寺尾博博士の最近のブログ記事

 「地方農業技師」の著者「薦田快夫」(こもだ かいお)さんは最初に岩手県の農業試験場に赴任されました。この時の上司が農学校出身で博士の学位を取得された「柿崎洋一博士」です。柿崎博士は陸羽132号の作出に関った方でもあります。つまり寺尾博士の影響をつよく受けた研究者であります。

 もっともこの当時の国立農事試験場本場の種芸主任(つまり実験の総責任者)が寺尾博士なので関係がないとは言い切れませんが、薦田さんはかなり近い所に居られたようです。

 この「地方農業技師」の中で、薦田さんが研究の恩人と言われた方がおられます。岩手県知事を務めその後長崎県知事そして在任中に南方へ赴く途中敵機に捕捉され機上戦死(殉職か)を遂げた「山内義文」さんです。静岡の方であります。文中では山之内と記載されておりましたが、調べて見ると山内でした。名前は義文です。

 静岡中学の名簿をめくって見ましたが・・・・山内義文さんのお名前を見出すことができませんでした。養子に行かれて苗字が変わったのか、遠州の方なのか今のところ不明であります。検索で山内さんの手掛かりを探しましたが・・・・こちらもも手掛かりなしです。気長に探して見ます。

 この山内知事はその他の知事の方とは一味も二味も違います。実家が農家です。並みの技官より農業経験が豊富なのです。そこはさすがに後世にのこる農業技術を残された薦田さんであります。山内知事の信頼を受けるきっかけになります。

 寺尾博士のお名前もでてくる面白いやりとりです

 

 しばらくご無沙汰いたしました。1ヶ月ぶりの更新であります。

 先日、寺尾博士の調査において面白い資料を入手いたしました。

 こちらです

薦田快夫 地方農業技師.14.10.27.

 薦田快夫(こもだ かいお)著「地方農業技師」、「続・地方農業技師」です。

 薦田先生は水稲の早期・晩期栽培技術を確立された方です。戦後の日本の食糧増産にかなり強い影響を与えた有力な増産技術です。

 この薦田先生がお書きになった記録がこの資料であります。

 「地方農業技師」には水稲の早晩期栽培技術確立までの話しで、「続・地方農業技師」のほうは、戦時中南方資源地帯の食糧増産技術研究に携ったことのお話が記録されております。

 薦田先生の水稲早晩期栽培技術を調べて見ると、寺尾博士の植物生育の相対性の概念が色強く見えたので、著書に寺尾博士についての記述があると考えました。

 しかし、この資料は貴重品(つまり発行部数が少ない非売品なのです)です。国立国会図書館にも所蔵されておりません。大学図書館にもほとんど見かけません。県立図書館では香川県の図書館だけですが、こちらの図書館では貴重書に分類されているので借り受けることができません。

 それでも根気強く探しました。そして見つけました

 本日は寺尾博博士の誕生日であります。

 寺尾博士は、東京帝国大学農科大学卒業において恩賜の銀時計を時の陛下明治大帝より賜っております。その後鈴木梅太郎博士の恩師である第2代農事試験場場長古在博士及び安藤博士より請われて農事試験場に奉職。1年後には技官に就任、そして安藤博士が第3代農事試験場場長に就任されるや次席の種芸主任に就任されました。寺尾博士の出世の速さは農事試験場(戦後は農業試験場)空前絶後といえます。

 研究成果もこれまた空前絶後ともいえるものです。数年前まで継続されてきた農業試験場自慢の指定試験も寺尾博博士主導のものです。この指定試験よりササニシキ、コシヒカリの名品種が誕生しました。博士ご自身の作出された品種はこれまた名声を博した「陸羽132号」であります。先に書いたコシヒカリの先祖になります。

 日本の主食である水稲、麦については精密試験法を用い生態的な観点から相対性試験にその試験法を利用し、栽培環境と作物生理の因果関係を究明し栽培法の改善に多大なる功績がありました。日本は葦原の瑞穂の国と呼ばれますが、実際そのようになったのは寺尾博士と共同研究者の尽力の賜物であります。

 東北地方で頻発した冷害に対して始めて科学的な研究がなされたのは寺尾博士の研究チームであります。この功績により学士院賞が授与されました。東北地方では多くの農民より感謝され、終生東北冷害を征した恩人として尊敬の念を集めました。

 昭和16年第4代農事試験場場長に就任されましたが、日米開戦と共に代用品を用いた戦時研究がさかんとなり、予算はついても物はない研究には不適な状態を甘受せざるを得ない状況となりました。この間においても苦心し基礎研究を継続し、且農家指導に邁進し終戦を迎えます。そして農事試験場は進歩的文化人と称する不平分子により混乱を極め、寺尾博士は農事試験場を去ることとなります。

 戦後寺尾博士は貴族院議員、参議院議員を勤められ、農政について又三島の遺伝学研究所設立について尽力されました。

 参議院議員を辞められた後、農電研顧問に就任し電熱を使った水稲の箱育苗の技術化について研究を行います。水稲の早期栽培、又寒冷地の安定した育苗に功績がありました。そして、この箱育苗を用いた画期的技術が、現在主流となった田植機です。この田植機は共同研究者が関口氏であります。農学には全くの素人ですが専門は機械であったことから寺尾博士が懇願し二人三脚にて完成したものであります。残念ながらこの田植機の完成を寺尾博士は見ることはできませんでした。享年77歳。日本農学界最高の天才と称することのできる大学者であります。

