静岡県立静岡農学校は大正4年4月1日に開校した「安倍郡立安倍農学校乙種」が前身です。
この時安倍郡では、オランダの国民学校をモデルとして農学校を計画しました。校長には東京帝国大学より「谷垣宰次郎」先生を招きました。
谷垣先生は兵庫県の方です。当然、頭脳は明晰でありますが、人物も立派な方で生徒より慕われておりました。
この安倍農学校の1期生には私の曽祖父の弟がおります。(曽祖父はそれほど勉強が得意ではない・・・)
ただ、谷垣先生は体が弱く大正6年に退任されます。その後を継いで2代校長をされた方が門屋出身の白鳥吾市校長先生です。
調べてみると、初代校長の谷垣先生は白鳥先生の1期後輩になるそうです。
白鳥先生の就任は大正7年4月1日です。この方は「横井時敬」博士の愛弟子でありました。農業経済学の研究をされており、著作に「農業便覧」があります。詳しくは下記のリンクより。
本来ならば東京帝国大学農科大学にて博士号をいただく身でありますが、学者の世界での出世をあきらめ郷土の農業教育に尽くされました。
この白鳥先生の記録を拝読するたびに思うのですが、もし安倍郡郡議会が寺尾博博士や増井清博士を選んだでいたらその後の日本農学はどうなっていたのだろうか。
大正7年就任ですから大正6年には内定していないと間に合いません。その時期を考えますと、寺尾博士は農事試験場(陸羽支場)で後の陸羽132号の育種を行っておりますので試験場の方で手放すわけがありません。(ただ、寺尾博士のお父さん寺尾昌太郎翁も安倍群会議員でありましたので可能性はありましたが、農事試験場長古在博士、種芸部長安藤博士が阻止されたでしょう)
増井博士は白鳥博士と同様大学院に居りました。その為もしかしたら増井博士が安倍農学校の校長先生になっていた可能性がかなりあったわけです。(私としてはそちらの方がよかったと妄想してしまいます)。ただそうなりますと、日本が誇る「初生雛鑑別技術」は誕生しませんでした。
白鳥先生も当然ですが、東京帝大で学問を続けたかったのでしょう。しかし、安倍郡会議員であるお兄さんの「白鳥蒔太郎」氏が説得の大任を果たされました。(白鳥家は名門ですから・・・白鳥先生も受けざるを得なかったのでしょう)
その白鳥先生に横井時敬博士が送られたものが「至誠」の書であります。
「静農60年史」によりますと、横井時敬先生の書があるのは、静岡農学校(安倍農学校)の他に安城農林にあるのみだそうです。
ここからがなんといいますか農学校らしいところですが、昭和39年農学校改築の時に取り外されまま物置に放置されほこりをかぶっていたものを、60周年を前に当時の校長先生がこの額を探させて玄関に飾るようになったようです。
他校の出身の方にはどうでもよい話ですが、以前農学校のhpでなぜ横井先生の額が農学校にあるのか不明と書いてあったことを記憶していたので、いつかは安倍郡出身の私が書かなければと思っておりました。(農学校らしく馬鹿正直です。知ったかぶりができない・・・・。)
農学校と縁のある方には是非覚えてほしいと強く思っております。
静岡(安倍郡)の農業教育のために自身の学究を投げうたれた白鳥先生の形見であります。正に「至誠」そのものであります。