2014年9月アーカイブ

 普通は育苗箱の中に種を播きます。私も通常はこの方法をとっています。

 育苗箱の方法は、土壌中の水分調節に便利で地温を調節することができます。また、育苗箱で育成した苗をそのまま定植する時には特に便利です。持ち運びが容易です。

 では、地播とは何でしょうか。これは圃場の土壌直接苗場とする方法です。ハウス、露地は問いません。地面を耕作して種をまき、育苗して移植します。別にこれといって特別な方法を必要としませんが、何が通常の箱育苗と異なるのでしょうか。

 それは、根張りです。箱育苗でも、ポット育苗でも必ず根鉢ができます。この根鉢のおかげで作業性や植痛みを軽減できるのですが、根の張りが悪くなります。特によく観察できるのは、根鉢がよくできた長く育苗してきた老朽化苗です。そのまま植えると、収穫後そのまま抜けます。簡単ですが生育が落ちます。

 この地播苗は根をそのまま地中深く這わせます。移植時期になったらホークで持ち上げて根を切ります。そして潅水を十分行います。1日2日して移植しますと事前に切った部分より神根が伸張してきます。荒っぽい移植なのにこちらの方がポット苗よりも生育が良好です。自然の力は侮れません。

 欠点は、場所をとること、連作は厳禁である事、草を取る手間が必要である事、などです。主にアブラナ科で行われていました。(キャベツの方法であると聞きました)

 我等が寺尾博士の名言「耕種には優劣なく、適否あるのみ」であります。私の園地において適切な方法を見出す為に様々な方法を試しております。この方法を用いて3年くらいが経過します。もちろん箱育苗・ポット育苗と平行しています。

 こちらが地播を行う場所です

地播.14.09.23.

 上にはオカワカメの蔓が這っていました。

 ここを耕運して播種します

ボルドーの散布。

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 秋になりました。このくらいの気温の低下はトマトにとって丁度よいくらいです。

 トマトにとって生育適温ではありますが、実はこの季節に一番注意しなくてはいけない病害が「葉カビ病」です。他の農家の園地ではどうか知りませんが、私の園地で「葉カビ病」が発生する時期は決って春と秋です。それも昼間の高温(ハウスだから当然ですが)、を気にして午後農薬散布や液肥の散布、サイド潅水を行って夕方まで露が切れない場合に発生します。

 こうなると真夏の高温乾燥時期の方が気楽ですが、現在のミニトマト(ピュアスイート、ピュアエンジェル共に)威勢を回復してかなり実をつけています。何とかしてこれらを温度があるときまでに成熟させて出荷してみたいと思います。

 葉カビ病が発生するに先んじて一番効果のある農薬「ボルドー」を散布します

Zボルドー.14.09.19.

 私の使用するボルドーは「Zボルドー」です。ボルドーの薬害を軽減する為に、炭酸マグネシウムと硫酸亜鉛が配合されています。石灰・硫黄・銅だけでなく、苦土(マグネシウム)、亜鉛の補給にもなります。(どの程度葉面吸収されるのか不明ですが、根からも吸収されるので心配後無用です)

 このZボルドーに更に、尿素、塩化カリそして自作の有機液肥を混用して散布します。威勢を強めて最後の収穫に望みます

 このボルドーの最大の欠点は、沈殿しやすい点です。必ず底にいくばくかボルドーが残ります。それでも一応ボルドーをバケツで中間濃縮液を作りタンクに移して調整します

 静岡連隊の首山堡における戦いについては、私は祖父からの話で知りました。もちろん私の祖父は大正生まれですから日露戦争については伝聞です。

 關谷連隊長、橘大隊長の指揮の下激戦を行ったというものです。非常に簡略な祖父の話です。(当然ですが、私の祖父は日露戦当時生まれていないのです。詳しく知っているわけがないのです。)

 私の近い親戚に日露戦争に参加された方でもいれば別ですが、私の曽祖父の兄弟はすべて養子で跡取りとなっているので徴兵はされません。私の身内で日露戦参加者はゼロです。支那事変より対米戦にかけて、私の祖父を含め身内より多くの若者が出征しました。もちろん白木の箱で凱旋された方もおります。

 これまでの遼陽会戦における静岡連隊の戦いについての記事は、すべて古書より私が調査したものです。当時の生存者より聞き取りをする好機は昭和30年代が最後です・・・・・。ということは進歩的文化人と一緒に馬鹿学生(馬鹿教員)が大騒ぎをしていた時代であります。思うように生存者から当時の経緯を記録することは難しいようです。(その当時私は生まれていません)

 さて、現在まで一部の方々において語り継がれている静岡連隊の首山堡の戦いです。死傷者の数も第2軍の死傷者に占める割合が約2割。戦死傷者に占める戦死者の割合が4割を越す激戦でした。この数値がいかに異常なものかを含めて、静岡連隊各大隊の死傷者の数を統計より紹介します。

 

 奥大将率いる第2軍の遼陽の大会戦は、8月31日の首山堡防御線においての戦いがメインであります。この首山堡防御線を突破した事により遼陽会戦の勝敗が決しました。つまり決戦です。

 第2軍に於いては8月31日の戦いにおける戦死者がこの遼陽の大会戦における戦死者のほとんどであります。公刊戦史である「明治37,8年日露戦史」第3巻の巻末にあります資料より、第2軍の各部隊の戦死傷者数を紹介します。