 私は寺尾博士の研究のほんの一部を調査しております。

 ・・・・・が。

寺尾博士の命日。

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 7月16日は寺尾博士のご命日であります。

 私が寺尾博士のご命日を知ったのは、増井博士の調査においてです。今年で3回目です。63回目の命日であります。

 増井博士も初生雛鑑別技術の開発者としていろいろと高名な方でありますが、私が知る限り増井博士のご命日に見えた方はおりません。もちろんその他の日もお参りに見えた方の話の聞いた事がありません。(幸いな事に近頃稀にですが増井博士について問い合わせがある事を瑞応寺さんより聞いたことがあります)

 増井博士でそうならば当然寺尾博士も同じでありましょう。

 ここは静岡であり、小坂であります。辺境に礼ありと申しましょうか、都会人のように気が利いた言葉や対応は出来ませんが故人を偲び感謝をする心は持っております。

 慇懃無礼な都会人はさておき、地元の人間が寺尾博士の偉業に対して無知である事が何より悲しく感じております。こちらは実に辛いものであります。

 農学の授業を受けると必ず作物学で、水稲冷害の研究や分げつ体系について講義を受けます。冷害の研究は寺尾博士主導の研究です。分げつ体系は片山佃博士の研究ですが、この分げつ体系を尺度とした作物試験体系を作られた方が寺尾博士です。これが為に分げつ体系の重要性が周知され、いまだに作物学の基礎として教えられているのです。育種学などは寺尾博士が基礎を作られたといっても過言ではありません。

 ・・・・・と書き残しましても、詮無き事であります。しかしながら、心ある駿河人が何時の日かこのような偉人の存在に気が付き、その偉人を徳として偉業を為すときが来るのではないかと私かに願っております。

 昭和31年8月に発行された増井家禽育種研究所の雑誌「とりの育種」創刊号にあります寺尾博博士の寄稿です。

 日本における作物育種最高権威である寺尾博博士ですが、鶏の育種は専門外であります。寺尾博士の指揮していた農事試験場内畜産試験場において鶏の品種改良が細々と続けられてきましたが、これといって成果が出ていませんでした。

 当時日本の養鶏界が世界に対して誇りうるものは、「初生雛鑑別」、「365鶏」、「尾長鳥」の3つです。

 「尾長鳥」に関しては観照的なものなので脇に置きますが、「初生雛鑑別」は我が小坂出身の増井清博士が主導して行った研究成果であり日本人に対して欧米人が頭を下げた始めての研究であり技術であります。この技術あってこそ日本の畜産学者が世界に胸を張って出て行けると言うものです。

 ただ、「365鶏」に関しては議論があります。

 「365鶏」とは公的の種鶏場で調査された1年中無休で産卵した鶏のことを指します。昭和24年の段階でそれまでの検定数のうち僅か2羽しか「365鶏」は出ていません。300卵以上のものは全出品数の5%を出てません。簡単に言えばただ出来ただけであります、それによって学理や技術の向上が見られたわけではなかったのです。

 つまり実用鶏としての価値はないに等しいのです。「365鶏」が出来たからといって養鶏家が飼育している鶏の質が上がっていたわけではないのです。その証拠に、戦時中飼料難により産卵数が落ちたのではなく欧米より種鶏の輸入が途絶えたことで実用鶏の産卵数が落ちたと盛んに言われ、戦後すぐにアメリカより種鶏の輸入再開が声高に叫ばれる事態となりました。

 増井博士及び田中義麿博士曰、「アメリカの鶏を日本で増やしていたようなものだ・・・・」

 であります。鶏の育種に関して日本は世界に対して誇りうる実例は皆無であったのです。

 明治末期より大戦中にかけて二十数年間、日本の農事試験場を指導し世界に冠たる農学理論・技術を数多く生み出した農学の鬼才、「寺尾博」博士はその事実を熟知していました。

 戦後日本の復興は農業の復興より始まり、そして海外よりの農産物輸入に対抗できるよう世界に頭脳を輸出する日本農業を目指していた寺尾博士が、日本に適した家畜である鶏に関して長年の盟友である増井清博士に委ねるところでありました。

 種鶏を世界に輸出する種鶏国家としての日本、これが種苗を輸出する日本を目指していた寺尾博士のもう一つの理想でした。寺尾博士は増井博士に勧め研究所の設立を目指しました。

 これが日本最大の鶏育種の研究所、「増井家禽育種研究所」であります。国立の畜産試験場、種鶏場では限界があったのでしょう。

 常に研究の先陣に立っていた寺尾博士が、初めて自身を脇に置く活動であります。

 明治維新以後、世界より遅れに遅れていた農学の世界を僅か40年の歳月にして追いつき、米など日本で主に栽培されている作物の分野では世界を凌駕する研究がなされた研究機関が農事試験場です。

 県立の農事試験場などありますがそれらの総本山が東京西ヶ原にあります国立農事試験場本場です。そして各種圃場試験が行われた場所は、埼玉県の鴻巣試験地です。

 「西ヶ原」と「鴻巣」の名前は、国立農事試験場中枢を示す時に使われます。

 この農事試験場で種芸主任(研究の総責任者)を24年、場長を5年勤められた方が我らが「寺尾博」博士であります。

 寺尾博士の主導により日本農学研究が世界水準に追いつき追い越すことができたわけです。

 コシヒカリ、ササニシキを代表とした水稲の銘柄米を数多く送り出した「指定試験」や世界初のハイトトロン(冷害実験棟と呼ばれていました)を利用した冷害の研究、作物の生育に関係する要因の究明を行った相対性試験など、世界的に独創性あふれる研究は寺尾博博士の着想であり指揮の下に実行されました。

 たぐい稀なる想像力と実行力を有した方であります。

 

 長年寺尾博士の下で多くの研究を行っておられた近藤頼巳博士が書き残された記録がありましたので紹介します。農事試験場が筑波に移転される時に作成された座談会の記録です。山形県立図書館の平塚文庫より拝借いたしました。

 昭和47年に行われた座談会の記録です。

 「PARAGRAPH‐WRITING」という洋書を購入しました。

 1893年に発行されいまだに再販されている名著です。(古書店を探していた私もビックリしました)

 こちらです。

Paragraph Writing.13.11.17.

