増井清博士の最近のブログ記事

博士のご命日。

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 1か月ぶりのブログ更新です・・・・・。

 なにやかや今年の夏は忙しくて・・・・、心理的にブログどころではありませんでした。

 ようやく少しは気が楽になってきました。

 7月には記事を書いておりませんが、7月16日には我らが「寺尾博」博士のご命日に行ってまいりました。天候は悪く大雨洪水警報が出ておりましたが、それ程雨が降っていなかったのでお墓、お寺、ご自宅に行ってまいりました。

 本日は、ご近所であり小坂の偉人「増井清」博士のご命日であります。

 トマト持参で瑞応寺へ向かいます。

 この小坂でも増井清博士の業績を知るものは本当に少なくなりましたが、それでもその偉大なる業績の僅かを知り、尊敬の念を持つものはこの小坂にはおります。

 それだけがとりあえず博士に対するご供養かとも思っております

 

 

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 本日は4月1日です。エイプリルフールとは無縁でありますが、畜産学の世界では現在にも伝わる「初生雛鑑別技術」誕生の日として記録されております。

 発見者の良い写真がありましたので紹介します。(上野博士の書かれた「初生雛雌雄鑑別技術の進展」より)

 

初生雛鑑別技術発見者.15.04.01.

 中央が、われらが増井清獣医学博士です。(静岡市駿河区小坂出身です)

 左側が、初生雛鑑別論文第1報発表当時はまだ学位を取得されていなかった橋本重郎農学士です。

 右側が、助手の大野勇技手です。大野さんは農林省畜産試験場勤務です。当時第2代場長の木村和誠氏の時代には研究論文に助手の名前を入れることはタブーに近いことでした。この意味でも初生雛鑑別論文第1報は革新的な意味があります。

 この論文は、秋田県陸羽支場にて寺尾博士の陸羽132号開発に大いなる助力をされた中川庄司氏が初代畜産試験場場長となられてから増井清博士に委託され研究が始まったものです。研究開始の時期は諸説ありますが私は増井清博士が学位を取得された大正10年の秋よりと考えております。

 それでは、この4月1日はどのような意味があるのでしょう

増井博士の命日。

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 8月6日が我らが増井清博士の命日です。

 菊の花を買って、家で収穫されたミニトマト「ピュアスイート」と露地メロンを持って瑞応寺へ向かいます

 瑞応寺.13.01.01.

 写真を撮るのを忘れたのでお正月の写真を使いました。

 山門を入って左側の方に増井博士のお墓があります。

 先に方丈さんにミニトマトと露地メロンを供えてもらってから、墓地へ向かいます

 

 昭和31年8月に発行された増井家禽育種研究所の雑誌「とりの育種」創刊号にあります寺尾博博士の寄稿です。

 日本における作物育種最高権威である寺尾博博士ですが、鶏の育種は専門外であります。寺尾博士の指揮していた農事試験場内畜産試験場において鶏の品種改良が細々と続けられてきましたが、これといって成果が出ていませんでした。

 当時日本の養鶏界が世界に対して誇りうるものは、「初生雛鑑別」、「365鶏」、「尾長鳥」の3つです。

 「尾長鳥」に関しては観照的なものなので脇に置きますが、「初生雛鑑別」は我が小坂出身の増井清博士が主導して行った研究成果であり日本人に対して欧米人が頭を下げた始めての研究であり技術であります。この技術あってこそ日本の畜産学者が世界に胸を張って出て行けると言うものです。

 ただ、「365鶏」に関しては議論があります。

 「365鶏」とは公的の種鶏場で調査された1年中無休で産卵した鶏のことを指します。昭和24年の段階でそれまでの検定数のうち僅か2羽しか「365鶏」は出ていません。300卵以上のものは全出品数の5%を出てません。簡単に言えばただ出来ただけであります、それによって学理や技術の向上が見られたわけではなかったのです。

 つまり実用鶏としての価値はないに等しいのです。「365鶏」が出来たからといって養鶏家が飼育している鶏の質が上がっていたわけではないのです。その証拠に、戦時中飼料難により産卵数が落ちたのではなく欧米より種鶏の輸入が途絶えたことで実用鶏の産卵数が落ちたと盛んに言われ、戦後すぐにアメリカより種鶏の輸入再開が声高に叫ばれる事態となりました。

 増井博士及び田中義麿博士曰、「アメリカの鶏を日本で増やしていたようなものだ・・・・」

 であります。鶏の育種に関して日本は世界に対して誇りうる実例は皆無であったのです。

 明治末期より大戦中にかけて二十数年間、日本の農事試験場を指導し世界に冠たる農学理論・技術を数多く生み出した農学の鬼才、「寺尾博」博士はその事実を熟知していました。

 戦後日本の復興は農業の復興より始まり、そして海外よりの農産物輸入に対抗できるよう世界に頭脳を輸出する日本農業を目指していた寺尾博士が、日本に適した家畜である鶏に関して長年の盟友である増井清博士に委ねるところでありました。

 種鶏を世界に輸出する種鶏国家としての日本、これが種苗を輸出する日本を目指していた寺尾博士のもう一つの理想でした。寺尾博士は増井博士に勧め研究所の設立を目指しました。

 これが日本最大の鶏育種の研究所、「増井家禽育種研究所」であります。国立の畜産試験場、種鶏場では限界があったのでしょう。

 常に研究の先陣に立っていた寺尾博士が、初めて自身を脇に置く活動であります。

寺尾博博士の人物評

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 寺尾博士のお人柄について書き残されている資料は少数です。

 どちらかと言うと、寺尾博士の名前を挙げて又は名前こそ出しませんがそれとなく判るように悪口を書き残している記事があります。(初期の「農業技術」とか・・・・)

 その、誰でも欠点があるわけですが寺尾博士の場合は、終戦後農林省主流派になった左翼の官僚・学者(研究者)からの攻撃が大きかったようです。(どうも思想的にと言うより機会主義的なインテリが左翼に多いように見えます)

 もちろんそういった左翼の官僚・学者には出世しか頭にありませんから、何でも汚い事はやります。(現在の農業不振を招いた原点が戦中・終戦直後の農業政策にあったことは我々には周知です)

 寺尾博士を否定することによって自分たちの行動を正当化していたことを強く感じます。こちらもぼちぼちまとめていきます。(記録が残っているということは恐ろしいです・・・・)

 

 前置きが長くなりましたが、寺尾博士をよく知る人物の書き残した資料を紹介します。

 増井清博士「寺尾博理事逝去」 (とりの育種6)

 大島廣博士「寺尾博君の追憶」 (採集と飼育24巻6号)

 野口弥吉博士「日本における育種学、とくに植物育種学の発展記録(私見)生立ちから学会設立まで」

 以上3点です。他にも寺尾博士について書かれた記事がありますがまた話の都合で紹介していきます。

寺尾博士と静中同窓会.12.06.26.

