鈴木梅太郎博士と脚気論争。

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 梅太郎博士といえばビタミンです、そして脚気論争です。

 この脚気論争はなかなか現在までも農学者の中で語り継がれる大事件であります。

 この論争で梅太郎博士は「百姓学者」と罵倒されることは多くの資料で散見できます。ただ、この「百姓学者」なる侮辱については一言も梅太郎博士は記録を残されておりません。おそらく梅太郎門下のどなたかが記録として残されたようです。この「百姓学者」なる侮辱についてはまた考察いたします。

 脚気論争は、脚気菌説や白米毒素説などなどいろいろな説が入り乱れて大きな論巣となりました。この時はまだ栄養学にビタミン説が誕生していませんでした。

 散見する脚気論争の記事では、医学者の横暴のようにも見える脚気論争ですが、新しい学説が受け入れられるまでにはかなり時間と研究が必要となります。そして、これは学会(それとも学界か)内においての論争です。学会論争であれば決着がつくまでの過程で誤りがあっても問題はありません。学会論争とはそういうものではないでしょうか。(そうでなければSTAP騒動か・・・・)

 

 今回参考にする資料は、「鈴木梅太郎先生伝」、「研究の回顧」、雑誌「化学の領域」第11巻4号の特集記事そして、三浦謹ノ助博士の愛弟子であります静岡出身の医学博士勝沼精蔵著「桂堂夜話」です。

 私のような百姓が見た限り、この脚気論争はわかったような判らないようななんともいえない論争であります。ただ、「百姓学者」なる暴言が一人歩きした所もないではないような気がします。

 

 場所は、東京化学会。

 時は、明治43年12月13日。

 梅太郎博士の発表された報告の要旨は以下の通り。

「白米病治療効果を持つ米糠成分はジアゾ反応を示す物質である。すなわち、パラジアゾベンゾールスルフォン酸溶液に加えると赤色を呈する化合物である。この反応を示す有効成分は燐ータングステン酸溶液を加えると沈殿する性質がある。だからこの性質を利用して他の無効成分から分離精製することができる。この試薬で沈殿し、かつジアゾ反応を示す。これらの化学反応は各種ミネラル、諸種の炭水化物、蛋白質には見られない。もちろん脂肪にも見られない。ようするに従来の栄養素ではない。これはおそらく一部の学者によって空想に画かれていた新栄養成分であろう。」

 「糠中の一有効成分について」という題名で島村虎猪(しまむらとらい)博士と連名で発表されました。

 島村虎猪博士は獣医学博士であります(当時の東大農学部は農学、林学、獣医学の3学科のみ)。この論文ができるまで梅太郎博士の下で2年間無休で鶏の試験を行われたそうです。

 昭和32年島村獣医学博士は、初生雛鑑別の発見者増井清獣医学博士と共に紫綬褒章を受賞されております。あまりお名前が出てこられない方なので簡単ですが紹介しました。

 

 この「糠中の一有効成分について」という論文が一大波乱を学界にもたらします。

 昭和32年4月1日発行の「化学の領域」11巻4号にあります鈴木梅太郎博士生物化学講座開講50周年を記念して行われた座談会の記事より紹介します。

 参加者、薮田貞治郎、後藤格次、佐橋佳一、山本亮、鈴木正策、船橋三郎(司会)以上6名。(敬称略)

 この方々(5名)は・・・・高名な方です。梅太郎博士の直弟子です。

 私のような農学部で学んだ者は「薮田貞治郎」博士のお名前を知らぬものはありません。ジベレリン(ギベレリン)の発見者であります。我等が増井清博士の増井家禽育種研究所発起人のお一人であります。

 鈴木正策氏は梅太郎博士の甥子さんです。博士のお兄さんの息子さんです。仙台2高より東京帝国大学理学部へ進学され、その後理研で理研酒の研究・製造を担当されました。

 この座談会記事と年表の一部を紹介します。

鈴木梅太郎オリザニン.14.05.29.

薮田・オリザニンを発見されたのが明治43年でしたか、そして特許をとられて、それを三共で実施させたというふうに聞いています。

佐橋・発見されたのが、1910年12月ですね。

薮田・先生は初めアベリ酸という名前をおつけになったでしょう。あれは先生が始め酸性物質と考えてアベリ酸と名前をおつけになったのですが、後でオリザニンという名前に変えられた。

佐橋・同じものをC.FUNKが1911年の12月、ちょうど1年後に発見した。

船橋・あのころ、そういうオリザニンの発見ということは新聞種になったのですか、今ならすぐ出るでしょうけれども、どうなんですか。

後藤・新聞にはそんなに書き立てなかったかもしれないけど、学界では非常な問題でしたね。オリザニンがジアゾ反応を呈するというので、当時の内科学の泰斗、青山(胤通たねみち)先生が熱病のときには尿の中にジアゾ反応を呈する物質がでてくるが、そんなら小便を飲んだのと同じことだといって冷やかしたという話があったくらいですから。(笑)

薮田・先生はそのジアゾ反応を探ってだんだんきれいにされたわけですね。

後藤・そうですね。

 

 実に判りやすい説明です。

 口が悪いのですが、青山先生もジアゾ反応の物質については異論はないが、効果については疑問視しています。(好意的に見れば)

 この時点ではまだアベリ酸も純度が高いものでなく脚気治療効果も量を必要とするものでした。梅太郎博士はその後も研究を続け純度が高い(現在でいうところの)ビタミンB1をつくりオリザニンと命名しました。これが明治45年のことです。(といってもまだ不純物をふくんだものでした)