 この本は、我らが寺尾博博士がアメリカ ボストン留学時代(1915~1917)に夜店市で見つけて持ち帰ってきたのがおそらく日本初公開でありましょう。

 同名の本もあります。静岡県立大学附属図書館にはFrak Chaplen著の「PARAGRAPH‐WRITING」がありましたが、こちらはオックスフォード大学の方が書かれたものであります。

 寺尾博士が購入されたものはスコットさんが書かれたものです。場所はアメリカ、ボストンです。発行年、発行場所共にぴたりと一致します。

 ただ・・・・・・内容を理解するには・・・・・・時が必要のようです。まあ、日本語の本でも読むことはできても、内容の理解には時間がかかりますが・・・・。

 昭和初期の農事試験場ではこの「PARAGRAPH‐WRITING」を教本として論文を作成していたことが近藤頼巳、山崎守正両博士の記録よりわかります。

 ちょっと抜書きしてみます。

寺尾博博士の人物評

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 寺尾博士のお人柄について書き残されている資料は少数です。

 どちらかと言うと、寺尾博士の名前を挙げて又は名前こそ出しませんがそれとなく判るように悪口を書き残している記事があります。(初期の「農業技術」とか・・・・)

 その、誰でも欠点があるわけですが寺尾博士の場合は、終戦後農林省主流派になった左翼の官僚・学者(研究者)からの攻撃が大きかったようです。(どうも思想的にと言うより機会主義的なインテリが左翼に多いように見えます)

 もちろんそういった左翼の官僚・学者には出世しか頭にありませんから、何でも汚い事はやります。(現在の農業不振を招いた原点が戦中・終戦直後の農業政策にあったことは我々には周知です)

 寺尾博士を否定することによって自分たちの行動を正当化していたことを強く感じます。こちらもぼちぼちまとめていきます。(記録が残っているということは恐ろしいです・・・・)

 

 前置きが長くなりましたが、寺尾博士をよく知る人物の書き残した資料を紹介します。

 増井清博士「寺尾博理事逝去」 (とりの育種6)

 大島廣博士「寺尾博君の追憶」 (採集と飼育24巻6号)

 野口弥吉博士「日本における育種学、とくに植物育種学の発展記録(私見)生立ちから学会設立まで」

 以上3点です。他にも寺尾博士について書かれた記事がありますがまた話の都合で紹介していきます。

寺尾博士と静中同窓会.12.06.26.

 この写真は、増井博士の研究所「(財)増井家禽育種研究所」発行の「とりの育種」に掲載されていたものです。

 見難いのですが寺尾博士のお顔がわかります。増井博士は右の隅だと思います。

 この日は5月3日、増井家禽育種研究所で静中の同窓会が開かれたようです。

 寺尾博士はお孫さん同伴で、よいのどを聞かせてくれた、と書かれています。

 

 この記事は平成24年6月26日に作成されました。

 寺尾博士に御自分の功績を述べさせると言うことは・・・あまり・・・見栄えのしないことであります。

 もちろん現在のように図書館も完備されておらず、農事試験場にいなくては寺尾博士の業績など知る由もありませんから、御当人も承知の上で(非常に)控えめに書き残されたようです。

 情報化社会の今、寺尾博士の残されたお仕事、共同研究者のお名前も資料より知る事が出来ます。

  私が調査いたしました寺尾博士の業績を紹介する前にお父様の寺尾昌太郎翁の銅像建立記念の写真集より寺尾博士の御家族の写真を紹介します。

 この写真集は静岡県立図書館に所蔵されております。決して私が御遺族から借りてきたものではありません。

寺尾博士と御家族.12.05.29.

 この写真は昭和3年10月に撮影されたものです。寺尾博士44歳です。

  左側の方が寺尾博士のご尊父「寺尾昌太郎」さんであります。寺尾博博士の銅像はございませんが、昌太郎翁の銅像は聖一色にございます。

 以前の記事ですが、同じ時に撮られた寺尾博士のお写真があります。場所は九州大学、日本遺伝学会第1回大会です。

 日本遺伝学会第1回大会 リンク

 

 この記事は平成24年6月4日に作成されたものです。

 「南満北支雑映」に収録されております寺尾博博士の紀行文です

 昭和11年です。まだ第2時上海事変は始まっておりませんが、大陸ではきな臭い臭いが漂っております。

 多くの研究者は自身の専門分野のみ気を付けて観察しておりますが、当時農事試験場種芸主任「寺尾博」博士の目は違います。

 自然環境と農業だけでなくそこに住む人々も寺尾博士の観察の対象のようです。

 

 

 

堅忍不抜・・・・寺尾博.13.03.21. 当時内地で聞かれた、「シナのチャンちゃん坊主毛が長い・・・」などの俗説とは無縁のようです。

 寺尾博士の眼には山東苦力(クーリー・・・労働者)はどのように映ったのか。

 

 この記事は平成25年3月23日に作成されました。

 この記事は、昭和11年9月下旬より約2ヶ月間満州と北支を視察された寺尾博士の紀行文の一片です。

 「農業及び園芸」誌に連載されたものを「南満北支雑映」と題して集成されて出版されました。

 面白そうな記事より紹介していきます。

 最初はタイトルの「自然に依存する農法」です。

 口絵

自然に依存する農法.13.03.19.