 この写真は、増井博士の研究所「(財)増井家禽育種研究所」発行の「とりの育種」に掲載されていたものです。

 見難いのですが寺尾博士のお顔がわかります。増井博士は右の隅だと思います。

 この日は5月3日、増井家禽育種研究所で静中の同窓会が開かれたようです。

 寺尾博士はお孫さん同伴で、よいのどを聞かせてくれた、と書かれています。

 

 この記事は平成24年6月26日に作成されました。

 我らの増井博士が設立に関係された国立遺伝学研究所であります。こちらの設立に関して少々紹介してまいりましたが増井博士の記述が少なくなるにしたがって現在更新休止中です。

 こちらは遺伝学研究所が出きるまでの記事をまとめたリンクです。

遺伝学研究所が出来るまで 

 

 増井博士ご自身あまり自分の仕事を語らない方なので、弟子に当たる方の記録にもあまり出てきません。

 第一増井博士の自慢話とされるお話が、三島遺伝研の用地買収に関係した農家との交渉話です。この状況はノモンハンの帰還兵である宮本さんも記録を残されております、学生紛争の頃の団交なんて屁でもないような恐ろしい団体交渉でしたが、増井博士は話をまとめられたうえに百姓より礼まで言われて帰ってきました。我らが増井清は実直に生きている人間より好かれるタイプの人物である証左です。

 様々な苦難と多くの方の助力が実って設立された国立遺伝学研究所ですが、増井博士の関係された頃とは異なり現在では「分子生物学」が主流となっております。

 私も一応農獣医学部で分子生物学を習ったわけですが・・・・・さっぱり要領を得ません。大体何が面白くてあんな学問を行うのか疑問にすら思ったほどです。(頭が悪いとはこういうことかOrz)。あのー「分子遺伝学」と「分子生物学」はどう違うのですか?

 増井博士の頃は、作物・種鶏の品種改良が急務でした。最近は医学や薬学の分野にまで応用のきく「分子生物学」が基礎科学として重要度がましたと言うところでしょう。

 分子生物学といえば遺伝学研究所のHPでも紹介されておりますが、名古屋大学理学部の「岡崎令治」博士の研究が非常に有名です。

 名古屋大学です!

 我らが増井博士に対してヘビを仕掛けた名古屋大学農学部ではなく、名古屋大学理学部の岡崎研究室が世界に先駆けて発見したものこそが「岡崎フラグメント」であります。

 名古屋大学農学部設立に関係した増井博士と名古屋大学生え抜きの岡崎博士の二人、顔をあわせたことはあるのかないのか分かりませんが、遺伝学研究所においても関係しているようです。

 こちらは2000年に発行された「実験医学」にあります、「岡崎博士の業績を讃えて」と題した杉野明雄博士の寄稿より写真を拝借しました。

 

岡崎令治博士.13.05.18. 杉野博士の寄稿を拝見していて、「岡崎フラグメント」と簡単に口にしておりますが実に苦難の物語でございます。

 岡崎フラグメントの発見は1965年(昭和40年)ですが、世界的な研究に昇華するのは1980年代半ば(昭和50年代)であります。岡崎令治博士亡き後、奥様の岡崎恒子博士の研究によるものであります。 

 先日「名古屋大学農学部のヘビ事件」を紹介いたしました。リンクはこちらです。

???名古屋大学農学部の「ヘビ事件」。

 非常に当時若手の研究者より煙たがられた方が我ら小坂出身の「増井清」博士です。

 まあ、それでも世界的な研究者・学者が出てくれば笑い話で済まされますが・・・・実はこのお話は笑い話では済まされないほど恐ろしい意味を含んでいます。

 昨年世界家禽会議が100周年を迎えました。初生雛鑑別の研究で増井博士が世界的な評価を受けた会議は、昭和11年ドイツ・ライプチヒにて行われた第6回世界家禽会議においてです。

 この時に急遽作成されたフィルムを名古屋大学の蛭薙先生が発見してDVDにて保存してくださいました。

 その記念あるフィルムを昨年の100周年を迎えた家禽会議ブラジル大会にて公開されたようです!!!

 こちらが日本家禽学会の記事リンクです。

初生雛鑑別法の発展と普及

 

 なぜ余興でも増井博士の登場するフィルムが公開されるのか、答えは恐ろしいものです。増井博士が亡くなって30年余経ちますが、博士の初生雛鑑別技術を超える研究が今だ登場していないのです。

 家禽学の世界で、日本が世界に対して自慢できる研究はこの初生雛鑑別技術しかないのです。(恐ろしいです・・・・・研究者の数や研究費は昔より何倍もあるにも拘らず!!)

 

 こちらは東京帝国大学で撮影されたゴルドシュミット博士が大切にしていた写真です。

ゴルドシュミット博士の写真.12.08.18.

 前列左がゴルドシュミット博士、右が石川千代松博士。

 後列左が大町文衛博士、右が我らが増井清博士です。

 写真嫌いのゴルドシュミット博士が大切にしていた写真がこの写真です。

 

 増井博士は石川千代松博士とゴルドシュミット博士を師として研究をされました。

 初生雛鑑別の研究も偶然や幸運で完成されたものではありませんでした。研究費の不足や学界につきものの雑音の中、増井博士が黙々と研究し完成に導いたものでありました。

 畜産の世界で今だ増井博士以外に世界的な研究がないと専門外の私が主張する根拠が・・・・実はあります。(情けない・・・)

 

 実に不思議な事件があるものです。

 よく小学校でいたずら坊主が女教師の机にかえるやヘビを忍ばせることは、ままありうることでございますが、ここは帝国大学の一つ、名古屋帝国大学農学部でのお話です。

 その時の名古屋大学学長は静岡出身の「勝沼精蔵」博士です。そして農学部長は我らが「増井清」博士であります。

 

 こちらは静岡県立大学附属図書館の蔵書にあります「写真集 名古屋大学の歴史」より写しました写真です。

名古屋大学農学部 増井清.12.01.10.

 中央の外人さんは、コロンビア大学のゴルブマン教授です。ゴルブマン教授の左に我らが増井清博士がおられます。(近藤恭司博士は・・・どこにおられるのか?)

 

 この世界から絶大な評価を受けている大学者「増井清」に対するあまりに無知・不見識(かつ無礼)なるいたずらは、小物になった農学者の存在を表しているように思われます。

 さて、どのような理由で、どのようないたずらを仕掛けたのか、頭の悪い名古屋大学の農学部にいた農学者の名前と共に紹介します。出典は「名古屋大学農学部30年史」より新聞記事よりの転記です。

  最近では農業資材(肥料、器具など)なども販売しておりますが、基本的に種苗会社は、種と苗(苗木)を販売します。

 ところが50年ほど前に今では考えられない品目が販売されていました。

 現在この品目は9割が輸入です。

 

 ・・・・・・・・・・・・。

 

 その品目は、採卵鶏です。

 そしてその有名種苗会社は、坂田種苗株式会社(現、株式会社サカタのタネ)です。

増井1号販売広告.12.08.24.

