2013年11月アーカイブ

バジルの根!!!

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 日本ではバジルは1年草であります。

 最低気温が一桁台になると生長はしません。葉に黒いしみが出来て商品にはなりません。冷害であります。

 現在の所、ひょんなことから昨年ハウス内に定植したバジル2株が夏を越しても(まったく潅水など手をかけていなかった)生存していたので、2重被膜をかけて様子を見ています。

 こちらは今年露地に定植したバジルです。ハウス内に移植する為に抜きました。

バジル.13.11.28.

 全体が薄黄色になっています。

 バジルは生長が旺盛な時は緑色です。

 葉の所々が黒くなっていることが判ります。

 これをハウスに移植して活着するのか?。程度によるかもしれませんが大体はうまくいきます。

 根を見てみます。

 高温期は威勢良く生長していたオカワカメでしたが、気温の低下と共にだんだんくたびれてまいりました。

 後作のためにも早めに除去しないと邪魔です!。

 1ヶ所は完全に除去しました。

 ご注文の関係で・・・・・もう1ヶ所は半分残してありましたがもう限界の時期です。

 こちらが収穫したオカワカメです。

オカワカメ.13.11.22.

 まだ商品にはなりますが・・・・収穫が大変です。

 今月末までで終了する予定です。

 もう1枚。

 9月24日に定植を完了した圃場のステックセニョールです。

 本日収穫したステックセニョールは台風前の9月18日くらいに定植したものです。(メモが・・・ハウスにあるので・・・)

 普通のブロッコリーと異なっている点はこちらです。

ステックセニョール.13.11.22.

 花房が小さいです。

 ステックセニョールの栽培法には、頂花房は除去することとあります。理由はそのほうが腋芽がよく出てくるからです。

 私の場合は・・・・そんなことをするよりも面積で勝負です。

 ドズル・ザビ中将曰「戦は数だよ!アニキ」

 その通りであります。

 家庭菜園でもあるまいにそんなに細かく手をかけて入られません。

 一見小さい花房ですがよく見てみます。

元肥に尿素を散布!!!

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 静岡も寒くなってきました。

 冬です。

 既にハウス内もバジルなどは二重被覆をおこなっています。

 耐寒性のある野菜は二重被膜を行いません。その代りに透明マルチを使用して地温を上げます。

 元肥には尿素を使用します。

 こちらです。

尿素.13.11.20.

 尿素は有機物でありますが、化学肥料であります。

 昔は配合肥料に尿素を混ぜると有機分にカウントされました。もちろん今は違います。

 尿素は、化粧品にも保湿剤として使用されています。

 人体には安全です。自然にもやさしい肥料です。ついでに窒素成分が46%で20kg約1500円と家計にもやさしい肥料であります。

 

 さて、なぜこの時期に尿素を元肥に使用するのか?

 この記事は以前静岡農学校空前絶後の名校長であります静岡市門屋の「白鳥吾市」校長のインタビューより紹介いたしました。

 以前の記事はこちら

 こちらが白鳥吾市校長であります。

白鳥吾市校長.12.06.11.

 品のあるお顔をしております。

 白鳥先生は東京帝国大学にて横井時敬先生門下の碩学であります。若干26歳にて横井時敬先生と共著の「農業要覧」を執筆されました。農具の研究でも稲垣乙丙博士と共に大家として名が知られております。

 残念ながら静岡農学校に保管されていた白鳥先生の資料及び昔の農具現物資料はすべて進歩的な思考を持つ三流教員どもの手により廃棄処分されてしまいました。

 しかし、白鳥先生の資料をこの日本からすべて処分することは三流教員だけあって出来ないようです。

 さて、少数でありますが農学校卒業生より多大なる尊敬を受けております白鳥先生が挙げる農業教育史上に残る有名人です。

 異常気象の影響か?、11月まで露地でバジルを収穫しました。

 今までは、大体10月中旬には威勢が落ちてろくに収穫できなくなるので栽培を終了します。

 よくこの時期までもったといいたいところですが、さすがに最低気温が一桁台になると確実に生育が停止します。

 こちらは11月13日に撮影したバジルです。

バジル.13.11.13.

 よく育っています。一見冬季に向かうバジルの生育とは思えません。

 しかし本日(11月18日)の状態はかなり異なります。バジルの生育最低気温を下回る低温にさらされた状態はこちらです。

 「PARAGRAPH‐WRITING」という洋書を購入しました。

 1893年に発行されいまだに再販されている名著です。(古書店を探していた私もビックリしました)

 こちらです。

Paragraph Writing.13.11.17.