 満州の農家が豆の風選を行っています。

 寺尾博士の視点に・・・親近感を覚えます。

 

 この記事は平成25年3月19日に作成されました。

 また新たに我らが寺尾博博士の記事を入手しましたので紹介します。

 雑誌「実業の日本」53巻5号にあります寺尾博士の寄稿です。(昭和25年3月)

 この時寺尾博士は67歳。農事試験場を退職され参議院議員、坂田種苗(現、サカタのタネ)の取締役を勤めておられました。

 終戦後わずか5年です。

 都市では闇市は賑わい、農村地域も増産増産の掛け声と共に野良仕事に追われる毎日でありました。

 学者も、農業技術者も当面の課題である食糧生産に目を奪われ先を見るゆとりも無かったのでしょう。

 (・・・・・当然ですが研究室があればよいほうで実験器具、試薬、そして文献も不足していました。)

 政治的、経済的、心理的な様々な難問が山積するなか、じっと日本農業の将来を見据えていた農学者の一人が寺尾博博士であります。

 

 こちらは寺尾博士の御自宅にありました寺尾博士直筆の額です。博士が尊敬する宮崎先生の言葉であります。

 

 

宮崎安貞先生遺言.12.07.16.1. 

 寺尾先生の考え方が伝わってくる文章であります。(宮崎安貞先生遺言)

 

 「農の理法」(昭和21年)を執筆された4年後の文であります。

 現在における農業の問題点を浮き彫りにしたような内容であります。 

 少しずつ紹介していきます。

 

 この記事は平成25年3月9日に作成されました。

 宮沢賢治といえば「雨にもまけず、風にも負けず」と言う言葉で有名です。農学者でありますが童話作家として名が知られています。

 この宮沢賢治が愛し普及に努めたとされる水稲品種が「陸羽132号」であります。

 賢治の「稲作挿話」に、「君が自分でかんがえた/あの田もすっかり見て来たよ/陸羽一三二のはうね/あれはずゐぶん上手に行った」とあります。(農林省HPより転記)

 

 宮沢賢治の著作は「注文の多い料理店」など有名なものしか知らなかったのでこの「稲作挿話」は未見です。

 宮沢賢治より高い評価を受けた陸羽132号は、日本初めて近代的育種法(科学的育種)により作出された品種です。

 こちらは珍しい陸羽132号の記念切手です。

陸羽132号記念切手.12.07.16.

  この切手は陸羽132号作出者「寺尾博」博士の御子息「寺尾明」さんが収集されたものです。

 

 HPでも宮沢賢治の名前と共に紹介されることが多い水稲品種「陸羽132号」であります。(さすが高名な作家であります)

 この陸羽132号の作出者の御名前を紹介します。

 

 この記事は平成25年1月28日に作成されました。

 「農業朝日」の記事で寺尾博士曰、

世間では陸羽132号を寺尾がひとりでつくったように伝えているが、あれはいささか迷惑ですよ。いったい、作物の品種改良、育成事業というものは、たった一人の人間の力では出来るものではありません。

 

 はい、先生のおっしゃる通りでございますOrz。

 早速、関係された方々の御名前を紹介させていただきますOrz。

 

 最初は、寺尾博士と一番付き合いの長い「仁部富之助」さんです。仁部さんは野鳥の研究家としても知られています。静岡県立図書館の蔵書にあります。

 こちらが仁部富之助さんと寺尾博士です。(大正末)

仁部富之助さんと寺尾博士.12.12.11. 写真を取り直しました

 これならよくお顔がわかります。(元の写真が古いので・・・・)

 陸羽132号作出初期から関っておられたのがこの仁部富之助さんです。

 朝日新聞昭和59年10月10日の記事に「秋田の明治百年」から引用して、次のお話が紹介されております。

 『寺尾や仁部は素っ裸で、蒸し風呂のような温室で人工交配に熱中、2日の作業で寺尾は7kg、仁部は5kgもやせた。そして2粒のコメが生まれた。この2粒から本県の稲作を飛躍的に発展させた陸羽132号が誕生した。』

 仁部さんは実直なお顔をされております。寺尾博士の最初のパートナーです。

 続いて5名紹介します。

 

 この記事は平成24年12月10日に作成されました。

 昨日は12月8日であります。

 昭和16年のこの日に、帝国海軍南雲機動部隊が真珠湾を奇襲攻撃しました。

 そして・・・・パリ不戦条約違反の侵略国としてアメにぼこぼこにされて終戦を迎えます。

 この昭和16年に農事試験場の場長に就任された方が我らが「寺尾博」博士であります。

 21年までの約5年間農事試験場場長を勤められました。

 現在でも変わらないと思いますが、国立農事試験場といえば日本最高の農学者が集まる所です。シャバとは異なり・・・・恐ろしい所のようです。(・・・軍隊か?)

 この記事は、昭和33年「農業朝日」が寺尾博士にインタビューしたものです。

 こちらに寺尾博士の写真が載っています。(75歳)

陸羽132号 寺尾博.12.11.08.