 

 昭和30年代のある雑誌記事に掲載されていた増井博士作出の採卵鶏「増井1号」の広告です。

 神奈川県藤沢市にある農獣医学部附属圃場に開設された増井博士の研究所「財団法人 増井家禽育種研究所」の事業に、いち早く助力された企業の一つが、当時坂田武雄さんが社長を務める坂田種苗株式会社(現、サカタのタネ)であります。

 

 どうも古書の読みすぎか?、サカタのタネよりも坂田種苗のほうがぴんときます・・・・失礼。

 サカタのタネは今年創業100周年を迎えるそうです。

 企業史の片隅に紹介されているかどうかわかりませんが、現在では想像すら出来ない、国産採卵鶏の世界販売へ向けた記録であります。(と私は考えております)

 

 最初は日本でも非常に大きく報道された大事件であります「日枝丸事件」ですが、真相が明らかになると報道される記事もぐっと小さくなります。

 ・・・・・・・・・・。

 まあ当然です。

 当初は「東洋某国」(支那)の工作員の仕業から秘密結社、共産党など政治的・軍事的に問題となる相手が容疑者でありました。

 しかし、真相は単純にフォーサイドの逆恨みであります。

初生雛雌雄鑑別師の仕事を日本人に奪われた恨みで行った」とあります。

 これでは大きく紙面を割くわけにはいきません。フォーサイドの生国であるカナダの名誉にも関ることなので各新聞社も配慮したのでしょう。(フォーサイドはインテリであります)

 こちらは新聞に掲載されたフォーサイドの顔写真です。

日枝丸事件主犯 フォーサイド.13.02.24.

  日枝丸事件の顛末を記載した新聞記事と増井博士の日枝丸事件の説明を紹介します。

 思いがけない事実を発見することが歴史探求の醍醐味でございます。

 日枝丸事件も当時は大事件でありました。

 新聞記事を見ていきますと・・・・・、犯人の証言が二転三転して最後はただの嫉妬が動機と言うつまらないお話になるわけですが、当時の日本のおかれた状況が分かるような事件です。

 船のお話といえば、「大内健二」さんの著書が実に面白く私愛読しております。是非大内さんに船にまつわる怪事件の一つにこの日枝丸事件を書いていただきたいとひそかに希望する所です。

 

 ようやく本題です。

 当時の新聞記事はこちら。(朝日新聞)

日枝丸事件.13.02.23.

 時は、1938年(昭和13年)1月20日です。

 場所は、アメリカ合衆国、ワシントン州、シアトルです。

 主犯、ラルフ・フォーサイド(29歳)

 従犯、ジョージ・パトリッジ(22歳)

     (弟)ウイリアム・パドリッジ(19歳)

 事件の概略は、

 

 強引に休暇を取りましたので県立図書館へ向かいました。(他ニイクトコロガナイ・Orz)

 我らが寺尾・増井博士の調査で県立図書館所蔵の雑誌はあらかた見終わったので現在は関連古書と新聞記事が専らです。

 

 初生雛雌雄鑑別について2点面白い記事を発見しました。

 先ず紹介するのはこちらです。

 「日本人の特技"卵鑑別法"英下院で飛んだ大論戦 兜をぬいだブラウン労働相」

雌雄鑑別法英下院で大論戦.13.02.22.

 1938年(昭和13年)6月2日の読売新聞です。

 ちょっと間違いがあります。

 記事では"卵鑑別法"となっていますが正確には"初生雛鑑別法"又は"初生雛雌雄鑑別法"です。

 この時点では卵の状態で雌雄を鑑別する技術はありません。

 (現在は不明・・・私専門外)

 

 我らが増井博士と日本養鶏技術者に先んじられた悔しさがにじみ出てくるようなイギリス下院の論争です。

 

 

 よく日本が世界に誇る技術としてニワトリの初生雛雌雄鑑別技術が挙げられます。

 この技術は私の住む小坂出身の「増井清」博士の研究によるものであります。ただ、その他の技術と異なる所は、農事試験場で開発されたものではなく民間の技術者・業者の協力があって初めて完成した技術であります。

 正に日本が誇る畜産技術であります。

 この初生雛雌雄鑑別技術は未だに日本のお家芸といわれております。畜産学の権威のお一人であります佐々木清綱博士曰

 「手先の器用な日本人が得意とする技術」

 であります。(参考文献が見あたらなかったので多分です)

 私自身もブログで「世界の追従を許さない技術」とか何とか書いておりましたが、内心日本人にできることなら他の国の技術者に出来ないわけがないと考えておりました。

 その観点より増井博士の資料を当たって見ました。

日本平動物園で勝手に鑑別実習.12.09.15.

 私が調べた限り、増井博士は公正で差別を嫌う方であります。

 「日本人でなくては出来ない技術」とは決して考えておられないはずです。

 調べてみたらでてきました。

 資料は昭和13年6月14日読売新聞夕刊です。

 

 満寿一酒造の杜氏「増井浩二」さんが亡くなって早1年がたちます。

 満寿一さんの営業も今月限りとなりまた寂しくなります。

 こちら満寿一さんの酒蔵は静岡市景観百選に選ばれた古く味がある建物であります。

 満寿一酒造酒蔵.12.09.26.

 満寿一酒造の社長増井成美さんのお話によると、下のコンクリート部分の建物が大正13年建設で、上部の木造部分は建て増しで昭和10年建設されたようです。(しっかりメモしておかなかったので多少のずれがあるかもしれません)

 古い建物です。

 大正時代にコンクリートですから当時としてはかなりハイカラな建物であります。

 考えてみれば小坂の満寿一の酒蔵(多分)もレンガ造りですから、新たな技術導入に意欲的であったと思われます。精米機、冷蔵庫の導入も大正期であったようです。

 日本が世界に誇る動物遺伝学の権威、「増井清」博士の研究に関する状況を見ていきますと・・・・実に研究費に苦労された方と分かります。

 三流研究者が「研究費がないからよい研究が出来ない」とほざいていますがこんな泣き言は三流の証明にしかなりません。(自分の金で研究するわけでもないのに)

 増井博士の有名な初生雛雌雄鑑別の研究ですが、大正14年畜産学会で発表された研究は畜産試験場初代場長「中川庄司」場長の全面的な協力により完成しました。

 しかし、2代目場長の木村和誠は「試験場は試験をする所で研究する所ではない」と、のたまい研究費を削減しました。(西川哲三郎さんの著書より)

 そのため増井博士の研究は理論的には証明されましたが実用化にはまだ完成には程遠い段階で暗礁に乗り上げました。この点は畜産試験場で研究されていた他の研究者(鈴木幸三博士など)も同様でした。

 そこで、増井博士は同志と共同して大正15年「養鶏研究会」を設立し、農家、業者を巻き込んだ研究会を開き、研究の実用的価値を説明していきました。(もちろん畜産試験場・大学で研究された理論の実用化が目的です)

 博士の初生雛雌雄鑑別理論の重要さを見出したのは民間の養鶏業者でした。博士から指導を受け自らも研究すると共に増井博士に研究費を送りました。

 この民間から寄付された研究費が増井博士の研究を助け、100%鑑別を可能とする初生雛雌雄鑑別技術となるわけです。

 増井博士が象牙の塔にこもって研究されていた方でない証左であります。日本養鶏業の状況を理解している増井博士は関係ある多くの方に自らの研究が必ず実利をもたらすと説得されたのです。

 博士の書く文章が私にとって読みやすい理由がよくわかります。博士は一般人の心を理解されているのではないかと思っています。

 

 ここまで長々書いておりますが疑問をもたれる方も幾人か出てくるかもしれません。

「なぜ業界の為になる研究を行っているのに、頭を下げたり説得しなくてはならないのか」

 はい、答えは単純です。

 博士にとっては、日本養鶏界が発展して初めて自らの存在意義があると考えているからです。自らの研究が産業に生かされなくては意味がないのです。

 「農学栄えて、より農業栄える」、この言葉がふさわしい学者であります。

 

 その増井博士が最後の戦いの場として設立された研究所が「(財)増井家禽育種研究所」であります。

 十周年記念に要覧が発行されました。

 この要覧より増井研の陣容を紹介いたします。

 

増井家禽育種研究所要覧.12.12.04.

