静岡の歴史・偉人と古書探求の最近のブログ記事

博士のご命日。

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 1か月ぶりのブログ更新です・・・・・。

 なにやかや今年の夏は忙しくて・・・・、心理的にブログどころではありませんでした。

 ようやく少しは気が楽になってきました。

 7月には記事を書いておりませんが、7月16日には我らが「寺尾博」博士のご命日に行ってまいりました。天候は悪く大雨洪水警報が出ておりましたが、それ程雨が降っていなかったのでお墓、お寺、ご自宅に行ってまいりました。

 本日は、ご近所であり小坂の偉人「増井清」博士のご命日であります。

 トマト持参で瑞応寺へ向かいます。

 この小坂でも増井清博士の業績を知るものは本当に少なくなりましたが、それでもその偉大なる業績の僅かを知り、尊敬の念を持つものはこの小坂にはおります。

 それだけがとりあえず博士に対するご供養かとも思っております

 

 

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 本日は4月1日です。エイプリルフールとは無縁でありますが、畜産学の世界では現在にも伝わる「初生雛鑑別技術」誕生の日として記録されております。

 発見者の良い写真がありましたので紹介します。(上野博士の書かれた「初生雛雌雄鑑別技術の進展」より)

 

初生雛鑑別技術発見者.15.04.01.

 中央が、われらが増井清獣医学博士です。(静岡市駿河区小坂出身です)

 左側が、初生雛鑑別論文第1報発表当時はまだ学位を取得されていなかった橋本重郎農学士です。

 右側が、助手の大野勇技手です。大野さんは農林省畜産試験場勤務です。当時第2代場長の木村和誠氏の時代には研究論文に助手の名前を入れることはタブーに近いことでした。この意味でも初生雛鑑別論文第1報は革新的な意味があります。

 この論文は、秋田県陸羽支場にて寺尾博士の陸羽132号開発に大いなる助力をされた中川庄司氏が初代畜産試験場場長となられてから増井清博士に委託され研究が始まったものです。研究開始の時期は諸説ありますが私は増井清博士が学位を取得された大正10年の秋よりと考えております。

 それでは、この4月1日はどのような意味があるのでしょう

 私のうちには父の購入した「坂の上の雲」が全巻ありますが、私は読んだことがありませんでした。確かハードカバーの本で1冊350円でしたから、父の購入した時期は私の生まれる前でしょう。

 中学校か小学校高学年位に一度ページを開いたことがありましたが、当時では難しすぎたのか、それとも私と相性が悪かったのか読む気がしないまま時がたちました。司馬遼さんの作品はそれなりに購入して読んでおりますが、なぜか今でも坂の上の雲は読む気になれません。

 それでも参考までにと県立図書館で司馬遼さんの全集から「遼陽」の項だけコピーして目を通しました。

 

 ・・・・・・・・・・。

 

 なんと申しますか、作家の作品に資料的な価値を求めては悪いのですが、これはかなりひどい作品であると感じます。同じ作家である児島襄さんの「日露戦争」のほうはそれでも公刊戦史に目を通してあることはうかがえます。(それでも私ですらわかる誤記・誤認があります)。

 司馬遼さんは公刊戦史にすら目を通していません。綿密な資料調査で有名な司馬遼さんですら気が付かなかったのか、気が付いてもあえて面倒であったのか判りませんが、日本の公刊戦史を参照されていないため時系列的に話が並んでいません。

 私が読んでみて、話があちこちに動いてしまっていて判り難い、話の前後に矛盾が生じていることがかなり気になりました。

 そしてそれ以上に個人攻撃がひどい。戦後進歩的文化人が行った中傷合戦と重なるような感じがしました。あまり細かい点を挙げていくと坂の上の雲のファンにやられる恐れがあるのでいくつかのみ挙げてみます

 首山堡の激戦時に窮地にあった静岡連隊の連隊旗、通称軍旗を保護し旅団本部まで奉移(※ほうい・・・日本の象徴だけに言葉も独特です)した功績は非常に高く評価されました。この一事を持って和田順雄少尉、山本恵作軍曹、下田銀蔵一等兵の3名が第2軍軍司令長官奥保鞏大将より授与されました。一事の功績で同時に三名も授与されたことは異例のことであります。

 軍旗とはそれほど重要なものであります。旅団長児玉恕忠少将が涙を流したことは、同郷の乃木希典大将の事例と重ね合わせて安堵されたことと静岡連隊が壊滅したことを実感されたのでしょう。

 私もブログで幾度か紹介してまいりましたが、これは駿河人らしい勇戦の一つとして私自身関心をもっていたからです。

 山本軍曹は軍旗を助けようと敵弾雨の中飛び出したのではありません。負傷された和田少尉を背負って後送しようとしている道中の出来事であったのです。軍旗を助けようとしたのではなく、負傷した上官を助けようとなした勇敢な行動の延長線上に軍旗を保護することとなったのです。

 こちらは山本軍曹の遺族の方より頂戴しました、軍曹のお写真です

山本恵作軍曹.15.01.02.

 山本軍曹はお写真が嫌いだったようで残っている写真はわずかだったようです。

 感状のお写真も紹介します

 關谷連隊長について記事を書いておりますが、一番肝心なお名前のほう誤認しておりました。一昨年より新たな記事では修正を始めておりますが、ここでご報告いたします。

 關谷連隊長のお名前は、銘次郎(めいじろう)と表記してきましたが、正しくは鉻次郎(かくじろう)がです。

 金と名の銘ではなく、金の各で(鉻)であります。

 これは關谷連隊長の御子孫の方が一昨年メールにてお知らせくださいました。私も即手持ちの資料を総動員して再調査を行いましたが、出た結論は「鉻次郎」でありました。

 ここまで關谷連隊長のお名前について書かなかった理由は、いろいろ他の調査と重なったことと、なぜ私が銘次郎と誤認したのか(当初は鉻次郎が誤植と考えていました)、理由を調べないと気がすまなかったので時間をかけました。

 静岡連隊の公刊戦史である「歩兵34連隊史」ではもちろん「鉻次郎」です。当時の新聞である「静岡新報」も振り仮名をふって「鉻次郎」(かくじろう)であります。

 そして何より關谷連隊長が寺内正毅元帥に出されたお手紙のお名前も「鉻次郎」であります。ここまでくると迷うことはありません。本人の署名が一番正しくて当然です。

 誠に失礼なことをいたしました。

 カテゴリーについては今年中には変更しておきます。一昨年以前の記事については・・・・とりあえずそのままにさせていただきます。理由は、パソコン検索では「銘次郎」で検索されるからです。誤解にせよ私以外の歴史研究をされている方も關谷連隊長のお名前に関して誤認をされていると思われます。段階をおいて変更していきます。

 では、なぜ私が連隊長のお名前を誤認をしたのか・・・・・

静岡連隊の遼陽会戦。

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 静岡連隊の遼陽会戦、首山堡の激戦について紹介してまいりました。

 首山堡の激戦カテゴリーのほうにそれまでの記事があります。

 続き物のお話は下のページにまとめてあります。

静岡連隊首山堡の激戦 『24編まとめページ』

静岡連隊首山堡の激戦 『資料編』

 

 すべてまとめてはいませんが少しは見易くなったかと。

 

 また資料を入手いたしましたのでより詳細に遼陽会戦についてしょうかいしてまいります。

 こちらは「日露戦争実記」にあります、關谷鉻次郎連隊長のお写真です

關谷連隊長.15.01.09.