 年をとってもこのお顔です。(厳しい顔をされています)

 こわいです。だからこそ私みたいな駿河の百姓から尊敬されるのであります。商店の店主みたいにニコニコしていたら・・・・尊敬の念など、どこか行ってしまいます。

 最初に、寺尾博士の家庭菜園の状況が紹介されています。(聖一色の自宅ではなく鵠沼の御宅です)

『応接間の窓からながめると、広い庭はそのまま菜園で、キャベツやハクサイの苗がたくさん植わっている。ずっと向うには桃の木が十本ばかりある。ニワトリ小屋にはレグホンが100羽ばかりいる。』

 ・・・・・「寺尾先生ニワトリばかり100羽も飼って卵でも売るのか」と、最初は思いましたが、たぶん記者が全てニワトリはレグホン(白色レグホーン)だと勘違いしていただけではなかろうか、実は増井博士作出の「増井1号」と白レグの比較試験をされていたのだろうと考えています。(研究好きの寺尾博士ですから)

 もう一つ、菜園に植えてあった、キャベツとハクサイはどこの品種か?。タキイ、サカタ両種苗会社が有力ですが、寺尾博士の実家のご近所さんが「石井種苗」です。もしかしたらそこの品種もここで試作されていたのかも知れません。(可能性が高い)

 

 インタビューの記事に入ります。読んでいてなんか記者の方がかわいそうになってきます。

 

 この記事は平成24年12月9日に作成されました。

 先日、寺尾博士の御命日に「円福寺」を訪ねました。

 その時に、方丈さんから寺尾博士の25回忌の時に作成された資料を拝見させていただきました。すべて陸羽132号やその他水稲品種の作出回想の新聞記事でした。

 写真を撮り読み返してみると、陸羽132号が新聞にて絶賛されている日付がわかりましたので県立図書館へ向かいました。(寺尾博士のうちの前を通っていきます)

 

 以前寺尾博士の著書「農の理法」(東北冷害調査)の記事のときに紹介しましたエピソードを再度紹介します。

 当時の農林大臣が、

 『寺尾博士こそは今回の凶作におけるもっとも偉大な功績者で、今回だけでも何千万円(注、昭和初期です!)の被害額を免れたことは否定できない。銅像の一つ位は建ってもよいくらいだ』

 と、述べたという話も伝わっている。(以上、西尾敏彦著『農の技術を拓く』より)

 このお話は本当であります。

 証拠は、昭和9年10月21日(朝日新聞)の2面に掲載されております。

 時の大臣は「山崎達之輔」さんです。

 

 この記事は平成24年7月20日に作成されました。

 本日は、私の村「小坂」ではお盆送りであります。

 聞いてみると静岡でも7月盆の地域と8月盆の地域があるようです。(理由は不明)

 

 さて、寺尾博博士のご命日でありますので、お墓へおまいりにまいります。

 菩提寺は聖一色にあります曹洞宗「円福寺」です。

 お墓は「円福寺」の離れ墓地にあります。

 方丈さんにご挨拶した後、位牌堂で手を合わせ、寺尾博士の25回忌の時に作成された資料を見せていただきました。

 その後で離れ墓地にあります寺尾家の墓所に案内をしていただきました。

 こちらが許可を得て撮影いたしました寺尾博博士のお墓であります。

 

寺尾博博士の墓所.12.07.16.

 手前の墓碑が寺尾博博士で、奥の墓碑は寺尾博士のお父さんであります寺尾昌太郎翁のものです。 

 寺尾博博士の戒名は「徹證院真心博道居士」です。

 

 この記事は平成24年7月17日に作成しました。

 ふだん何気なく使われている、(野菜の)品種と言う言葉をちょっと調べてみました。

 資料は、私が尊敬いたします静岡市聖一色出身の「寺尾博博士」の著作「育種」と農業試験場で参考書として使われた厚さ7cmの分厚い「野菜園芸大事典」です。

 

 こちらが昭和6年に岩波書店より発行された寺尾博著「育種」です。

寺尾博著「育種」.12.06.24.

 静岡県立図書館になかったので購入しました。(所蔵されていてもこの本はお買い得です!)。もしかしたら静岡農学校の図書館に所蔵されているかもしれません。

 

 この著作に関して、農学の大家「野口弥吉博士」はこのように書き残されております。

『この書物は昭和初期の植物育種ならびに植物育種学の領域を代表する名著といってよい、と同時に これほど寺尾博先生の優れた性格を明瞭に現しているものはない。日本の育種学の先覚者として自負している点がよく示されている。序文の中でも、"之にはいささか創案を用いたところもあるので"という言葉があるくらいである。

 

 出版当時、筆者(野口先生)は本書を精読して正に時代を先取りしているのに驚いた。(中略)育種に関する科学書、論文は手に入る限り、内外を問わず読破したつもりだが、事実寺尾先生の本の内容には敬服した。

 

 要するに、寺尾氏の著書は、日本における独特の新しい育種学成立の礎石となって、その後の育種の研究、実施に大きな影響を与えた。』

 

 長くなりましたが、野口弥吉博士の寺尾博士の著書に対する感想です。

 この「育種」には、現在でも充分通用する内容であります、そして非常に判りやすく簡潔に書かれています。

 

 ようやく本題の「品種の定義」であります。

 

  この記事は平成24年6月24日に作成されました。

 寺尾博士が書かれた「農の理法」(昭和20年11月3日)より転記します。

 

 日本最高の農学者集団のトップ、農事試験場場長の寺尾博士が御自宅で行っていた家庭菜園です。

 文中に2,3年前よりと書かれておりますので昭和17年より始めておられるのでしょう。もちろん戦時下です。

 当時は、農学関係の雑誌だけでなくラジオや新聞でも家庭菜園(又は青空農園)を進めておりました。

 ・・・・一般の国民も配給だけでは足りないので、メディアで紹介されなくても空き地があれば開墾して菜園を始めております。闇市も大賑わいです。(泥棒も)