 この表紙の模様は、鶏の染色体です。

 簡単に説明して本題に入る予定でしたが・・・なぜか前置きが長くなりました。

 「農学栄えて、農業滅ぶ」という言葉から、鏡保之助先生(本通)、白鳥吾市先生(門屋)、寺尾博博士(聖一色)と駿河を代表する農学者のお名前を紹介してまいりました。(なぜ、こんなに静岡市から高名な農学者がでたのか・・・・?。)

 そしてもうお一方、鏡先生のなぞかけを行動をもって答えた学者がおります。

 静岡市駿河区小坂出身の「増井清」博士です。

 昭和29年7月、日本大学の好意を得て、藤沢市亀井野にある農獣医学部附属圃場に研究所を開設しました。(面積3,000坪・・・1町歩)

 現農獣医学部附属圃場

農獣医学部附属圃場.11.01.10.

 個人的に感無量であります。

 私はここで4年間勉強しておりました。

 学生当時はなにも知らなかったのですが、増井博士の調査を始めて、ここに博士の研究所があったことを知りました。

 不思議な縁を感じます。

 

 研究所設立当時増井博士は67歳。東京大学を定年退職され、学士院会員に選出されております。

 どこかの研究施設の顧問や理事をされていてもおかしくはないのですが、「種鶏の輸出こそ日本養鶏界の生き残りの道である」との信念のもと自身の主導する研究所を設立しました。

 この時の(財)増井家禽育種研究所の状況を紹介します。

 こちらは昭和29年に作成されました「静岡県産業教育七十周年記念誌」を参考にしました。

 この資料に静岡農学校第2代校長を勤められました「白鳥吾一」先生のインタビューが乗っております。

 題名は「農業教育創始の頃を白鳥吾市氏に訊く」です。

 白鳥吾市先生は「農学栄えて、農業滅ぶ」と言う超有名な言葉を残されたとされる(まだ確認されておりません)横井時敬先生の弟子です。(もちろん東京帝国大学出身です)

 静岡農学校に銅像がございます。

 白鳥吾市先生銅像.12.08.08.

 静岡農学校50周年の時の記念事業でこの銅像は建設されました。

 先日こちらの静岡農学校に昔の資料(白鳥吾市先生関係)を拝見させていただこうかと電話した所・・・・・なんと、古い資料はすべて処分したとのこと・・・・・・Orz。

 よく伝統を語れるなあ・・・・モンスター・ティーチャーどもが。

 

 こんな話はどうでも良いのですが、簡単に貴重な証拠資料を処分する野郎どもが教員ですから、つい頭に血が上って・・・・失礼。

 さて、静岡農学校最高の校長先生と評された「白鳥吾市」先生の選ぶ静岡県農業教育史上の有名人です。(注・昭和29年の時点です)

 世に残る水稲の名品種「陸羽132号」と、日本が世界の追従を許さない技術「初生雛雌雄鑑別技術」の両方の開発に関係された人物のお名前を見出すことが出来ました。

 

 言うまでもございませんが、「陸羽132号」は静岡市駿河区聖一色出身の「寺尾博」博士が中心となって作出されました。大正10年作出です。

 鶏のヒナのオス、メスを鑑別する、「初生雛雌雄鑑別技術」は私の住む静岡市駿河区小坂出身の「増井清」博士の研究によるものです。

 

 どちらの研究も多くの研究者の助力がありましたが、「寺尾博」と「増井清」無くしては世に出ることはありませんでした。

 その両方の研究に協力された方がこの方です。

中川庄司場長.12.09.30.1.

 「中川庄司」場長です。

 愛知県名古屋市出身の方です。資料が少なくまだ調査も初期の状態です。

 上の写真はとある研究者の方から教えていただいた資料「大曲100年の研究と思い出」より拝借しました。

 千葉の畜産試験場で中川場長と面識のある西川哲三郎さんはこう語っております。(「飼料に明け暮れ50年」)

『どんな閲歴でいかなる業績を残された方かは、まことにうかつにも存じあげないが、白髯を蓄え、一見乃木将軍を彷彿させる風貌で、どちらかというと寡黙の人であった。』

 

 写真でも「乃木希典大将」のような風貌です。

 この方がどのように「陸羽132号」と「初生雛雌雄鑑別技術」の開発に携わったのか調べた限りですが紹介します。

 増井博士の設立しました「(財)増井家禽育種研究所」は昭和49年に閉鎖されました。

 結論から申しますと、この増井家禽育種研究所閉鎖を持って日本の養鶏界はアメに白旗を揚げたことになります。

 日本最高峰の人材を集め、資材、設備、多額の研究費を用意できた研究所は日本ではここしかありませんでした。

 重ねて、日本の畜産学者が無能であったわけではないのです。

 私、素人ながら敗北の理由を考察しているところであります。

 こちらは、増井家禽育種研究所がありました農獣医学部附属圃場です。

農獣医学部附属圃場.11.01.10.

 

 「日本種鶏ふらん協会30年の歩み」にあります国産鶏普及協議会の概要という記事があります。

 こちらに日本で改良された種鶏を有する種鶏場の名前があります。3箇所です。

 (株)後藤ふらん場  岐阜県岐阜市

 (株)小松種鶏場   長野県松本市

 とりっこ倶楽部"ホシノ"  静岡県島田市

 たったこれだけです。

 日本で飼育されている採卵鶏における割合はおそらく1割に満たないと考えられます。

 西尾敏彦先生が後藤ふらん場について記事を書いておられます。

「青い眼の鶏」に立ち向った、後藤静一とその後継者の国産種鶏改良

 後藤さんと増井博士とは雑誌「畜産の研究」の座談会で一緒でした。

 昭和13年から増井博士は東大と自宅で鶏の「近交系」と「雑種」の研究を行っておりました。(実用鶏作出の研究)

 アメリカに遅れること約2年です。

 昭和11年(1936)に、世界で最も優れた遺伝子を持った鶏の開発を目的にハイライン・インターナショナル社が設立されました。(「日本種鶏ふらん協会30年の歩み」より)

 

 この時期は、戦争中であります。昭和12年の第2次上海事変より泥沼化した戦闘は日中戦争にまで拡大しました。日本中で物資、人員が不足していました。

 そして昭和16年、太平洋戦争が始まりました。

 