 遼陽大決戦の勇将と題してあります。

 關谷連隊長を中心に砲兵第14連隊連隊長及び砲兵第6連隊長のお写真もあります。

 この日露の戦いが火力戦である事の証左でもあります。砲兵が耕し歩兵が占領するのです。静岡連隊の首山堡戦も変則的ですがその定石にほかなりません。静岡連隊撃退に向かってきたシタケルベルグ中将取っときの予備兵力一個旅団半の戦力は、首山堡南方高地周辺で日本軍野砲兵連隊の猛射を受け甚大なる損害を受けたと推察されます。(ロシア軍は自軍の損害を改竄する癖があるので公表された数値は信頼できない)

 第3師団の主目標である「北大山」陣地を破壊したのも徒歩砲兵部隊の火力でありました。砲兵の役割は重要であることが全軍に認識されていたのでしょう

 「地方農業技師」の著者「薦田快夫」(こもだ かいお)さんは最初に岩手県の農業試験場に赴任されました。この時の上司が農学校出身で博士の学位を取得された「柿崎洋一博士」です。柿崎博士は陸羽132号の作出に関った方でもあります。つまり寺尾博士の影響をつよく受けた研究者であります。

 もっともこの当時の国立農事試験場本場の種芸主任(つまり実験の総責任者)が寺尾博士なので関係がないとは言い切れませんが、薦田さんはかなり近い所に居られたようです。

 この「地方農業技師」の中で、薦田さんが研究の恩人と言われた方がおられます。岩手県知事を務めその後長崎県知事そして在任中に南方へ赴く途中敵機に捕捉され機上戦死(殉職か)を遂げた「山内義文」さんです。静岡の方であります。文中では山之内と記載されておりましたが、調べて見ると山内でした。名前は義文です。

 静岡中学の名簿をめくって見ましたが・・・・山内義文さんのお名前を見出すことができませんでした。養子に行かれて苗字が変わったのか、遠州の方なのか今のところ不明であります。検索で山内さんの手掛かりを探しましたが・・・・こちらもも手掛かりなしです。気長に探して見ます。

 この山内知事はその他の知事の方とは一味も二味も違います。実家が農家です。並みの技官より農業経験が豊富なのです。そこはさすがに後世にのこる農業技術を残された薦田さんであります。山内知事の信頼を受けるきっかけになります。

 寺尾博士のお名前もでてくる面白いやりとりです

 

 しばらくご無沙汰いたしました。1ヶ月ぶりの更新であります。

 先日、寺尾博士の調査において面白い資料を入手いたしました。

 こちらです

薦田快夫 地方農業技師.14.10.27.

 薦田快夫(こもだ かいお)著「地方農業技師」、「続・地方農業技師」です。

 薦田先生は水稲の早期・晩期栽培技術を確立された方です。戦後の日本の食糧増産にかなり強い影響を与えた有力な増産技術です。

 この薦田先生がお書きになった記録がこの資料であります。

 「地方農業技師」には水稲の早晩期栽培技術確立までの話しで、「続・地方農業技師」のほうは、戦時中南方資源地帯の食糧増産技術研究に携ったことのお話が記録されております。

 薦田先生の水稲早晩期栽培技術を調べて見ると、寺尾博士の植物生育の相対性の概念が色強く見えたので、著書に寺尾博士についての記述があると考えました。

 しかし、この資料は貴重品(つまり発行部数が少ない非売品なのです)です。国立国会図書館にも所蔵されておりません。大学図書館にもほとんど見かけません。県立図書館では香川県の図書館だけですが、こちらの図書館では貴重書に分類されているので借り受けることができません。

 それでも根気強く探しました。そして見つけました

 静岡連隊の首山堡における戦いについては、私は祖父からの話で知りました。もちろん私の祖父は大正生まれですから日露戦争については伝聞です。

 關谷連隊長、橘大隊長の指揮の下激戦を行ったというものです。非常に簡略な祖父の話です。(当然ですが、私の祖父は日露戦当時生まれていないのです。詳しく知っているわけがないのです。)

 私の近い親戚に日露戦争に参加された方でもいれば別ですが、私の曽祖父の兄弟はすべて養子で跡取りとなっているので徴兵はされません。私の身内で日露戦参加者はゼロです。支那事変より対米戦にかけて、私の祖父を含め身内より多くの若者が出征しました。もちろん白木の箱で凱旋された方もおります。

 これまでの遼陽会戦における静岡連隊の戦いについての記事は、すべて古書より私が調査したものです。当時の生存者より聞き取りをする好機は昭和30年代が最後です・・・・・。ということは進歩的文化人と一緒に馬鹿学生(馬鹿教員)が大騒ぎをしていた時代であります。思うように生存者から当時の経緯を記録することは難しいようです。(その当時私は生まれていません)

 さて、現在まで一部の方々において語り継がれている静岡連隊の首山堡の戦いです。死傷者の数も第2軍の死傷者に占める割合が約2割。戦死傷者に占める戦死者の割合が4割を越す激戦でした。この数値がいかに異常なものかを含めて、静岡連隊各大隊の死傷者の数を統計より紹介します。

 

 本日は寺尾博博士の誕生日であります。

 寺尾博士は、東京帝国大学農科大学卒業において恩賜の銀時計を時の陛下明治大帝より賜っております。その後鈴木梅太郎博士の恩師である第2代農事試験場場長古在博士及び安藤博士より請われて農事試験場に奉職。1年後には技官に就任、そして安藤博士が第3代農事試験場場長に就任されるや次席の種芸主任に就任されました。寺尾博士の出世の速さは農事試験場(戦後は農業試験場)空前絶後といえます。

 研究成果もこれまた空前絶後ともいえるものです。数年前まで継続されてきた農業試験場自慢の指定試験も寺尾博博士主導のものです。この指定試験よりササニシキ、コシヒカリの名品種が誕生しました。博士ご自身の作出された品種はこれまた名声を博した「陸羽132号」であります。先に書いたコシヒカリの先祖になります。