 

 寺尾博士は学者でありますが、農家の出身です。

 お父さんは農業振興の功績で表彰されている方であります。(郡会議員であります)

 しかし、失敗談満載で面白い文章です。

 

 この記事は平成24年6月18日に作成されました。

 静岡では鈴木梅太郎博士の御名前を知らない方は少ないようです。

 これは小学校・中学校で郷土の偉人として名前だけ教えてもらうからです。だいたい「世界で初めてビタミンBを発見した人」でありますから教える方も手がかかりません。梅太郎博士を調べてみると実に苦労された碩学の人という印象を得ます。しかしこれを人に説明するにはかなりの文章力と調査能力が要求されます。

 そうなるとほとんどの教員は給料の足しにならないから・・・「ビタミンだけでいいや」、「教えたところで分からない」とまあ理屈をつけてやめにするわけです。

 その最たる方が、寺尾博博士と増井清博士です。農学校の授業のなかで、寺尾博士の冷害の研究、増井博士の初生雛鑑別について取上げられても、その研究者が静岡の人間であったと教員自身が知らないのです!関心がまるでないのです。モンスターティーチャーですな。(モンペよりも恐ろしい)

 

 調査を始めて今年で2年が経過いたします。増井博士の調査に遅れること半年です。

 

 先ずは御本人がかかれました業績を東豊田郷土誌より紹介します。(寺尾博士が御自分の事を書かれた記事は、私が調べた限りこの文章と雑誌「遺伝」6巻に収録されております「育種今昔話」だけです。)

 

 この記事は平成24年5月29日に作成いたしました。

 調査したのは1ヶ月半前なのですが、仕事の都合で余裕がなくようやく紹介できます。

 歴史の資料を読んでいきますと、だいたい「恩賜の○○」といいますと、陸軍大学や海軍大学の成績優秀者に授与されるものであります。確か上位6名であったとどこかの資料で読みましたが記録しておかなかったので確かな事は・・・・です。

 東京帝国大学でも陸海軍だけでは不公平であるとの議論からこの恩賜の銀時計の授与が始まったと「東京大学百年史」に記載がありました。

 明治32年より大正7年までの20年間続いておりました。毎年平均16名、合計323名が銀時計を下賜されました。

 これがその銀時計です。(セイコー社製)

恩賜の銀時計表.12.04.02.1.

 この20年間で農学部からは24名下賜されました。

 我らが寺尾博博士は明治42年7月に卒業されました。(この時は7月卒業です)

 この年は農学部より3名下賜されました。

 寺尾博士の地元では、東豊田小学校の記念祭に寺尾博士の銀時計が展示されたそうです。

 さて裏はどうなっていますか・・・

 

 この記事は平成24年5月25日に作成されました。

 静岡市立中央図書館に東豊田小学校の記念誌がありました。こちらに(当然ですが)、寺尾昌太郎翁、寺尾博博士の記事がありました。おそらくこの「東豊田郷土史」が種本になっています。

 

 私は読書家の方でありますが・・・今まで一度も寺尾博博士の業績を紹介する記事にお目にかかった事がありませんでした。(農学史、農業史関係です)。

 それでも農業技術史の関係で「農の技術を拓く」西尾敏彦著、に陸羽132号、田植え機の開発で寺尾博博士の紹介があります。この本は静岡県立図書館にございます、関心のある方は御一読を。

 

 さて、「東豊田郷土史」には寺尾博博士の学歴、職歴、業績と分けて書かれております。特に私が驚いた事は陸羽132号の記述が詳細で私が調べていた事と同じことが書かれてあったことです。・・・・一体誰がこんなに、詳細に寺尾博士の業績を調べたのかと不思議に思ったら、・・・・本人の文でした

 寺尾博士の記事の最後の方に「以上は寺尾博氏がお寄せ下さったものをそのまま載せました。」とありました。(正直な編集者です)

 

 寺尾博博士は「恩賜の銀時計」を頂いております。東大の優等生であります。(・・・ここまで来るとテストの点数ですら寺尾さんと勝負しようとは誰も思わないでしょう・・・)

 この恩賜の銀時計に関してはまた「東京大学百年史」より紹介します。

 先ずは、寺尾博士の履歴です。(学歴と職歴をくっつけました、不要だと思う部分は勝手に削除しました)

 

 寺尾博博士が日本最高の農学者であった事はあまり知られておりません。私も増井博士の調査を始めるまでは寺尾の姓しか本の中で知りませんでした。増井博士を通して寺尾博博士を知る事が出来たわけです。

 

 その寺尾博士のお父様も・・・実はすばらしい業績を立てられた方であります。なんと銅像がございます。大慈悲院川の脇にございます。

 こちらです。

寺尾昌太郎翁銅像 全景

 

 東北の冷害を救った「陸羽132号」の功績により、時の農林大臣より「銅像を建ててもよいくらいだ」と言わしめた寺尾博博士でありますが・・・・、親子二代で後世に残る功績を立てられたわけです。

 アップにして見ます。

日本遺伝学会第1回大会の時の写真です。

 
 遺伝学会は最初育種学会から始まりました。改名(この言い方が正しいか?)して遺伝学会になりました。その後又育種学会が誕生しました。


 さて、以前も一度紹介しましたが今度は遺伝研設立運動に参加した博士を中心に紹介します。皆様かなり若いです。

 時は昭和3年。場所は九州帝国大学です。

 全体写真です。

第1回日本遺伝学会集合写真

 もちろん、写真の中心は寺尾博博士であります。静岡市の方です。陸羽132号を作出された方です。私が尊敬しております農学者の一人でございます。

 