 増井博士の耳にもアメリカで大規模な研究が行われている情報は入っていたのでしょう。しかし、状況は戦時下なので細々と研究を続けられました。

 昭和20年3月の東京大空襲で東京帝国大学農学部は被害を受けます。駒場の自宅に疎開させていた鶏以外は全滅。その後鶏舎再建しても野犬に襲われ・・・・。

 踏んだり蹴ったりと散々な状況でした。

 それでも、その生き残りの鶏の中に一筋の光明を見出すことができました。

 これらの鶏が後に作出される近交系交配種「増井1号」の親(先祖)となります。

 

 苦心の末、作出された「増井1号」は昭和28年より愛知県安城市の農家にて委託試験が始まりました。

 日本で始めて現場(農家)での試験が行われた鶏です。

 その増井1号の性能を紹介します。

 日本の養鶏の歴史を見ていきますと、明治末期から大正時代にかけて大量の支那卵が輸入され日本の養鶏業が立ち行かない事態となりました。

 (なぜ農学の授業で、昔から食料輸入により日本農業が苦境にあったことを教えないのか?。農地解放ばかりえらそうに・・・・。)

 このため日本政府は高率の関税をかけ支那卵の輸入を抑制し、逆に輸入飼料の関税を抑えました。この保護貿易がなかったら日本の養鶏は成立しませんでした。

 このことは、畜産関係者(学者、業者、官僚)すべてが理解しておりました。

 保護貿易にくわえて政府は、欧米から優良な種鶏を輸入して日本の鶏の改良を行うようになりました。これが、日本の鶏改良の始まりです。

 この辺の事情は、増井博士の著書にも記載されております。詳しくは、農事試験場場長を務められました安藤先生の「安藤広太郎回顧録」と岩住博士の「畜産昔話」でよくわかります。

 

 保護貿易のおかげで何とか息をつき発展を見た日本養鶏界ですが、先見のある方々は次の2点を考えておりました。

 1、実用的な多産鶏の合理的な作出方法。(ただ365鶏を作ると言う意味ではありません)

 2、保護貿易がなくなったときの日本養鶏業のありかた。

 以上2点は、養鶏だけでなくほかの畜産、農業にも当てはまるところがあります。

 

 なんとか日本養鶏界のおかれた状況を整理してみました。

 

 この状況下、実用的多産鶏の作出に取り組まれた方こそが、我らが「増井清」博士であります。決して初生雛雌雄鑑別の研究だけの方ではありません。

 日本動物遺伝学最高権威として鶏の育種に取り組みました。

 博士の行われた方法は2つ、「近交系の作成」と「雑種強勢の利用」です。

 

 365鶏とは、1年間365日休まず卵を産み続けることが出来た鶏のことです。

 これは、自称ではだめです。種鶏場のトラップネスト試験にて観察されたものです。(公の機関です)。産卵検定試験と呼びます。

 従いまして本物です。

 少なくとも300鶏でも非常に優秀といえます。

 この365鶏の鶏を世界で始めて作り出した方は岩手県の小農「橋本善太」さんです。

 昭和14年のことだそうです。

 この橋本善太さんは増井博士の著書にも度々登場してきます。博士に評価された一流の養鶏家であります。

 

365鶏では無い鶏.09.04.18. 上の写真は「365鶏」とは無関係の青い目の鶏であります。

 

 当時(戦前)の養鶏雑誌では350鶏の鶏ができたというとその種鶏場はもとより、その鶏を出した、ふらん場、ふか場、養鶏場のよい宣伝になりました。

 当時の記事をコピーしたのですが・・・・あいにく見つからなかったので・・・・。

 実にどうだといわんばかりの太文字で書かれた広告は・・・・面白いです。

 養鶏場では、この350鶏を作出することが宣伝であり、この350鶏からできた子供がまた良い値で売れたわけです。

 

 このヒナの売れ行きを左右する350鶏ですが、これにけちをつけた方がおりました。

 もちろん当人は学理的な観点より真実を述べたまでであります。

 

 その方は・・・我らが「増井清」博士であります。

 

 さすがは、「天下のご意見番」石川千代松博士の一番弟子であります。(こちらは私が勝手にそう思っているだけです)

 増井博士の論を紹介します。

 夏ですが怪談話ではありません。

 「青い目の鶏」とは、アメリカ(欧米)より輸入された種鶏から増やされた採卵鶏の事を指します。

 外国生まれの親から生まれた鶏です。

 

 ・・・・・・・・。

 それがどうした?。といわれそうですが、農学を真面目に勉強してきた者からみると非常にまずい話です。(理学も含まれるかなあ)

 石川千代松先生の言葉を借りると、「不都合」であります。

青い目の鶏09.08.04. 写真では赤い目ですが・・・・・。

 なぜ、「青い目の鶏」(輸入種鶏)が不都合であるか、増井博士を始め多くの研究者、識者が雑誌や新聞で述べております。(昭和30年代の畜産関係の雑誌には多く見られます)

 これらをまとめますと、

 1、外貨の流出

 2、飼料の輸入。

 3、肥料の輸入。

 簡単に以上3点が挙げられます。

 こちらを説明してまいります。(いろいろ資料はございますが主に増井清博士の著書「鶏の改良と繁殖」を参考にいたしました)

 

 増井博士には2人の師がおります。

 お一人は、日本生物学の草分けの一人「石川千代松」博士であります。

 もうお一方は、ドイツカイザーウィルヘルム研究所所長を勤められました『マイマイガの間性の研究』で高名な「リヒャルト・ゴルトシュミット」博士であります。

 こちらのゴルトシュミット博士については、増井博士他の方が数多く業績、思い出について雑誌「遺伝」や「採集と飼育」等に寄稿されております。増井博士の寄稿が一番多いです。(弟子ですから)

 又、建部民雄さんが「ゴルトシュミット」正、続、続々と3冊私家版にて出版されております。こちらはほぼ入手不可能でありまして、静岡では清水図書館に所蔵されております。

 

 昭和11年のドイツで行われた世界家禽会議で、増井博士は議長国ドイツより招待を受け特別講演として「初生雛雌雄鑑別」について発表されました。

 当然、誰が考えても栄光の時に違いはありません。どの研究者もあこがれるのでしょうが、世界から注目される研究者は数えるほどしかいません。

 維新以来、欧米諸国から遅れた国と思われて来た日本が賞賛(尊敬)の目でみられた時はこれが初めてでしょう。

 

 最高のスポットライトを浴びた増井博士ですが、心中愉快とはいえないことがありました。

 それは、この昭和11年(1936年)に増井博士の師「ゴルトシュミット博士」がアメリカへ亡命されるからです。

 そうです、時のドイツ最高権力者はヒトラー総統であります。ユダヤ人のゴルトシュミット博士は追放されました。1933年より危惧されてきた事態が現実化しました。

 