 日本の主食である水稲、麦については精密試験法を用い生態的な観点から相対性試験にその試験法を利用し、栽培環境と作物生理の因果関係を究明し栽培法の改善に多大なる功績がありました。日本は葦原の瑞穂の国と呼ばれますが、実際そのようになったのは寺尾博士と共同研究者の尽力の賜物であります。

 東北地方で頻発した冷害に対して始めて科学的な研究がなされたのは寺尾博士の研究チームであります。この功績により学士院賞が授与されました。東北地方では多くの農民より感謝され、終生東北冷害を征した恩人として尊敬の念を集めました。

 昭和16年第4代農事試験場場長に就任されましたが、日米開戦と共に代用品を用いた戦時研究がさかんとなり、予算はついても物はない研究には不適な状態を甘受せざるを得ない状況となりました。この間においても苦心し基礎研究を継続し、且農家指導に邁進し終戦を迎えます。そして農事試験場は進歩的文化人と称する不平分子により混乱を極め、寺尾博士は農事試験場を去ることとなります。

 戦後寺尾博士は貴族院議員、参議院議員を勤められ、農政について又三島の遺伝学研究所設立について尽力されました。

 参議院議員を辞められた後、農電研顧問に就任し電熱を使った水稲の箱育苗の技術化について研究を行います。水稲の早期栽培、又寒冷地の安定した育苗に功績がありました。そして、この箱育苗を用いた画期的技術が、現在主流となった田植機です。この田植機は共同研究者が関口氏であります。農学には全くの素人ですが専門は機械であったことから寺尾博士が懇願し二人三脚にて完成したものであります。残念ながらこの田植機の完成を寺尾博士は見ることはできませんでした。享年77歳。日本農学界最高の天才と称することのできる大学者であります。

 私は寺尾博士の研究のほんの一部を調査しております。

 ・・・・・が。

 本日は8月31日です。戦前静岡に於ける戦勝の記念日であります。

 首山堡祭として駿府城にあった静岡34連隊にて祝賀会が開かれておりました。しかし、昭和20年8月15日以後戦勝記念日は無くなりました。GHQにとっては敗戦した日本には戦勝記念日は必要なしと判断されたのでしょう。

 GHQの去った後は進歩的文化人と称するインテリがいろいろとご活躍をなされ、いろいろと日本に混乱をもたらして下さいました。

 その混乱も収まりかけた昭和47年板妻駐屯地にある普通科34連隊にて「橘祭」が行われる事になりました。もちろん旧軍34連隊の将兵と遺族の方々も参加しておりました。

 首山堡祭と昔の名称を持ち出すといろいろいと差支えるので、橘大隊長のお名前をお借りした「橘祭」としたのだと私は推察しています。進歩的文化人の方々のご活躍を他所に静岡では静岡連隊将兵の功績を顕彰する行事が保存されました。

  

増井博士の命日。

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 8月6日が我らが増井清博士の命日です。

 菊の花を買って、家で収穫されたミニトマト「ピュアスイート」と露地メロンを持って瑞応寺へ向かいます

 瑞応寺.13.01.01.

 写真を撮るのを忘れたのでお正月の写真を使いました。

 山門を入って左側の方に増井博士のお墓があります。

 先に方丈さんにミニトマトと露地メロンを供えてもらってから、墓地へ向かいます

 

寺尾博士の命日。

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 7月16日は寺尾博士のご命日であります。

 私が寺尾博士のご命日を知ったのは、増井博士の調査においてです。今年で3回目です。63回目の命日であります。

 増井博士も初生雛鑑別技術の開発者としていろいろと高名な方でありますが、私が知る限り増井博士のご命日に見えた方はおりません。もちろんその他の日もお参りに見えた方の話の聞いた事がありません。(幸いな事に近頃稀にですが増井博士について問い合わせがある事を瑞応寺さんより聞いたことがあります)

 増井博士でそうならば当然寺尾博士も同じでありましょう。

 ここは静岡であり、小坂であります。辺境に礼ありと申しましょうか、都会人のように気が利いた言葉や対応は出来ませんが故人を偲び感謝をする心は持っております。

 慇懃無礼な都会人はさておき、地元の人間が寺尾博士の偉業に対して無知である事が何より悲しく感じております。こちらは実に辛いものであります。

 農学の授業を受けると必ず作物学で、水稲冷害の研究や分げつ体系について講義を受けます。冷害の研究は寺尾博士主導の研究です。分げつ体系は片山佃博士の研究ですが、この分げつ体系を尺度とした作物試験体系を作られた方が寺尾博士です。これが為に分げつ体系の重要性が周知され、いまだに作物学の基礎として教えられているのです。育種学などは寺尾博士が基礎を作られたといっても過言ではありません。

 ・・・・・と書き残しましても、詮無き事であります。しかしながら、心ある駿河人が何時の日かこのような偉人の存在に気が付き、その偉人を徳として偉業を為すときが来るのではないかと私かに願っております。

 夏になりました。

 現在では敗戦の日である8月15日が記念日となっておりますが、戦前の静岡では8月31日が戦勝の記念日として陸軍墓地や護国神社などでお祭りされておりました。

 素人ながらその8月31日の記念日にあった出来事をまとめてみました。

 こちらは物語風に作りました静岡連隊の首山堡の激戦です。

静岡連隊首山堡の激戦 『24編まとめページ』

 

 もちろん上記の記事はすべて図書館や購入した古書を基に作成いたしました。決してファンタジーではありません。

 この記事では、記事を作成するに当り参考とした資料を示した記事を紹介いたします。

 順番が多少前後する所はありますが・・・・その点ご了承ください。

 13編あります。

 暑くなってきました。

 夏作のため、露地畑の整備に一生懸命です。大変です。

 しかし、歴史研究(・・・・ずいぶんと派手な言い方・・)の方は継続中です。

 先日マイライブラリーの一つのなりました、静岡大学附属図書館のほうへ調査に出かけました。

 資料は、寺尾博博士の書かれた「種芸研究における実験と推理Ⅰ」です。

 「農業及園芸」第8巻1号に収録されております。お借りした資料(コピー)の中でこのⅠだけが数ページ落ちていたので、原本確認の為に静大の図書館へ向いました。

 静岡県立図書館のほうは8巻の1は所蔵されておりません。

 書庫から出してもらい見た所が・・・・・・・!