 この本は、我らが寺尾博博士がアメリカ ボストン留学時代(1915~1917)に夜店市で見つけて持ち帰ってきたのがおそらく日本初公開でありましょう。

 同名の本もあります。静岡県立大学附属図書館にはFrak Chaplen著の「PARAGRAPH‐WRITING」がありましたが、こちらはオックスフォード大学の方が書かれたものであります。

 寺尾博士が購入されたものはスコットさんが書かれたものです。場所はアメリカ、ボストンです。発行年、発行場所共にぴたりと一致します。

 ただ・・・・・・内容を理解するには・・・・・・時が必要のようです。まあ、日本語の本でも読むことはできても、内容の理解には時間がかかりますが・・・・。

 昭和初期の農事試験場ではこの「PARAGRAPH‐WRITING」を教本として論文を作成していたことが近藤頼巳、山崎守正両博士の記録よりわかります。

 ちょっと抜書きしてみます。

 農業の置かれた状況に理解を示す(?)方々が使用される言葉の代表が「農学栄えて、農業滅ぶ」であります。

 この「農学栄えて、農業滅ぶ」とういう言葉は横井時敬先生の言葉とされていますが確認されておりません。つまり横井時敬先生の言葉といえる証拠がないのです!

 私のような田舎百姓が疑問に思うことは、この「農学栄えて、農業滅ぶ」と口にしたり、文中に用いている方々は、学者や評論家、学校の先生方であります。この方々は学識があることで俸給をいただいているはずなのに出典が明らかでない根拠のない言葉を引用しているのであります。

 うーむ、この方々は自身の無知を我々に示そうとされておられるのでしょうか。そうなるとその偽学を見抜けない我々の無学に責任があると言うことなのか・・・・・・・。

 と言うことになると、就職活動のために大学にいっている学生が「農学栄えて、農業滅ぶ」という言葉の源流を探る研究なぞ行うはずもなかろうなあ。

 とまあ、百姓仕事をしながら思い至る所となりましたので私のような駄馬が地道に調査を行うより他がありません。

 昔の言葉に「駄馬の歩みは、駿馬の足踏みに優る」とありますが、その言葉どおり小坂百姓が少しずつ歩んで行くことといたします。

 

 先の調査で「農学栄えて、農業滅ぶ」と類似した言葉を公を前にして発した人物を紹介いたしました。

 盛岡高等農林学校 校長「鏡保之助」先生です。

農学研究のかくのごとく盛んにして農村日に衰えるは何故ぞ

 と500名を数える農学者を前にして述べられました。(リンクはこちら

 寺尾博博士の寄稿より知る所となり、推定する時期を大正13年としてその時代を調査しておりましたが全く手がかりがなく半分あきらめかけておりましたが、ひょんなことからその時と大会に参加されていた方々の名前がわかりましたので紹介します。

 何時も一人で静かに仕事をしておりますが、ここのところセキレイがハウスに住み着いた(?)ようでにぎやかくなってきました。

 寺尾博士の共同研究者であります「仁部富之助」さんでしたら涙を流して喜んでくれる光景でしょう。

 作業している私に近づいてきたり、私が気が付いてそちらを見るとあわてて逃げるセキレイを見ていると・・・・・「ダルマさんが転んだ」をやっているようでもあります。

 可愛いものです。スズメよりもセキレイの方が綺麗っぽく品があります。(五月蝿くない)

 こちらです。

セキレイ.13.11.04.

 整地する前の圃場です。ミミズか虫を探して食べているのでしょう。

 動き方が実にリズミカルで可愛く見えます。

 アップにして見ます。

 ステックセニョールに薬剤と共に自作の有機液肥を混用して散布しました。

 一目で違いが分かります。

 ちょっと写真の撮り方が悪いので・・・・・ですが、やはりこの時期有機液肥の葉面散布は見た目に効果をあらわせます。

 先ずは昨日のステックセニョールの状態です。

ステックセニョール.11.05.

 葉がだれたようになっております。

 この後薬剤散布を行います。

 そうすると次の日には・・・・・。

 

寺尾博博士の人物評

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 寺尾博士のお人柄について書き残されている資料は少数です。

 どちらかと言うと、寺尾博士の名前を挙げて又は名前こそ出しませんがそれとなく判るように悪口を書き残している記事があります。(初期の「農業技術」とか・・・・)

 その、誰でも欠点があるわけですが寺尾博士の場合は、終戦後農林省主流派になった左翼の官僚・学者(研究者)からの攻撃が大きかったようです。(どうも思想的にと言うより機会主義的なインテリが左翼に多いように見えます)

 もちろんそういった左翼の官僚・学者には出世しか頭にありませんから、何でも汚い事はやります。(現在の農業不振を招いた原点が戦中・終戦直後の農業政策にあったことは我々には周知です)

 寺尾博士を否定することによって自分たちの行動を正当化していたことを強く感じます。こちらもぼちぼちまとめていきます。(記録が残っているということは恐ろしいです・・・・)

 

 前置きが長くなりましたが、寺尾博士をよく知る人物の書き残した資料を紹介します。

 増井清博士「寺尾博理事逝去」 (とりの育種6)

 大島廣博士「寺尾博君の追憶」 (採集と飼育24巻6号)

 野口弥吉博士「日本における育種学、とくに植物育種学の発展記録(私見)生立ちから学会設立まで」

 以上3点です。他にも寺尾博士について書かれた記事がありますがまた話の都合で紹介していきます。

寺尾博士と静中同窓会.12.06.26.