 増井博士の寄稿された記事なども2年前より収集しておりますが、さすがにすべて手元におくことが出来ずにおります。

 特に大正時代には関東大震災、昭和には東京大空襲と、貴重な資料が焼かれてしまう事件が起こっております。

 戦後の資料は比較的楽に収集できますが、戦前のものは・・・・・なかなか骨です。

 この資料は農業技術史を専門とされております、とある方より頂きました。

 昭和14年発行された雑誌「養鶏」に増井清博士が寄稿された記事であります。題名は「雌雄鑑別研究当時の回顧と隠れたる恩人」です。

 こちらは記事にある写真です。

雌雄鑑別研究恩人.bmp

 非常に見にくい写真で失礼をいたします。

 右より、余語彦三郎氏、石川千代松博士、増井清博士であります。

 この記事が書かれた年は昭和14年です。ドイツで行われた世界家禽会議より3年が経過しております。世界各国が鑑別師の派遣をもとめてきた時です。この年36名の鑑別師が欧米へ派遣されました。

 写真の余語さんがその海外派遣(アメリカ)の第1号であります。当時最年少の天才鑑別師と評された方です。この派遣の年は昭和8年です。この余語さんの日本人鑑別師初の海外派遣に関して、写真中央の石川千代松博士がアメリカ各所の大学、研究所に連絡されたようです。

 石川千代松博士はこの2年後昭和10年に亡くなります。この時には18名の鑑別師が海外に派遣されておりました。僅かな期間で世界中より認められました。

 

 なお、この余語彦三郎さんはフィリッピンにて戦死されます。

 大正14年東京青山会館において開催された第1回日本畜産学会において発表された『初生雛雌雄鑑別の研究』でありますが、この時には誰も相手にする人は居なかったようです。

 昭和初期にかけて初生雛鑑別の技術については懐疑的な方が大半であったことは想像できます。そうなればこの研究が開始された年に関心が集まるのは、当然初生雛鑑別技術が有名になって後の話です。

 

 理論的にはこの時の論文で完成しておりますが、実際に行うべき技術的な点でまだ足りない部分が多くありました。基礎研究と応用研究の2種類あるのと同じように一つの論文ですべてを満足させることは無理です。特に今まで(鶏で)着目されていなかった退化交尾器を視認する方法ですからデータが多く必要になってきます。

 

 初生雛雌雄鑑別の研究が有名になるのは昭和7年です。

 「生殖突起の形態並びに統計的研究並びに雌雄鑑別方法についての一考察」と題しました論文からであります。こちらの研究は橋本重郎さんとの共同研究です。

 当時既に職業としておりました鑑別師に対して福音でした。

 感に頼る部分が多くあった鑑別ですがこの研究でより科学的になり100%鑑別が可能となりました。

 こちらが「雌雄鑑別てほどき」に記載されていた増井博士の研究された分類です。

生殖突起の形式.12.08.13.

 昭和11年ドイツ、ライプチヒにて行われた世界家禽会議に発表された特別講演はこれが基になっております。

 初生雛雌雄鑑別の研究も多くの方の協力と理解があった上で最初の論文発表より7年かかって世界的な鑑別技術にまで昇格したようです。

 さて、俄然注目が集まってまいりますと多くの方からインタビューや寄稿を求められるようになってきます。こうなってきますと初めて初生雛鑑別の研究を始めた年が関心を持たれるわけです。

 一般的には大正12年といわれていますが・・・・・実は。

 久々のアップでございます。最近体が大変で・・・・何とか生きている状態であったので遅くなりました。

 

 初生雛鑑別について調べ始めて・・・・びっくりしたことが。

 この初生雛鑑別の論文が発表された大正14年4月の第1回日本畜産学会大会においてほぼ無視されておりました。

 「日本独自の技術である初生雛鑑別!」なんて口にはしておりますが最初はこんなものでありました。この時、この技術こそ将来養鶏界に役立つと関心を示した方が「小島学」さんです。この方は「初生雛鑑別実用化の父」と呼ばれるようになりました。

 この初生雛鑑別技術に対して当初畜産界がとった行動こそ日本的といっては日本的であります。そのほか舶来の技術、理論に対しては無批判で受け入れる反面、日本人学者の研究に対しては無条件で批判的です。

 このことを書き残された方は遠州の鈴木梅太郎博士の弟子であります「波多野正」博士であります。(畜産の研究2巻6号より抜粋)

 「大正13年頃千葉の畜産試験場で増井先生、橋本先生、大野氏の私達一緒に研究しておりましたが、増井先生は初生雛の雌雄鑑別についてしらべておられ、その結果を畜産学会で発表されたのですが何の反響もありませんでした。」

 千葉の畜産試験場にて一緒に研究をされていた波多野博士の言葉です。

 ・・・・・・・・・・。

 増井博士は、学理的なことや恩人への感謝の言葉以外は書き残されておられませんでしたので、当初から日本養鶏界が待ちに待っていた待望の技術と簡単に考えておりましたがそうではなかったようです。

 なお、この初生雛鑑別の実用化に取り組んだ小島学さんは周囲の方から変人、キチ○○扱いされたようです。

 

 さて、この初生雛雌雄鑑別(ほぼ正式には)技術について、まだ当時では革新的な点がありました。これは発表者の肩書きを見るとわかります。

 本日増井博士の命日であります。

 お墓のあります、静岡市駿河区小坂の瑞応寺に向かいます。

 もちろんお供えになる物を持参します。

 ・・・・・・・・・・・。

 ろくなものがない!。

 買ってくれば見掛けは整いますが、そういうことを喜ばない方であります。この点を踏まえると、私が苦労してつくった物でなくては意味が無い。

 しかし、まだこれと言った品種も出来ていないし、これという花のあるものも無いし・・・・、と朝から考え、これにしました。

メロン日本一ゴールド.12.08.06.

 神田育種農場作出の日本一ゴールドです。

 右側の物を持っていきました。重さ3,6kgです。

 ・・・・・・・なぜこんな馬鹿でかいメロンが取れたのか。周りではカボチャと呼ばれております。

 これしか関心を引きそうな品が無いので持参します。

 静岡(駿河)を代表する農学者を私が個人的観点からセレクトいたしました。

 静岡にはろくな人間(偉人)がいないと、よく言われます。(静岡の人間から)

 本当にそうでしょうか?