 梅太郎博士といえばビタミンです、そして脚気論争です。

 この脚気論争はなかなか現在までも農学者の中で語り継がれる大事件であります。

 この論争で梅太郎博士は「百姓学者」と罵倒されることは多くの資料で散見できます。ただ、この「百姓学者」なる侮辱については一言も梅太郎博士は記録を残されておりません。おそらく梅太郎門下のどなたかが記録として残されたようです。この「百姓学者」なる侮辱についてはまた考察いたします。

 脚気論争は、脚気菌説や白米毒素説などなどいろいろな説が入り乱れて大きな論巣となりました。この時はまだ栄養学にビタミン説が誕生していませんでした。

 散見する脚気論争の記事では、医学者の横暴のようにも見える脚気論争ですが、新しい学説が受け入れられるまでにはかなり時間と研究が必要となります。そして、これは学会(それとも学界か)内においての論争です。学会論争であれば決着がつくまでの過程で誤りがあっても問題はありません。学会論争とはそういうものではないでしょうか。(そうでなければSTAP騒動か・・・・)

 

 今回参考にする資料は、「鈴木梅太郎先生伝」、「研究の回顧」、雑誌「化学の領域」第11巻4号の特集記事そして、三浦謹ノ助博士の愛弟子であります静岡出身の医学博士勝沼精蔵著「桂堂夜話」です。

 私のような百姓が見た限り、この脚気論争はわかったような判らないようななんともいえない論争であります。ただ、「百姓学者」なる暴言が一人歩きした所もないではないような気がします。

 

 鈴木梅太郎博士と言えばビタミンです。

 勿論梅太郎博士の業績がビタミンの発見だけではないのですが、これだけが有名です。

 脚気論争と絡んで高名になりましたビタミンの発見ですが、こちらについてはウキペディアを始め多くのブログで紹介されていますのでそちらを参照して下さい。(一番よい資料はもちろん「鈴木梅太郎先生伝」であります)

 私は今まで埋もれていた資料より紹介いたします。

 こちらです

鈴木梅太郎栄養談義.14.05.16.

 昭和10年10月1日発行の文芸春秋13巻10号です。

 対談記事であります。

 参加者は、鈴木梅太郎博士、辰野隆博士、鈴木文助博士と記者の方です。

 鈴木梅太郎博士をご存知の方ならピンと来るお名前が並んでおります。

 お三方共に家族です。(ただ血縁はありません)

 辰野隆博士は梅太郎博士の奥さんの弟さんです。(義弟、専門フランス語)

 鈴木文助博士は梅太郎博士の娘婿であります。(もちろん梅太郎門下です)

 家族で対談したことが記事になるとは・・・・実に珍しいことであります。(お三方ともその専門では高名な方であります。)

 抜粋します。

 遠州の世界的碩学であります「鈴木梅太郎博士」でございます。

 遠州の方なのでカテゴリーをつくらずにおりましたが記事が増えてきたので新設いたします。

 静岡県出身者といえども、遠州と駿河は国が違うのでかなり遠慮があります。(しかたがない)

 本日までで梅太郎博士関係記事が9件ありました。こちらはすべて鈴木梅太郎カテゴリーにいれてあります

鈴木梅太郎博士.12.10.23.

 なお加藤剛さんのご尊父の記事もこちらにございます。

 加藤鉉一郎先生は、増井清博士と私の母校であります、静岡市立長田南小学校の校長先生を勤められました。最年長校長先生として創立90周年記念誌に寄稿がございました。

 

 普段お目にかかることのない梅太郎先生関係の資料を中心に紹介してまいります。

 

 オリザニン(ビタミンB1)の発見者にして、日本栄養学揺籃期における最大功労者。

 鈴木梅太郎博士カテゴリー

 

 陸羽132号作出者であり、日本農学を科学にした駿河最高の農学者。

 寺尾博博士カテゴリー 

 

 初生雛雌雄鑑別発見者にして、日本が世界に誇る動物遺伝学者。

 増井清博士カテゴリー

 

 

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 梅太郎博士について記載されている資料は多数あります。

 戦前においても郷土の偉人や著名な学者としてその他の著名な方々と共に紹介されております。

 それらの中で梅太郎博士研究資料の筆頭が、昭和42年6月10日社団法人鈴木梅太郎博士顕彰会より発行された「鈴木梅太郎先生伝」であります。

 梅太郎博士の記録が詳細に紹介されております。またお弟子さんの回顧録もなかなか面白いです。

 この「鈴木梅太郎先生伝」はさすがに学者が作成した資料であります。年号や資料の出典、執筆者など必ず明記してあります。梅太郎博士研究の第1資料です。静岡県立図書館にあります。

 もうひとつ「鈴木梅太郎先生伝」と並ぶ1級資料がこちらです

研究の回顧.14.05.17.

  昭和18年2月25日発行、鈴木梅太郎博士の著書「研究の回顧」です。

 この資料は古本屋より入手したものです。もちろん静岡県立図書館にあります。

 私がこの資料を入手した理由は・・・・梅太郎博士とはあまり関係がないのですが、我等が増井清博士と共に日本畜産学会設立に尽力された鈴木幸三博士(梅太郎博士とは縁戚ではありません。広島県出身です)について何か記載されていないだろうかと思いまして購入しました。また、古在博士についても記録を残されているので興味が惹かれました。

 梅太郎博士ご自身の記録であります。有名な脚気論争についても記載されております。

 

 他にお勧めできる資料は2点

 大分以前に紹介しました県立図書館隣にあります梅太郎博士の銅像です。

 こちらは以前の記事リンクです。

県立図書館の隣にある鈴木梅太郎博士の銅像

 丁度その日は県立図書館が耐震工事の為長期にわたって休館しておりました。そのため明るいうちに隣の県立大学附属図書館に本を借りに行きました。いつもは午後10まで開館しているので県立図書館が閉館してから利用していましたので暗くなってから移動します。

 その日のお目当ての本は辰野隆さんの全集です。

 ・・・・・・・!。

 道理で梅太郎博士の銅像を目にしたわけです。

 辰野隆さんは梅太郎博士の奥さんの弟さんです。(つまり義弟)

 縁があるものです。

 辰野隆さんは東京駅を設計された辰野金吾さんの御長男です。東京大学学長で白虎隊の生き残りであります山川健次郎博士と親戚になります。

 早めに配達を済ませて明るいうちに図書館にきました。先に梅太郎先生の銅像を拝みに行きます。

県立図書館から梅太郎博士の銅像.14.05.14.