 戦局に非常に大きな影響を与えた大決戦であった「遼陽会戦」ですが、旅順攻防戦や奉天会戦に比べると陰の薄い感じがします。海外的にも日本の宣伝下手のため大きな影響を与える事ができなかったようです。しかし、勝利は勝利です。この緒戦の大会戦に勝利しえた為にその後の戦いによい影響があったことは間違いはありません。負けていたら・・・・次はどうなったのか。

 これまで静岡歩兵第34連隊について紹介してきましたが、第2軍隷下の部隊の状況も比較参考までに必要だと思いました。他の部隊についてはよく調査はしておりませんが、人的被害に関しては資料がありますので紹介します。

 なぜ、静岡において8月31日が戦勝記念日として祀られてきたのか、その理由の一端がわかります。

 

ピュアエンジェル®ミニトマトの採種始め。

 やまひこ農園ではミニトマトの育成を続けながら生産を行っています。

 形状は通常型の「ピュアスイートミニトマト」、ロケット型の「ピュアエンジェルミニトマト」そして今年は販売しておりませんが、紫色の「ピュアブラック」、オレンジ色の「ピュアオレンジ」、ロング型の「ピュアフレイム」などなど各種取り揃えて育成し改良に努めております。

 また、性懲りもなく今年幾種類かミニトマトの交配種を作出しましたので・・・・・これもまた今後どうしようか迷っています。

 できればすぐに播種して温床とフレームで花を咲かせて実を取って、来年の春作にはF2を供試してみたいのですが・・・・・・失敗するとかなりへこみますOrz。寺尾博士と共に陸羽132号の作出に尽力ありました仁部富之助さんの苦労がある程度分かりました。(夜も眠れなかったようです。だいたい陸羽132号最初の交配種子は僅か2粒!)

 まだ収穫しているトマトの作業と相談して考えてみます。

 さて、こちらのピュアエンジェルミニトマトの試験園地では、かねてより品質調査を行い(粗いですが)、採種する株を選定してあります。果実の品質云々はもとより今年のような高温環境条件を耐え抜いた株のみが採種の対象となります。強健こそ良品質果実収穫の基であります。

 こちらがその時記録用に写した写真です。(9月2日撮影)

ピュアエンジェルミニトマト採種記録用写真.14.09.02.

 9月になってもこのようになっています。暖地で栽培された方であればいかにトマトの夏越し栽培が困難であるか理解されると思います。いろいろと工夫はしておりますが、今年の気候でもなんとか夏場を通して収穫できました。もちろん何株か・・・・ご臨終いたしましたが想定内です

 本日は寺尾博博士の誕生日であります。

 寺尾博士は、東京帝国大学農科大学卒業において恩賜の銀時計を時の陛下明治大帝より賜っております。その後鈴木梅太郎博士の恩師である第2代農事試験場場長古在博士及び安藤博士より請われて農事試験場に奉職。1年後には技官に就任、そして安藤博士が第3代農事試験場場長に就任されるや次席の種芸主任に就任されました。寺尾博士の出世の速さは農事試験場(戦後は農業試験場)空前絶後といえます。

 研究成果もこれまた空前絶後ともいえるものです。数年前まで継続されてきた農業試験場自慢の指定試験も寺尾博博士主導のものです。この指定試験よりササニシキ、コシヒカリの名品種が誕生しました。博士ご自身の作出された品種はこれまた名声を博した「陸羽132号」であります。先に書いたコシヒカリの先祖になります。

 日本の主食である水稲、麦については精密試験法を用い生態的な観点から相対性試験にその試験法を利用し、栽培環境と作物生理の因果関係を究明し栽培法の改善に多大なる功績がありました。日本は葦原の瑞穂の国と呼ばれますが、実際そのようになったのは寺尾博士と共同研究者の尽力の賜物であります。

 東北地方で頻発した冷害に対して始めて科学的な研究がなされたのは寺尾博士の研究チームであります。この功績により学士院賞が授与されました。東北地方では多くの農民より感謝され、終生東北冷害を征した恩人として尊敬の念を集めました。

 昭和16年第4代農事試験場場長に就任されましたが、日米開戦と共に代用品を用いた戦時研究がさかんとなり、予算はついても物はない研究には不適な状態を甘受せざるを得ない状況となりました。この間においても苦心し基礎研究を継続し、且農家指導に邁進し終戦を迎えます。そして農事試験場は進歩的文化人と称する不平分子により混乱を極め、寺尾博士は農事試験場を去ることとなります。

 戦後寺尾博士は貴族院議員、参議院議員を勤められ、農政について又三島の遺伝学研究所設立について尽力されました。

 参議院議員を辞められた後、農電研顧問に就任し電熱を使った水稲の箱育苗の技術化について研究を行います。水稲の早期栽培、又寒冷地の安定した育苗に功績がありました。そして、この箱育苗を用いた画期的技術が、現在主流となった田植機です。この田植機は共同研究者が関口氏であります。農学には全くの素人ですが専門は機械であったことから寺尾博士が懇願し二人三脚にて完成したものであります。残念ながらこの田植機の完成を寺尾博士は見ることはできませんでした。享年77歳。日本農学界最高の天才と称することのできる大学者であります。

 私は寺尾博士の研究のほんの一部を調査しております。

 ・・・・・が。

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