 謙遜は自身が行うことでありまして他人が行うことではありません。

 

 後進(自分自身)の教育の為にも、優秀な人物を見出しその事業に協力していく為にも、過去比類なき業績をあげられた「偉人」と称することの出きる人物の研究は必須ではないでしょうか。

 

 私は農学が専門分野でありますので、その方面より偉業をなした方を調査してまいりました。

 農学の分野では、遠州(榛原郡)の鈴木梅太郎博士が有名であります。現に静岡県には鈴木梅太郎賞と梅太郎さんの名前を関した賞があります。

 ビタミンB1の発見者でもあり、日本農芸化学学会設立者の筆頭です。国民の体格向上の為に、栄養学的見地より研究を行っておられました。理研において、理研酒などその他多くの特許を発明し、後進研究者の為の研究費確保に努められました。

 立派な人格を持った農学者であります。

 

 この駿河にも梅太郎さんと並び称されるべき農学者を3名あげることが出来ます。

 この評価は、位階勲等とは無関係です。

 共通点は、公(おおやけ)に尽くされたこと、自身の栄達の為に学問をされなかった点です。

 久しぶりに満寿一さんへまいりました。

 成美さんより

 「小坂、増井と書いてある古い竹の編んだカゴがでてきましたので、よろしければどうぞ」

 とお電話をいただいたので、昼過ぎに満寿一さんへ向かいます。

 もう少し前に成美さんの顔を見に行くつもりであったのですが・・・・台風やら、トマトの収穫やらなにやら・・・多忙の局地でありましたのでご無沙汰しておりました。

 満寿一さんに到着すると・・・・「ん!」

 小坂瑞応寺の方丈さんが話をしていました。

 小坂ではお会いしますが、満寿一さんでは初めてです。

 そうこう話をした後で、成美さんと酒蔵の二階に向かいます。

 これが百年前の背負いカゴです。

百年前の背負いカゴ.12.07.19.

 二つあります。背負いかごの片側に「増井」、もう一方に「小坂」と書かれています。

 小坂にあるときに作られたものです。増井博士のお父さん「清右衛門」さんの時代です。

 ただ今静岡はお盆でございます。先祖さんがこちらの世界に戻ってくる時です。

 私の住む小坂は昔から勤勉・篤実を旨とする土地柄であります。

 その中で、偉業をなした方が偶然にも同じ時期、同じ場所で栄光の光を浴びた記録があります。

 お一方は、初生雛鑑別技術の父といわれる「増井清」博士です。

 もうお一人は、ベルリンオリンピック日本サッカー選手(ゴールキーパー)の「佐野理平」選手であります。

 

 博士の生家と佐野選手の生家は御近所さんであります。ちょっと年代は離れておりますが実家の屋号を聞けばお二方ともよくわかる間柄です。(御大家同志ですから)

 

 こちらが佐野理平選手です。

佐野理平選手.12.02.14.1.

 「長田南小学校百年誌」より

 

 時は昭和11年、ドイツです。

 この時、第6回世界家禽会議が開催され日本から「増井清」博士が議長国ドイツより招待を受けました。

 博士の講演の内容はもちろん「初生雛鑑別技術と理論」です。この講演に使用するために巨額の資金を使い宣伝映画が製作されました。この映画はその後長らく初生雛鑑別協会の倉庫に埃をかぶっておりましたが名古屋大学の蛭薙先生が発見しDVD化してくださいました。

 HPはこちらです。

オリジナルフィルムの発見

 

 増井博士に同行した佐々木博士の記録では8月1日ベルリンオリンピック開会式を参観し、2日に万国家禽会議が閉会しました。会議に参加された一行はその後1週間にわたりドイツの研究所などを見学していったとのことです。

 増井博士の歴史的講演は7月28日。場所はライプチヒドイツ国立図書館です。

 題目は「The sex-determination of day-old chicks、with films、follawed by practical presentations」です。

 

 続いて、佐野理平選手です。

 現在山崎にあります満寿一酒造が誕生した場所です。私の家のすぐそばです。回覧板を届けにいける距離です!。

 現在はミカン畑になっております。細かいところは地権者の許可を得て撮影いたしましたが、全景は場所が分かりますので撮影はいたしません。

 

 この場所は、増井清博士が将来学者になろうと志した思い出の地であります。

 著書「鶏の改良と繁殖」の序言(昭和22年6月)より

 

 私の母は動物が大変好きであった。毎年年中行事のように蚕を飼育し、20羽ばかりの雛を欠かさず孵化して育成したのであるが、それが愛の心を以って我が子のように可愛がって丹精して飼育するのであるから、常に結果がよく、近隣の人々から特殊の技能を持っているように思われていたのである。

 私は幼少の頃から母の手伝いをして雛の世話をしたのであるが、その間に動物特に鶏に対して少なからず興味を覚えるようになった。今でも私は鶏を研究相手としている時、幼少時代の感慨深い追懐に耽り母の感化の深かったことを思い出さずにはいられないのである。

(中略)

 私が鶏を材料として一生研究を続けるようになったのも偶然ではなく幼少時代の母の感化に依るものである。母が逝いて既に18年私は依然として鶏の研究を続けているのである。往時の追懐の念に耐えずこれに本書刊行を思い立った一つの理由である。

 

 博士は幼少期母親と二人で鶏の研究(?)をしておりました。

 ・・・・私は幼少期ここで幼馴染と戦争ごっこをしておりました。

 

 ・・・・別にいいんです私は惣領ですから!。(増井博士は五男です)

 現在の日本養鶏業は、ほとんどすべてアメリカから輸入された種鶏よりできた鶏を使用しております。

 私専門外でありますが調べた限りの事を記載しますと、

 1、アメリカで研究され作出された鶏(雌雄)・・・・祖父母(grandparents)

 2、その子供を輸入する(雌雄)・・・・父母(parents) 種鶏と呼ばれます。

 3、輸入した鶏、雌雄より増殖した産卵用鶏を販売。

 このようになります。採卵鶏まで3世代に分かれます。

 

 日本において増殖された鶏といってもその親はアメリカです。種鶏の輸入が途絶した瞬間、日本養鶏業は停止してしまいます。これは明治、大正の時代と同じ構造です。(現実に、大戦時種鶏難の状況が生じました)

 昔、気概のある学者の多くはこの事を憂いて日本独自の鶏の作出を目指して研究を行いました。

 その研究者の一人であり、最高権威の方が増井清博士です。

 

増井清博士 この記事は、戦後すぐに発行された養賢堂「畜産の研究」に収録されているものであります。「研究ニュース=増井研究室の研究現況」と題された記事です。

 時期は昭和22年です。

 

 増井博士の最後の研究論文がアメリカのPoultry Science誌に投稿されたとの柏原博士の記事を見て、長らく英文サイトを探しておりました。

  その時に見つけました!

 国際家禽学会(WPSA)のHPです。

 1988年に名古屋で行われた万国家禽会議にて、産業(家禽)の発展に絶大なる功績を挙げた研究者25名が顕彰されることになりました。

 

 "Hall of Fame"殿堂入りされた25名の研究者、唯一の日本人は増井清博士であります。

 リンクはこちらです。

International Poultry Hall of Fame 1988

 

 欧米の学者が研究熱心である一つの証左であります。増井博士の経歴・業績を簡潔にまとめてあります。

 日本の学会であります、日本畜産学会、日本家禽学会にはそのような記述はありません。現在初生雛鑑別師を養成している(社)畜産技術協会のHPにも増井博士の紹介はありません。

 

 増井清を慕うものとして複雑な感情を抱くところです。

 博士は自身の栄達は眼中になく、産業のため、世界の発展の為を目的に研究を行い、後進を育ててきた方であります。

 ご自身の殿堂入りはどうあれ、その他の日本人研究者(家禽)が欧米の学者から見て小物であったと思われていることが悲しいことでありましょう。

 

 The World's Poultry Science AssociationのHPより、増井博士の来歴を紹介します。もちろん英文です。日本のHPでは紹介された事がない増井家禽育種研究所についても記載されております。

 

 小坂百姓の一言 「ちっ、アメのほうが人間の評価が公平だ」

 

 満寿一酒造杜氏、増井浩二さんが亡くなって4ヶ月になります。

 先月末で満寿一さんは営業を終了しました。

 ・・・・寂しくなります。

 

 昔の話をするといろいろ誤解もありますが、あえて書いてみます。

 私の住む小坂で、御大家と呼ばれる家柄を持つ家で家業を継いでいる者は、浩二さんと私だけでありました。

 もう昔ながらの大身も家業(小坂では農業)を捨て他の道で生計を立てていかなくてはならなくなってきていました。

 浩二さんが亡くなり、私は最後の一人になったのであります。

伝次郎と満寿一の徳利.11.02.28.