 図書館裏の駐車場の入り口に梅太郎博士の銅像があります。あまり人通りがないところです。(夜間は)真っ直ぐ前を向いて歩いていると目に入りません。判りやすくて判りにくい場所に置かれています

 大岡越前で有名な俳優の加藤剛さんが親子で遠州の碩学「鈴木梅太郎」博士を舞台で演じられるようです。

 劇団俳優座創立70周年記念第3弾公演「先生のオリザニン」(6月12~27日、東京・三越劇場)

 記事のリンクはこちら

静岡新聞記事

鈴木梅太郎の半生描く 劇団俳優座が制作発表会 牧之原

鈴木梅太郎の半生描いた舞台 加藤剛さんら抱負

地元「牧の原市」の記事

鈴木梅太郎博士の生誕140周年を記念した舞台が開催されます

スポーツ報知の記事

加藤剛、鈴木梅太郎博士役「運命」喜ぶ

 一応私が簡単に目を通した記事です。

 鈴木梅太郎博士のお名前は、私のような駿河地域の百姓でも知っております。有名です!。

 静岡県には「鈴木梅太郎賞」と梅太郎博士のお名前を冠した賞があります。ビタミンB1(梅太郎博士命名はオリザニン)発見者として知っております。

 ご近所さんの加藤剛さんが演じられと見て、興味は惹かれますが・・・・何分東京で公開のようで・・・・見に行きたくても百姓には無理だ。

 できれば静岡市民文化会館あたりで講演していただければありがたいのですが。

 

 静岡農学校第2代校長の「白鳥吾市」先生は鈴木梅太郎博士を「立志伝中の人」と評しておられます。

 

 素人の戦史探求でしたが何とか続きページ24編、その他含めて計48篇のページで紹介してまいりました。

 見直していきますと・・・・ところどころ誤認・誤解が見えますが、まあ素人の調査ですので大目に見てやってください。(肝心な部分はそれほど間違いはないはずですが・・・・。)

 1篇~24篇までの続きページを見やすいように簡単な紹介を含めてリンクを張っていきます。

 

静岡県護国神社.12.09.06.

 写真は静岡県護国神社です。

 

 日露戦争3大会戦の一つであります遼陽会戦、首山堡の戦いが舞台であります。

 8月25日有名な仙台第2師団の弓張嶺への夜襲にはじまり、9月4日遼陽城占領まで、10日間の戦いが遼陽会戦といわれております。

 この10日間の戦いの内で、8月31日の首山堡の戦いを制したことで日本軍の勝利が決定しました。(9月1日未明完全占領)

 静岡連隊が死山血河の激戦をおこなった1日であります。

 昭和31年8月に発行された増井家禽育種研究所の雑誌「とりの育種」創刊号にあります寺尾博博士の寄稿です。

 日本における作物育種最高権威である寺尾博博士ですが、鶏の育種は専門外であります。寺尾博士の指揮していた農事試験場内畜産試験場において鶏の品種改良が細々と続けられてきましたが、これといって成果が出ていませんでした。

 当時日本の養鶏界が世界に対して誇りうるものは、「初生雛鑑別」、「365鶏」、「尾長鳥」の3つです。

 「尾長鳥」に関しては観照的なものなので脇に置きますが、「初生雛鑑別」は我が小坂出身の増井清博士が主導して行った研究成果であり日本人に対して欧米人が頭を下げた始めての研究であり技術であります。この技術あってこそ日本の畜産学者が世界に胸を張って出て行けると言うものです。

 ただ、「365鶏」に関しては議論があります。

 「365鶏」とは公的の種鶏場で調査された1年中無休で産卵した鶏のことを指します。昭和24年の段階でそれまでの検定数のうち僅か2羽しか「365鶏」は出ていません。300卵以上のものは全出品数の5%を出てません。簡単に言えばただ出来ただけであります、それによって学理や技術の向上が見られたわけではなかったのです。

 つまり実用鶏としての価値はないに等しいのです。「365鶏」が出来たからといって養鶏家が飼育している鶏の質が上がっていたわけではないのです。その証拠に、戦時中飼料難により産卵数が落ちたのではなく欧米より種鶏の輸入が途絶えたことで実用鶏の産卵数が落ちたと盛んに言われ、戦後すぐにアメリカより種鶏の輸入再開が声高に叫ばれる事態となりました。

 増井博士及び田中義麿博士曰、「アメリカの鶏を日本で増やしていたようなものだ・・・・」

 であります。鶏の育種に関して日本は世界に対して誇りうる実例は皆無であったのです。

 明治末期より大戦中にかけて二十数年間、日本の農事試験場を指導し世界に冠たる農学理論・技術を数多く生み出した農学の鬼才、「寺尾博」博士はその事実を熟知していました。

 戦後日本の復興は農業の復興より始まり、そして海外よりの農産物輸入に対抗できるよう世界に頭脳を輸出する日本農業を目指していた寺尾博士が、日本に適した家畜である鶏に関して長年の盟友である増井清博士に委ねるところでありました。

 種鶏を世界に輸出する種鶏国家としての日本、これが種苗を輸出する日本を目指していた寺尾博士のもう一つの理想でした。寺尾博士は増井博士に勧め研究所の設立を目指しました。

 これが日本最大の鶏育種の研究所、「増井家禽育種研究所」であります。国立の畜産試験場、種鶏場では限界があったのでしょう。

 常に研究の先陣に立っていた寺尾博士が、初めて自身を脇に置く活動であります。

 明治維新以後、世界より遅れに遅れていた農学の世界を僅か40年の歳月にして追いつき、米など日本で主に栽培されている作物の分野では世界を凌駕する研究がなされた研究機関が農事試験場です。

 県立の農事試験場などありますがそれらの総本山が東京西ヶ原にあります国立農事試験場本場です。そして各種圃場試験が行われた場所は、埼玉県の鴻巣試験地です。

 「西ヶ原」と「鴻巣」の名前は、国立農事試験場中枢を示す時に使われます。

 この農事試験場で種芸主任(研究の総責任者)を24年、場長を5年勤められた方が我らが「寺尾博」博士であります。

 寺尾博士の主導により日本農学研究が世界水準に追いつき追い越すことができたわけです。

 コシヒカリ、ササニシキを代表とした水稲の銘柄米を数多く送り出した「指定試験」や世界初のハイトトロン(冷害実験棟と呼ばれていました)を利用した冷害の研究、作物の生育に関係する要因の究明を行った相対性試験など、世界的に独創性あふれる研究は寺尾博博士の着想であり指揮の下に実行されました。

 たぐい稀なる想像力と実行力を有した方であります。

 

 長年寺尾博士の下で多くの研究を行っておられた近藤頼巳博士が書き残された記録がありましたので紹介します。農事試験場が筑波に移転される時に作成された座談会の記録です。山形県立図書館の平塚文庫より拝借いたしました。

 昭和47年に行われた座談会の記録です。

 この記事は以前静岡農学校空前絶後の名校長であります静岡市門屋の「白鳥吾市」校長のインタビューより紹介いたしました。

 以前の記事はこちら

 こちらが白鳥吾市校長であります。

白鳥吾市校長.12.06.11.

