し守り抜いたとあります。(・・・天下の東京帝国大学にも卑しいチクリ魔(売名者)がいたと言うことです)

市川紀元二中尉像 顔アップ

東京大学工学部電気工学科主任教授 山下英男祝辞 を紹介します。

 

 この記事は平成23年8月9日に作成しました。

 高校の時は毎日この銅像の前を通っていました。

 

 もちろんこの銅像が日露戦争に関係があり何か功績を立てた方だとは思いましたが、紹介文も無いので詳しく分からないままでした。

 祖父より聞いていた話は、もちろん関谷連隊長と橘大隊長の話です。市川紀元二中尉の話は聞いた事がありませんでした。

 
 私に、この市川紀元二中尉の功績を紹介してくれた方は別宮暖朗先生です。別宮先生の著書『日露戦争陸戦』と先生のHP第一次世界大戦で紹介してくれています。
 リンクを張りました。

市川紀元二中尉

 本日撮影しました市川紀元二中尉の銅像です。(磐田市中泉の御出身です

市川紀元二中尉像 全体

詳細に説明していきます。

 

 この記事は平成23年8月9日に作成しました。

 夏になりますと盛んになるのが、怪談話と戦争話です。

 私は年寄に可愛がられて育ちましてから戦争の話は季節を問いません。

 本日紹介します護国神社と市川紀元二中尉の銅像は、私が高校の頃の通学路にあり毎日目にしておりました。護国神社には遺品館があり無料で見学できるので学校帰りにニコニコ社会科見学をしておりました。おかげで結構目が肥えてきました。


 先ずは護国神社の風景を紹介してから市川紀元二中尉の銅像を調べた限り紹介します。

静岡県護国神社

敷地の中は散歩に最適です。

 

 この記事は平成23年8月9日に作成しました。

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