石川千代松先生のデスマスク

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 石川千代松先生は我らが増井清博士の恩師であります。もっとも当時の東京帝国大学農科大学の学生は全員、千代松先生の授業を受けましたので皆教え子になるわけです。
 
 明治時代近代動物学を修めた第一期の方であり、不十分な予算整わない研究設備のなか苦心して研究され、後進の教導にあたりました。御自身の著書にもありますが、世界的な研究は残すことはできなかったようです。しかし、世界の動物学者に日本人学者はいかなものか知らしめた功績は大きいものがあります。そして私としては増井清博士を育てた千代松先生の功績は最大のものでもあります。

 こちらは明治10年ごろの千代松先生の写真です



石川千代松121102.jpg
 上段真ん中の方が石川千代松博士です。上段左側が田中館愛橘博士です。
 ひ弱そうに見えます。現に体が弱かったそうでそれを克服するために、加納治五郎先生よりみっちり柔道を教わったそうです。(もっとも講道館柔道ではなく古式の柔術でしょう)。その上毎日水をかぶって乾布摩擦をされたそうです。
 すさまじい方です。駿河人好みの武士らしい武士です。
 この石川千代松先生のところで7年間暮らし教導を受けた方が増井清博士です。これだけで増井博士は尊敬に値します。

 千代松博士は体の不調を感じておられたようですが、それをおして台湾で開かれた学会に出席、そこで客死されます。昭和10年、享年74歳。
 葬儀には増井研総出で手伝われたようです。九州大教授加藤博士はその時千代松博士の子息欣一さんより博士の著書をいただいたと書き残しておられます。

 千代松先生には逸話が多くありますが、今回資料を整理していて千代松先生のデスマスクがあるという記事を見付けました。

 昭和37年雑誌「遺伝」に寄稿された愛知学院大学歯学部教授(当時)今井倭武氏の記事です





 石川千代松博士のデスマスクは2つ取られたようです。製作者は山中信行氏(標本制作の技術者)

 一つは千代松博士が永眠された台北病院(後に帝国大学附属病院)

 もう一つは帝国大学附属医学専門部解剖学教室です。この解剖学教室のものが今井氏の手元にあったものです。

 ただ両方とも終戦後の混乱の中台湾に残されました。このことを今井氏は悔いておられたようです。

 もし心無い輩がそのデスマスクを破壊しなかったなら現在でも残っているのかもしれません。

 その後の手掛かりとしては、附属病院は中華民国国立台湾大学附属病院として残っているようです。医学専門部の方は消滅して医学院として残った医学部の解剖学教室に吸収されたようです。もし残っているとしたらこの2か所となります。


 余談ですが、千代松先生のお父さんと勝海舟さんは幼馴染で仲が良かったようです。もし千代松先生のお父さんが体が丈夫であったら出世をされたと勝海舟さんが言っていたそうです。それでも勝海舟さんの依頼で新政府軍との折衝に千代松先生のお父さんは単独で赴いているのでそれなりの位に居られたと想像できます。
 私としては徳川家が駿府に移封された折、何故勝海舟さんは駿府(静岡)に移住され、千代松博士の家族は駿東郡に移住されたのか疑問に思っております。もし千代松先生が駿府に移住されたら鏡保之助先生や寺尾博士のお父さんである寺尾昌太郎翁と知り合いになっておりもっと面白い話を残されたのではないかと夢想してしまいます


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このページは、yamahiko-farmが2019年2月 8日 02:31に書いたブログ記事です。

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