 品のあるお顔をしております。

 白鳥先生は東京帝国大学にて横井時敬先生門下の碩学であります。若干26歳にて横井時敬先生と共著の「農業要覧」を執筆されました。農具の研究でも稲垣乙丙博士と共に大家として名が知られております。

 残念ながら静岡農学校に保管されていた白鳥先生の資料及び昔の農具現物資料はすべて進歩的な思考を持つ三流教員どもの手により廃棄処分されてしまいました。

 しかし、白鳥先生の資料をこの日本からすべて処分することは三流教員だけあって出来ないようです。

 さて、少数でありますが農学校卒業生より多大なる尊敬を受けております白鳥先生が挙げる農業教育史上に残る有名人です。

 「PARAGRAPH‐WRITING」という洋書を購入しました。

 1893年に発行されいまだに再販されている名著です。(古書店を探していた私もビックリしました)

 こちらです。

Paragraph Writing.13.11.17.

 この本は、我らが寺尾博博士がアメリカ ボストン留学時代(1915~1917)に夜店市で見つけて持ち帰ってきたのがおそらく日本初公開でありましょう。

 同名の本もあります。静岡県立大学附属図書館にはFrak Chaplen著の「PARAGRAPH‐WRITING」がありましたが、こちらはオックスフォード大学の方が書かれたものであります。

 寺尾博士が購入されたものはスコットさんが書かれたものです。場所はアメリカ、ボストンです。発行年、発行場所共にぴたりと一致します。

 ただ・・・・・・内容を理解するには・・・・・・時が必要のようです。まあ、日本語の本でも読むことはできても、内容の理解には時間がかかりますが・・・・。

 昭和初期の農事試験場ではこの「PARAGRAPH‐WRITING」を教本として論文を作成していたことが近藤頼巳、山崎守正両博士の記録よりわかります。

 ちょっと抜書きしてみます。

 農業の置かれた状況に理解を示す(?)方々が使用される言葉の代表が「農学栄えて、農業滅ぶ」であります。

 この「農学栄えて、農業滅ぶ」とういう言葉は横井時敬先生の言葉とされていますが確認されておりません。つまり横井時敬先生の言葉といえる証拠がないのです!

 私のような田舎百姓が疑問に思うことは、この「農学栄えて、農業滅ぶ」と口にしたり、文中に用いている方々は、学者や評論家、学校の先生方であります。この方々は学識があることで俸給をいただいているはずなのに出典が明らかでない根拠のない言葉を引用しているのであります。

 うーむ、この方々は自身の無知を我々に示そうとされておられるのでしょうか。そうなるとその偽学を見抜けない我々の無学に責任があると言うことなのか・・・・・・・。

 と言うことになると、就職活動のために大学にいっている学生が「農学栄えて、農業滅ぶ」という言葉の源流を探る研究なぞ行うはずもなかろうなあ。

 とまあ、百姓仕事をしながら思い至る所となりましたので私のような駄馬が地道に調査を行うより他がありません。

 昔の言葉に「駄馬の歩みは、駿馬の足踏みに優る」とありますが、その言葉どおり小坂百姓が少しずつ歩んで行くことといたします。

 

 先の調査で「農学栄えて、農業滅ぶ」と類似した言葉を公を前にして発した人物を紹介いたしました。

 盛岡高等農林学校 校長「鏡保之助」先生です。

農学研究のかくのごとく盛んにして農村日に衰えるは何故ぞ

 と500名を数える農学者を前にして述べられました。(リンクはこちら

 寺尾博博士の寄稿より知る所となり、推定する時期を大正13年としてその時代を調査しておりましたが全く手がかりがなく半分あきらめかけておりましたが、ひょんなことからその時と大会に参加されていた方々の名前がわかりましたので紹介します。

寺尾博博士の人物評

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 寺尾博士のお人柄について書き残されている資料は少数です。

 どちらかと言うと、寺尾博士の名前を挙げて又は名前こそ出しませんがそれとなく判るように悪口を書き残している記事があります。(初期の「農業技術」とか・・・・)

 その、誰でも欠点があるわけですが寺尾博士の場合は、終戦後農林省主流派になった左翼の官僚・学者(研究者)からの攻撃が大きかったようです。(どうも思想的にと言うより機会主義的なインテリが左翼に多いように見えます)

 もちろんそういった左翼の官僚・学者には出世しか頭にありませんから、何でも汚い事はやります。(現在の農業不振を招いた原点が戦中・終戦直後の農業政策にあったことは我々には周知です)

 寺尾博士を否定することによって自分たちの行動を正当化していたことを強く感じます。こちらもぼちぼちまとめていきます。(記録が残っているということは恐ろしいです・・・・)

 

 前置きが長くなりましたが、寺尾博士をよく知る人物の書き残した資料を紹介します。

 増井清博士「寺尾博理事逝去」 (とりの育種6)

 大島廣博士「寺尾博君の追憶」 (採集と飼育24巻6号)

 野口弥吉博士「日本における育種学、とくに植物育種学の発展記録(私見)生立ちから学会設立まで」

 以上3点です。他にも寺尾博士について書かれた記事がありますがまた話の都合で紹介していきます。

寺尾博士と静中同窓会.12.06.26.

 この写真は、増井博士の研究所「(財)増井家禽育種研究所」発行の「とりの育種」に掲載されていたものです。

 見難いのですが寺尾博士のお顔がわかります。増井博士は右の隅だと思います。

 この日は5月3日、増井家禽育種研究所で静中の同窓会が開かれたようです。

 寺尾博士はお孫さん同伴で、よいのどを聞かせてくれた、と書かれています。

 

 この記事は平成24年6月26日に作成されました。

 寺尾博士に御自分の功績を述べさせると言うことは・・・あまり・・・見栄えのしないことであります。

 もちろん現在のように図書館も完備されておらず、農事試験場にいなくては寺尾博士の業績など知る由もありませんから、御当人も承知の上で(非常に)控えめに書き残されたようです。

 情報化社会の今、寺尾博士の残されたお仕事、共同研究者のお名前も資料より知る事が出来ます。

  私が調査いたしました寺尾博士の業績を紹介する前にお父様の寺尾昌太郎翁の銅像建立記念の写真集より寺尾博士の御家族の写真を紹介します。

 この写真集は静岡県立図書館に所蔵されております。決して私が御遺族から借りてきたものではありません。

寺尾博士と御家族.12.05.29.