 梅太郎博士の記録では、

 「私の発表もほとんど問題にならず、ただ東京帝大の池田菊苗博士のみが「果たしてそれが事実であれば非常に面白いものである・・・・・。」と批評されただけであった。

 とあります。この池田博士の発言を好意的に見る向きもありますが・・・・・、どうでしょうか。無視よりはましというところでしょうか。

 

 動物実験については十分確証は得られましたが・・・・人体実験と言うと今も昔も難問のようです。当時オリザニンについては梅太郎博士ご自身及び周辺の方々については人体実験済みで脚気にも効用があるとのことでありますが、医学会は認めません。

 「研究の回顧」より

『最初泉橋病院の若い医学士に「オリザニン」を送って試験を依頼したところ1ヶ月ばかり経ってから「一人の労働者に試験したところ、その患者は3日ばかりで軽快したといって、その後は来なかった。もう一人はよほど重症であったが、数日間の服用で非常に軽快に赴いたといい、未だ症状が充分消失しない内に退院してしまった。多分「オリザニン」が効いたのだと思うが、ただし脚気は他の療法でも治るから、これが特効薬だとはいわれない、もっと継続して試験することは、主任の先生が許さないから、これでお断りする」というのであった。

 その次に、私の同郷の開業医が日本橋に居ったから、その人に頼んだが、断りの手紙を寄越した。そんなわけで、甚だ信用がなくて閉口した。』

 いろいろ資料は読んでいますが、脚気栄養原因説に反対の青山胤通・三浦謹ノ助両博士が圧力をかけたという証拠はありません。(そういう構図を画きたい方はいますが)

 梅太郎博士の同郷の人間ですら断るのです。こちらのほうがよほど梅太郎博士の心にこたえたのでしょうと、私は推察しています。後年梅太郎博士の生家を預かる鈴木菊さんにこのように言ったそうです。

『「一族の中に誰か一人ぐらい名医を出しておきたかった。そうすればこんな時には頼りになるし、おれのできない臨床試験を頼めたんだ」ともらすのであった。オリザニン発見当時、臨床医の協力が得られず苦労したと聞いているが、そんな意味合いも含まれた述懐ではなかったかと思う。』

 

 オリザニン初の人体実験は「化学の領域」の年表によると、大正2年(1913)巣鴨養育院において行われました。(梅太郎博士の記録では大正3年となっています。期間は1年。鈴木文助博士が担当されたようです。)

 では、医学者は総て梅太郎博士のオリザニンに対して冷笑していたのでしょうか。日本の医学会は今も昔も俊才揃いであります。未知の病気に対しては議論百出であることは想像できます。

 いろいろと調べてみましたら・・・・、梅太郎博士の研究に早期に理解を示した医学者を一人見出しました。静岡市出身の医学者であり医者であります「勝沼精蔵博士」であります。西園寺公望公の主治医を勤められました。名古屋大学3代目の学長です。士族の出身です。そして梅太郎博士の説に大反対したと言われている三浦謹ノ助博士の愛弟子でもあります。

 勝沼精蔵博士の記録より紹介します。桂堂夜話p186

『三浦謹ノ助先生は、

「医者は料理がわからなくてはならない」

とよくいわれ、私にたいしては、

「ノートをこしらえ、一生かかってやってみるべきところだが、自分は到頭やれなかった。君ひとつぜひやってくれ。」

と勧められた。私は私なりにこの問題に注意してきたが、必要に迫られた結果、その狙いが自然に「老人食」のほうに傾いたのは、けだしやむをえない。

 最初私が問題にしたのは脚気であった。夏になると、前途有為の若い学生たちが、この病気に苦しんで死んでいく。当時、脚気は一種の伝染病ということになっていたくらいである。そのうちその病気と食物との関係が注意されるようになり、麦飯が推奨されたり、アンチベリベンなどという、糠から作った薬による注射も行われた。静岡県出身の先輩、農学博士鈴木梅太郎先生は私に、

「大日本ビール会社にゆき、酵母をたくさんもらってきて、脚気の患者に食べさせたら、きっと治ると思う。会社では今どんどん捨てているから。」(これは1912年の秋であった)

これをきいた私は目黒のビール会社から、石油かん一ぱいそれをもらってきて、教室の連中にうんと食べさせてみた。(略)』

 この勝沼精蔵博士の視点よりの研究は「エビオス」の開発につながります。(・・・道理で梅太郎博士が著書の中でエビオスという商品名を用いているかわかりました)

 鈴木梅太郎博士と勝沼精蔵博士と接点がありました。1912年といえば明治45年です。オリザニンの名称ができたばかりのころです。アベリ酸の発表より2年後です。

 

 梅太郎博士の説に猛反対した医学者のひとりが三浦謹ノ助博士と言われています。三浦博士の愛弟子である勝沼博士に助言を与える所は、梅太郎博士の度量もさることながら医学者の中でもいろいろ議論があったことを考えさせます。

 戦後、梅太郎門下四天王筆頭(なぜか知らないがそういわれている)「薮田貞治郎」博士は勝沼精蔵名古屋大学学長の依頼を受け農学部の新設に取り組みます。不思議な縁があるものです

 

オリザニン(ビタミンB1)の発見者にして、日本栄養学揺籃期における最大功労者。

 鈴木梅太郎博士カテゴリー

 

 陸羽132号作出者であり、日本農学を科学にした駿河最高の農学者。

 寺尾博博士カテゴリー 

 

 初生雛雌雄鑑別発見者にして、日本が世界に誇る動物遺伝学者。

 増井清博士カテゴリー

 

 

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このページは、yamahiko-farmが2014年5月29日 23:23に書いたブログ記事です。

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