 この記事は平成23年12月5日に作成しました。

 この記事は、養賢堂『農業及び園芸』14巻10号にあります。

 当時秋田県農事試験場の大黒富治さんの文です。大黒さんはwikiにも記事があります。歌人でもあつたようです。


 秋田県由利郡農会の農民が行った陸羽132号育成者への感謝祭です。

 育成者は、寺尾博博士と仁部富之助氏の2名です。

 そして、当時の農事試験場場長であります安藤広太郎博士も主賓の筆頭で招かれております。(安藤博士は陸羽132号作出に古在博士と共に支援されました)


 現在のコシヒカリの先祖になります陸羽132号、そして日本で初めて純系淘汰法を用いられ交雑育種された学問的にも特筆される品種です。


 もちろんこの感謝祭は農家に利するところが大きかったからこそです。寺尾博士は自らの名を残さず実を残された方であります。(静岡でも知らない方が多いでしょうから)・・・私も偉そうには言えません。増井博士を調べていて寺尾博士が静岡の方だと知ったのですから。

 

 この記事は平成23年11月20日に作成しました。

 昨日(7月16日)、寺尾博博士の御命日に当たります。静岡ではこの日にお盆送りで御先祖様を送ります。・・・この日より蝉取りが解禁になります。(消毒が出来ます)

 
 本当は昨日書く予定でしたが仕事の都合とかわいい甥と姪の相手をしなくてはならなかったので今日になりました。


 寺尾博士作出の陸羽132号は昭和6年の東北冷害(※・すみません、新聞記事で確認しましたら昭和9年の大冷害です)で非常に評価され、当時の農林大臣が、

 『寺尾博士こそは今回の凶作におけるもっとも偉大な功績者で、今回だけでも何千万円(注、昭和初期です!)の被害額を免れたことは否定できない。銅像の一つ位は建ってもよいくらいだ』

 と、述べたという話も伝わっている。(以上、西尾敏彦著『農の技術を拓く』より)


 陸羽132号の記念碑や陸羽支場の碑は現存するそうです。寺尾博士と共に陸羽132号作出に尽力されました仁部富之助さんの記念館もあるそうですが今でも残っているのか不明です。仁部さんはその後、野鳥観察のほうに努力され著書を出されています。静岡県立図書館で見つけましたのでまた紹介します。


 ・・・・。余計がおおございますが話しの都合で・・・・。

 もう一つの資料からこの時代の冷害について紹介します。(戸苅義次著『鴻巣試験場物語』 農業技術)
 昭和9年鴻巣も冷夏で暑さも感じない。それだけに東北地方の冷害は強烈である。(※・平成の冷害の時、神奈川でも暑さを感じませんでした。そこで恐らく東北地方は冷害になると素人考えで思っていましたが、この記事を見て多少は関係があることがわかりました)

 略
 本省農試においても寺尾主任はじめ福家・片山・柿崎技師らの現地調査により、不良天候下にも正常生育の稲もあり、特に相隣る水田で片や良、片や不作の対照を見るなどの事実を見出し、前記の調査結果と併せて、凶作は冷害に適応する品種の欠如や選択の誤り、異常気象下栽培法の研究不足や普及の不十分等に基づくもので、これ等の方法が適正となればこのような災害を防止できるとの結論に達す。
 以上です。この後冷害実験室の設置等冷害研究が組織的に始まるわけです。
 
 

 さて、陸羽132号がこの冷害でどのように評価されたのか。作出者であり且つ農林省種芸部最高責任者である寺尾博博士はどう見られたのか書いてあります。(※・平成の冷害の時も実は同じことが言われていたのです。)

 

 この記事は平成23年7月17日に作成しました。

 先日、『竹崎嘉徳先生の思い出』と題した本を購入しました。

 目的は、寺尾博博士について何かかかれていないかと考えましたからです。今までの調査で竹崎博士と寺尾博士は非常に近い中であると見えました。


 私が見出しました寺尾博士唯一の追悼記事は『採集と飼育』の大島廣博士の記事です。(大島博士は寺尾博士の同級生)

 その記事の中に、竹崎さんの言葉が載っていました。抜書きします。
 
 先頃、松枝の農大の学長を辞めて京都に帰ってきた竹崎嘉徳君を訪ねた。これも同じ時代、同じ寄宿寮の飯を食った仲間の一人である。しんみりと寺尾君の訃を惜しんで語り合ったのだが、そのとき竹崎君が例の調子で、
 "まともな死に方をする筈のないあいつが、あのような幸福な大往生を遂げたことは、どうしても腑に落ちない"
 と、意味深長な事を言った。私の知らないepisodeが農学者同士の間に知られているものとみられる。

 以上です。

 私はこのepisodeを追っているわけです。(内心は・・・

 さて、その竹崎嘉徳先生の思い出に写真がありました。日本遺伝学会第1回大会の時の集合写真です。貴重です。寺尾先生がしっかりと写っております。

 

 この記事は平成23年7月10日に作成しました。

 寺尾博博士が亡くなられて今月(7月)の16日でちょうど50年になります。

 

 博士について調べておりますと、なぜ今まで寺尾博士の話がこの静岡で聞かれないのか不思議に思います。

 例えていうならば、『遠州に鈴木梅太郎あれば、駿河に寺尾博あり』と言われてもおかしくはありません。そのくらいの研究、業績をあげられた方であります。

農の理法 内容

 さて、この寺尾博士"品種の相対性"という言葉を残されております。博士が寄稿されました雑誌(農業及園芸等)にもいろいろな書き方でこの"品種の相対性"について説明されてました。
 