 この写真は昭和3年10月に撮影されたものです。寺尾博士44歳です。

  左側の方が寺尾博士のご尊父「寺尾昌太郎」さんであります。寺尾博博士の銅像はございませんが、昌太郎翁の銅像は聖一色にございます。

 以前の記事ですが、同じ時に撮られた寺尾博士のお写真があります。場所は九州大学、日本遺伝学会第1回大会です。

 日本遺伝学会第1回大会 リンク

 

 この記事は平成24年6月4日に作成されたものです。

 「南満北支雑映」に収録されております寺尾博博士の紀行文です

 昭和11年です。まだ第2時上海事変は始まっておりませんが、大陸ではきな臭い臭いが漂っております。

 多くの研究者は自身の専門分野のみ気を付けて観察しておりますが、当時農事試験場種芸主任「寺尾博」博士の目は違います。

 自然環境と農業だけでなくそこに住む人々も寺尾博士の観察の対象のようです。

 

 

 

堅忍不抜・・・・寺尾博.13.03.21. 当時内地で聞かれた、「シナのチャンちゃん坊主毛が長い・・・」などの俗説とは無縁のようです。

 寺尾博士の眼には山東苦力(クーリー・・・労働者)はどのように映ったのか。

 

 この記事は平成25年3月23日に作成されました。

 この記事は、昭和11年9月下旬より約2ヶ月間満州と北支を視察された寺尾博士の紀行文の一片です。

 「農業及び園芸」誌に連載されたものを「南満北支雑映」と題して集成されて出版されました。

 面白そうな記事より紹介していきます。

 最初はタイトルの「自然に依存する農法」です。

 口絵

自然に依存する農法.13.03.19.

 満州の農家が豆の風選を行っています。

 寺尾博士の視点に・・・親近感を覚えます。

 

 この記事は平成25年3月19日に作成されました。

 また新たに我らが寺尾博博士の記事を入手しましたので紹介します。

 雑誌「実業の日本」53巻5号にあります寺尾博士の寄稿です。(昭和25年3月)

 この時寺尾博士は67歳。農事試験場を退職され参議院議員、坂田種苗(現、サカタのタネ)の取締役を勤めておられました。

 終戦後わずか5年です。

 都市では闇市は賑わい、農村地域も増産増産の掛け声と共に野良仕事に追われる毎日でありました。

 学者も、農業技術者も当面の課題である食糧生産に目を奪われ先を見るゆとりも無かったのでしょう。

 (・・・・・当然ですが研究室があればよいほうで実験器具、試薬、そして文献も不足していました。)

 政治的、経済的、心理的な様々な難問が山積するなか、じっと日本農業の将来を見据えていた農学者の一人が寺尾博博士であります。

 

 こちらは寺尾博士の御自宅にありました寺尾博士直筆の額です。博士が尊敬する宮崎先生の言葉であります。

 

 

宮崎安貞先生遺言.12.07.16.1. 

 寺尾先生の考え方が伝わってくる文章であります。(宮崎安貞先生遺言)

 

 「農の理法」(昭和21年)を執筆された4年後の文であります。

 現在における農業の問題点を浮き彫りにしたような内容であります。 

 少しずつ紹介していきます。

 

 この記事は平成25年3月9日に作成されました。

 宮沢賢治といえば「雨にもまけず、風にも負けず」と言う言葉で有名です。農学者でありますが童話作家として名が知られています。

 この宮沢賢治が愛し普及に努めたとされる水稲品種が「陸羽132号」であります。

 賢治の「稲作挿話」に、「君が自分でかんがえた/あの田もすっかり見て来たよ/陸羽一三二のはうね/あれはずゐぶん上手に行った」とあります。(農林省HPより転記)

 

 宮沢賢治の著作は「注文の多い料理店」など有名なものしか知らなかったのでこの「稲作挿話」は未見です。

 宮沢賢治より高い評価を受けた陸羽132号は、日本初めて近代的育種法(科学的育種)により作出された品種です。

 こちらは珍しい陸羽132号の記念切手です。

陸羽132号記念切手.12.07.16.

  この切手は陸羽132号作出者「寺尾博」博士の御子息「寺尾明」さんが収集されたものです。

 

 HPでも宮沢賢治の名前と共に紹介されることが多い水稲品種「陸羽132号」であります。(さすが高名な作家であります)

 この陸羽132号の作出者の御名前を紹介します。

 

 この記事は平成25年1月28日に作成されました。

 「農業朝日」の記事で寺尾博士曰、

世間では陸羽132号を寺尾がひとりでつくったように伝えているが、あれはいささか迷惑ですよ。いったい、作物の品種改良、育成事業というものは、たった一人の人間の力では出来るものではありません。

 

 はい、先生のおっしゃる通りでございますOrz。

 早速、関係された方々の御名前を紹介させていただきますOrz。

 

 最初は、寺尾博士と一番付き合いの長い「仁部富之助」さんです。仁部さんは野鳥の研究家としても知られています。静岡県立図書館の蔵書にあります。

 こちらが仁部富之助さんと寺尾博士です。(大正末)

仁部富之助さんと寺尾博士.12.12.11. 写真を取り直しました

 これならよくお顔がわかります。(元の写真が古いので・・・・)

 陸羽132号作出初期から関っておられたのがこの仁部富之助さんです。

 朝日新聞昭和59年10月10日の記事に「秋田の明治百年」から引用して、次のお話が紹介されております。

 『寺尾や仁部は素っ裸で、蒸し風呂のような温室で人工交配に熱中、2日の作業で寺尾は7kg、仁部は5kgもやせた。そして2粒のコメが生まれた。この2粒から本県の稲作を飛躍的に発展させた陸羽132号が誕生した。』

 仁部さんは実直なお顔をされております。寺尾博士の最初のパートナーです。

 続いて5名紹介します。

 

 この記事は平成24年12月10日に作成されました。

 昨日は12月8日であります。

 昭和16年のこの日に、帝国海軍南雲機動部隊が真珠湾を奇襲攻撃しました。

 そして・・・・パリ不戦条約違反の侵略国としてアメにぼこぼこにされて終戦を迎えます。

 この昭和16年に農事試験場の場長に就任された方が我らが「寺尾博」博士であります。

 21年までの約5年間農事試験場場長を勤められました。

 現在でも変わらないと思いますが、国立農事試験場といえば日本最高の農学者が集まる所です。シャバとは異なり・・・・恐ろしい所のようです。(・・・軍隊か?)

 この記事は、昭和33年「農業朝日」が寺尾博士にインタビューしたものです。

 こちらに寺尾博士の写真が載っています。(75歳)

陸羽132号 寺尾博.12.11.08.