 満寿一さんは山崎にあり、回覧板を届けにいく距離にはありませんが、根はいまだこの小坂に残っております。

 御大家に生まれると多くの方は羨ましがるようですが、実際そうではありません。

 財産はすべて先祖のものであり、子孫に残すものであります。自分が自由につかってしまえる財産ではないのです。家業も収益が上がるから継ぎ、儲けがないからやめると言うわけにはいかないのです。状況がよかろうが悪かろうが、一生懸命努めるのです。

 それは、何百年の歴史の中で先祖も楽な時だけではなく、非常な苦労を重ねて今の家柄を作った事を知っているからです。

 父母、祖父母を通して先祖を見、その心に応える事が家を継ぐ理由であります。

石川千代松博士の著書『人間』昭和3年版 p442~p459に『停年に際し私が急に職を辞せざる理由』の長文が収録されています。この長文は『人間』昭和3年版にしか収録されておりません。


 大阪府立大学附属図書館には小冊子となった、『停年に際し私が急に職を辞せざる理由』が保管されております。

 

停年に際し私が急に職を辞せざる理由

 

 文中よりこの文章が書かれた年は、大正10年と考えています。

 これまで何とか途中までタイプしてきましたが・・・農作業だけでなく、増井博士、寺尾博士の調査と首山堡を攻略しておりましたので、長く途中のままにしておりました。

 とにかく、石川博士の文章は漢字や仮名遣いが難しくタイプするのに苦労しております。
 
 最後の部分ですが、増井清博士があの(やかまし屋の・・・悪意は一切ございません)石川千代松博士に認められた数少ない一人である証拠でありますので紹介します。

 
 なお、増井清博士は静岡市小坂の御出身でございます。東名日本坂トンネルの静岡側出口附近が小坂です。

 

 この記事は平成23年12月6日に作成しました。

 満寿一酒造さんは明治41年に現在の静岡市葵区山崎に移転しました。現満寿一酒造の杜氏をされている増井浩二さんから伺いました。


 増井博士は明治20年9月14日生まれです。仙台2高へ進学されるまでの間、この小坂で過ごされました。昭和22年の著作『鶏の改良と繁殖』の前書きに書かれた話もこの小坂での話です。

 増井博士はヒナのオスメス判別技術であります初生雛鑑別の生みの親として有名でありますが、博士の御専門は動物遺伝学でありまして鶏の育種の方に強く関心をお持ちでした。


 満寿一の名前の由来は、増井家と市川家と2件で酒造業を始めた事から「ますいち」と言うようになったと祖父から聞きました。市川さんの方は現在でも小坂で酒屋を経営しております。(田舎の酒屋ですが・・・身内です)


 満寿一さんが山崎に移転された理由は、良質の水を求める為と聞いております。この研究熱心な姿勢は、確かに静岡産業史(正式な題名は失念しました)にも先代、先々代のお名前が見えますことでもわかります。この小坂伝統的な御大家の姿勢とも言えます。


 満寿一さんの跡地は現在は畑です。私の母親の世代の遊び場でした。私の世代ももちろんこの場所で遊びました。戦争ごっこやチャンバラがもっぱらです。(安定成長期世代です)

 また、増井博士の記事とともに紹介してまいります。

 

 この記事は平成24年1月16日に作成しました。

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 鶏の雌雄鑑別といえば、増井清博士です。

 ・・・・。別に博士の地元だからといって増井博士を紹介しているだけではありません。増井博士を通して博士と共にご苦労されてきた方々を紹介する目的もございます。これが駿河の文化であり、そして博士の地元小坂の文化でございます。


 この雌雄鑑別(初生雛鑑別)技術は数少ない日本独自の技術です。人間の持つ感覚を利用する技術であります。外国人(ギャージン)には真似できない技術でもあります。現在の養鶏界ではすでに主流から外れたようですがこの本が書かれたときは世界中の注目を集めた栄光の時でした。

 これが初生雛鑑別師の為に作られた本です。昭和15年発行です。

指数鑑別手ほどき

文字が右から左です。時代を感じさせます。

 現在でも農地に何かが出来る時には必ずおきる問題です。この時は昭和22年です。あの現在でも尾を引く「農地解放」の時代です。

 今では考えられないかもしれませんが、この時解放を受ける方々の権利が異常に強く、(あちらが)気に入らないと地主が留置所にぶち込まれた時代です。


 竹中博士の記録です。
 この敷地は戦争末期に中島航空機株式会社が、軍の力で強制的に収用したものだから、元の所有者に開放されたいという運動が、かねて起りかかっていたのであった。そこでそれ等については県庁、市役所、文部省、商工省と密に連絡して手当てを行っていたのであったが、遂に8月23日、予算編成に当たって候補地視察に赴いた一行に対し、プラカードをもった農民100名ばかりが阻止運動を起こしたのであった。(後略)


 候補地視察に赴いた一行には増井清博士がおいででした。増井博士はこの時彼らと始めての話し合いを行います。遺伝研30年記念誌に記録があります。宮山平八郎事務官の記録と一緒に紹介します。


 現在とは時代が違います。つい2年前までドンパチをやっていたのです。反対運動を起こしている農民の何人かは戦地から帰ってきた者です。命のやりとりをしてきたものは迫力が違います。そういった100名を相手に増井博士他数名で話し合いに行かれたわけです。
 
 度胸がなくては学者は務まらない・・・のか。

 

 この記事は平成23年11月30年に作成しました。

家畜改良と遺伝学

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 雑誌『遺伝』の1巻に収録されております。増井清博士の文です。

 昭和22年に書かれました。この年に出版されました増井博士の著書『鶏の改良と繁殖』にも異なる書き方ですが同じ内容の事が述べられております。


 まだ、国立遺伝学研究所が設立される前です。遺伝学研究所の必要性が説かれ、そしてモデルにイギリスの動物遺伝育種研究所を挙げておられます。(もちろん動物の遺伝育種に関してですが)


 研究に独創性(オリジナリティ)が重要であることは昔からのようです。しかし、実際そうでなかったのも昔からのようです。


 戦争に敗れた後、博士にとって反省される点はその独創性であったのかもしれません。
 
 皮肉な話です。増井博士のように独創性にみちた研究をされた方は日本には数えるほどしかないのですから。

 

 この記事は平成23年11月20日に作成しました。

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