 『最高の品種は存在しない。あるのはその場所、その時期に適した品種があるだけだ』

 含蓄のある言葉です。私はこの言葉の応援を受けて現在素人育種を行っているわけでもあります。


 さて抜書きします。

 

 この記事は平成23年7月7日作成しました。

 静岡市(駿河)が生んだこれまでの農学者の中で最高の方が寺尾博博士であります。


 寺尾博(てらお ひろし)博士の紹介

 聖一色のお生まれで静中より一高、東大農学部に進学されました。東大御卒業後、農事試験場に奉職し場長(第4代)まで務められました。

 東北地方の冷害対策に努力され、陸羽132号の作出、水稲冷害の生理学的研究では学士院賞が与えられました。

 戦後、参議院議員(緑風会)として農政、国立遺伝学研究所の設立に携わりました。その後、電力の農業利用に関しての事業に関係しました。

 昭和29年頃、増井清博士に助言され増井家禽育種研究所の設立のきっかけになりました。増井家禽育種研究所には、寺尾博士は亡くなるまで関係されました。

 昭和36年に逝去されました。享年77歳。今年で50年になります。

 
 私の(現在まで)調べた限りですが寺尾博士の残されたお仕事
 

 農事試験場陸羽支場にて日本で始めて純系淘汰法による育種を開始。在来品種愛国より陸羽20号選抜。この陸羽20号に同じく純系淘汰法にて選抜した亀の尾4号を交配し陸羽132号を作出。

 国立試験場の作物栽培試験に精密試験法を導入(当時種芸部主任)種芸・・・育種より栽培試験まで幅広く含む。
 

 昭和9年の東北大冷害を受け、翌10年より冷害対策試験を開始。総指揮を取る。・・・この結果が学士院賞となる。(稲の生理の授業で障害型、遅延型、混合型の冷害について教わりますがこの研究が元であります)

 水稲の室内育苗(箱育苗)技術と田植え機を結びつけ、現在に残る田植え法をプロデュースする。(このエピソードはまた紹介します。面白い話です)

 以上です。

 寺尾博士のお写真を拝見しますと・・・威厳があり軍司令官のような感じがします。博士の著書やお仕事を調べていますと、寺尾博士を刃物にたとえるならば鉞(まさかり)です。新たな技術、学問を切り開いていくには必須の方であると思います。

 

 この記事は平成23年7月1日に作成しました。

 諸事情がございまして駿河の生んだ天才農学者「寺尾博博士」の記事を削除しておりましたが、この度再開することとなりました。

 声援を下された方はこの方々でございます。

寺尾博を慕う3人.13.10.21.

 中央の方が、「西尾敏彦博士」

 左側の方が、「石原邦 博士」

 右側が・・・・・非常に緊張した表情をしている私です・・・・・。

 3人の年齢を合わせると、200歳を越えます。

 私が勝手に命名しております「寺尾博博士を慕う会」であります。

 この3人の中で唯一寺尾博士と面識がある方は「西尾敏彦博士」であります。

 こちらは昭和29年に作成されました「静岡県産業教育七十周年記念誌」を参考にしました。

 この資料に静岡農学校第2代校長を勤められました「白鳥吾一」先生のインタビューが乗っております。

 題名は「農業教育創始の頃を白鳥吾市氏に訊く」です。

 白鳥吾市先生は「農学栄えて、農業滅ぶ」と言う超有名な言葉を残されたとされる(まだ確認されておりません)横井時敬先生の弟子です。(もちろん東京帝国大学出身です)

 静岡農学校に銅像がございます。

 白鳥吾市先生銅像.12.08.08.

 静岡農学校50周年の時の記念事業でこの銅像は建設されました。

 先日こちらの静岡農学校に昔の資料(白鳥吾市先生関係)を拝見させていただこうかと電話した所・・・・・なんと、古い資料はすべて処分したとのこと・・・・・・Orz。

 よく伝統を語れるなあ・・・・モンスター・ティーチャーどもが。

 

 こんな話はどうでも良いのですが、簡単に貴重な証拠資料を処分する野郎どもが教員ですから、つい頭に血が上って・・・・失礼。

 さて、静岡農学校最高の校長先生と評された「白鳥吾市」先生の選ぶ静岡県農業教育史上の有名人です。(注・昭和29年の時点です)

 静岡(駿河)を代表する農学者を私が個人的観点からセレクトいたしました。

 静岡にはろくな人間(偉人)がいないと、よく言われます。(静岡の人間から)

 本当にそうでしょうか?

 謙遜は自身が行うことでありまして他人が行うことではありません。

 

 後進(自分自身)の教育の為にも、優秀な人物を見出しその事業に協力していく為にも、過去比類なき業績をあげられた「偉人」と称することの出きる人物の研究は必須ではないでしょうか。

 

 私は農学が専門分野でありますので、その方面より偉業をなした方を調査してまいりました。

 農学の分野では、遠州(榛原郡)の鈴木梅太郎博士が有名であります。現に静岡県には鈴木梅太郎賞と梅太郎さんの名前を関した賞があります。

 ビタミンB1の発見者でもあり、日本農芸化学学会設立者の筆頭です。国民の体格向上の為に、栄養学的見地より研究を行っておられました。理研において、理研酒などその他多くの特許を発明し、後進研究者の為の研究費確保に努められました。

 立派な人格を持った農学者であります。

 

 この駿河にも梅太郎さんと並び称されるべき農学者を3名あげることが出来ます。

 この評価は、位階勲等とは無関係です。

 共通点は、公(おおやけ)に尽くされたこと、自身の栄達の為に学問をされなかった点です。

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