 年をとってもこのお顔です。(厳しい顔をされています)

 こわいです。だからこそ私みたいな駿河の百姓から尊敬されるのであります。商店の店主みたいにニコニコしていたら・・・・尊敬の念など、どこか行ってしまいます。

 最初に、寺尾博士の家庭菜園の状況が紹介されています。(聖一色の自宅ではなく鵠沼の御宅です)

『応接間の窓からながめると、広い庭はそのまま菜園で、キャベツやハクサイの苗がたくさん植わっている。ずっと向うには桃の木が十本ばかりある。ニワトリ小屋にはレグホンが100羽ばかりいる。』

 ・・・・・「寺尾先生ニワトリばかり100羽も飼って卵でも売るのか」と、最初は思いましたが、たぶん記者が全てニワトリはレグホン(白色レグホーン)だと勘違いしていただけではなかろうか、実は増井博士作出の「増井1号」と白レグの比較試験をされていたのだろうと考えています。(研究好きの寺尾博士ですから)

 もう一つ、菜園に植えてあった、キャベツとハクサイはどこの品種か?。タキイ、サカタ両種苗会社が有力ですが、寺尾博士の実家のご近所さんが「石井種苗」です。もしかしたらそこの品種もここで試作されていたのかも知れません。(可能性が高い)

 

 インタビューの記事に入ります。読んでいてなんか記者の方がかわいそうになってきます。

 

 この記事は平成24年12月9日に作成されました。

 先日、寺尾博士の御命日に「円福寺」を訪ねました。

 その時に、方丈さんから寺尾博士の25回忌の時に作成された資料を拝見させていただきました。すべて陸羽132号やその他水稲品種の作出回想の新聞記事でした。

 写真を撮り読み返してみると、陸羽132号が新聞にて絶賛されている日付がわかりましたので県立図書館へ向かいました。(寺尾博士のうちの前を通っていきます)

 

 以前寺尾博士の著書「農の理法」(東北冷害調査)の記事のときに紹介しましたエピソードを再度紹介します。

 当時の農林大臣が、

 『寺尾博士こそは今回の凶作におけるもっとも偉大な功績者で、今回だけでも何千万円(注、昭和初期です!)の被害額を免れたことは否定できない。銅像の一つ位は建ってもよいくらいだ』

 と、述べたという話も伝わっている。(以上、西尾敏彦著『農の技術を拓く』より)

 このお話は本当であります。

 証拠は、昭和9年10月21日(朝日新聞)の2面に掲載されております。

 時の大臣は「山崎達之輔」さんです。

 

 この記事は平成24年7月20日に作成されました。

 本日は、私の村「小坂」ではお盆送りであります。

 聞いてみると静岡でも7月盆の地域と8月盆の地域があるようです。(理由は不明)

 

 さて、寺尾博博士のご命日でありますので、お墓へおまいりにまいります。

 菩提寺は聖一色にあります曹洞宗「円福寺」です。

 お墓は「円福寺」の離れ墓地にあります。

 方丈さんにご挨拶した後、位牌堂で手を合わせ、寺尾博士の25回忌の時に作成された資料を見せていただきました。

 その後で離れ墓地にあります寺尾家の墓所に案内をしていただきました。

 こちらが許可を得て撮影いたしました寺尾博博士のお墓であります。

 

寺尾博博士の墓所.12.07.16.

 手前の墓碑が寺尾博博士で、奥の墓碑は寺尾博士のお父さんであります寺尾昌太郎翁のものです。 

 寺尾博博士の戒名は「徹證院真心博道居士」です。

 

 この記事は平成24年7月17日に作成しました。

 ふだん何気なく使われている、(野菜の)品種と言う言葉をちょっと調べてみました。

 資料は、私が尊敬いたします静岡市聖一色出身の「寺尾博博士」の著作「育種」と農業試験場で参考書として使われた厚さ7cmの分厚い「野菜園芸大事典」です。

 

 こちらが昭和6年に岩波書店より発行された寺尾博著「育種」です。

寺尾博著「育種」.12.06.24.

 静岡県立図書館になかったので購入しました。(所蔵されていてもこの本はお買い得です!)。もしかしたら静岡農学校の図書館に所蔵されているかもしれません。

 

 この著作に関して、農学の大家「野口弥吉博士」はこのように書き残されております。

『この書物は昭和初期の植物育種ならびに植物育種学の領域を代表する名著といってよい、と同時に これほど寺尾博先生の優れた性格を明瞭に現しているものはない。日本の育種学の先覚者として自負している点がよく示されている。序文の中でも、"之にはいささか創案を用いたところもあるので"という言葉があるくらいである。

 

 出版当時、筆者(野口先生)は本書を精読して正に時代を先取りしているのに驚いた。(中略)育種に関する科学書、論文は手に入る限り、内外を問わず読破したつもりだが、事実寺尾先生の本の内容には敬服した。

 

 要するに、寺尾氏の著書は、日本における独特の新しい育種学成立の礎石となって、その後の育種の研究、実施に大きな影響を与えた。』

 

 長くなりましたが、野口弥吉博士の寺尾博士の著書に対する感想です。

 この「育種」には、現在でも充分通用する内容であります、そして非常に判りやすく簡潔に書かれています。

 

 ようやく本題の「品種の定義」であります。

 

  この記事は平成24年6月24日に作成されました。

 寺尾博士が書かれた「農の理法」(昭和20年11月3日)より転記します。

 

 日本最高の農学者集団のトップ、農事試験場場長の寺尾博士が御自宅で行っていた家庭菜園です。

 文中に2,3年前よりと書かれておりますので昭和17年より始めておられるのでしょう。もちろん戦時下です。

 当時は、農学関係の雑誌だけでなくラジオや新聞でも家庭菜園(又は青空農園)を進めておりました。

 ・・・・一般の国民も配給だけでは足りないので、メディアで紹介されなくても空き地があれば開墾して菜園を始めております。闇市も大賑わいです。(泥棒も)

 

 寺尾博士は学者でありますが、農家の出身です。

 お父さんは農業振興の功績で表彰されている方であります。(郡会議員であります)

 しかし、失敗談満載で面白い文章です。

 

 この記事は平成24年6月18日に作成されました。

 静岡では鈴木梅太郎博士の御名前を知らない方は少ないようです。

 これは小学校・中学校で郷土の偉人として名前だけ教えてもらうからです。だいたい「世界で初めてビタミンBを発見した人」でありますから教える方も手がかかりません。梅太郎博士を調べてみると実に苦労された碩学の人という印象を得ます。しかしこれを人に説明するにはかなりの文章力と調査能力が要求されます。

 そうなるとほとんどの教員は給料の足しにならないから・・・「ビタミンだけでいいや」、「教えたところで分からない」とまあ理屈をつけてやめにするわけです。

 その最たる方が、寺尾博博士と増井清博士です。農学校の授業のなかで、寺尾博士の冷害の研究、増井博士の初生雛鑑別について取上げられても、その研究者が静岡の人間であったと教員自身が知らないのです!関心がまるでないのです。モンスターティーチャーですな。(モンペよりも恐ろしい)

 

 調査を始めて今年で2年が経過いたします。増井博士の調査に遅れること半年です。

 

 先ずは御本人がかかれました業績を東豊田郷土誌より紹介します。(寺尾博士が御自分の事を書かれた記事は、私が調べた限りこの文章と雑誌「遺伝」6巻に収録されております「育種今昔話」だけです。)

 

 この記事は平成24年5月29日に作成いたしました。

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