 この写真は、増井博士の研究所「(財)増井家禽育種研究所」発行の「とりの育種」に掲載されていたものです。

 見難いのですが寺尾博士のお顔がわかります。増井博士は右の隅だと思います。

 この日は5月3日、増井家禽育種研究所で静中の同窓会が開かれたようです。

 寺尾博士はお孫さん同伴で、よいのどを聞かせてくれた、と書かれています。

 

 この記事は平成24年6月26日に作成されました。

 寺尾博士に御自分の功績を述べさせると言うことは・・・あまり・・・見栄えのしないことであります。

 もちろん現在のように図書館も完備されておらず、農事試験場にいなくては寺尾博士の業績など知る由もありませんから、御当人も承知の上で(非常に)控えめに書き残されたようです。

 情報化社会の今、寺尾博士の残されたお仕事、共同研究者のお名前も資料より知る事が出来ます。

  私が調査いたしました寺尾博士の業績を紹介する前にお父様の寺尾昌太郎翁の銅像建立記念の写真集より寺尾博士の御家族の写真を紹介します。

 この写真集は静岡県立図書館に所蔵されております。決して私が御遺族から借りてきたものではありません。

寺尾博士と御家族.12.05.29.

 この写真は昭和3年10月に撮影されたものです。寺尾博士44歳です。

  左側の方が寺尾博士のご尊父「寺尾昌太郎」さんであります。寺尾博博士の銅像はございませんが、昌太郎翁の銅像は聖一色にございます。

 以前の記事ですが、同じ時に撮られた寺尾博士のお写真があります。場所は九州大学、日本遺伝学会第1回大会です。

 日本遺伝学会第1回大会 リンク

 

 この記事は平成24年6月4日に作成されたものです。

 「南満北支雑映」に収録されております寺尾博博士の紀行文です

 昭和11年です。まだ第2時上海事変は始まっておりませんが、大陸ではきな臭い臭いが漂っております。

 多くの研究者は自身の専門分野のみ気を付けて観察しておりますが、当時農事試験場種芸主任「寺尾博」博士の目は違います。

 自然環境と農業だけでなくそこに住む人々も寺尾博士の観察の対象のようです。

 

 

 

堅忍不抜・・・・寺尾博.13.03.21. 当時内地で聞かれた、「シナのチャンちゃん坊主毛が長い・・・」などの俗説とは無縁のようです。

 寺尾博士の眼には山東苦力(クーリー・・・労働者)はどのように映ったのか。

 

 この記事は平成25年3月23日に作成されました。

 この記事は、昭和11年9月下旬より約2ヶ月間満州と北支を視察された寺尾博士の紀行文の一片です。

 「農業及び園芸」誌に連載されたものを「南満北支雑映」と題して集成されて出版されました。

 面白そうな記事より紹介していきます。

 最初はタイトルの「自然に依存する農法」です。

 口絵

自然に依存する農法.13.03.19.

 満州の農家が豆の風選を行っています。

 寺尾博士の視点に・・・親近感を覚えます。

 

 この記事は平成25年3月19日に作成されました。

 正式な名称は分かりませんが一応使われている「むかご」の名称を使用します。

 ここ数年オカワカメを栽培してみて時期が来るとむかごができるのかと漫然と考えていましたが、生育環境を変えて(潅水量)よく見てみるとよくわかりました。

 灌水量が多い場合は時期を問わず「むかご」が着生します。

 こうなると山芋のむかごとは全く生理的に異なるものであるわけですが他に適当な名称がない以上仕方がなく使用しております。

 こちらが灌水量を多く施したオカワカメに着生したむかごです

オカワカメのむかご.13.10.31.

 これが夏場にも着生して大賑わいでありました。

 むかごより葉がでています。水に濡れていると根がでてきます。

 むかごの名称が適当なのか非常に疑問がでてきます。

 山芋のむかごにはこういう性質はありません。

 写真をアップにして見ます。

 また新たに我らが寺尾博博士の記事を入手しましたので紹介します。

 雑誌「実業の日本」53巻5号にあります寺尾博士の寄稿です。(昭和25年3月)

 この時寺尾博士は67歳。農事試験場を退職され参議院議員、坂田種苗(現、サカタのタネ)の取締役を勤めておられました。

 終戦後わずか5年です。

 都市では闇市は賑わい、農村地域も増産増産の掛け声と共に野良仕事に追われる毎日でありました。

 学者も、農業技術者も当面の課題である食糧生産に目を奪われ先を見るゆとりも無かったのでしょう。

 (・・・・・当然ですが研究室があればよいほうで実験器具、試薬、そして文献も不足していました。)

 政治的、経済的、心理的な様々な難問が山積するなか、じっと日本農業の将来を見据えていた農学者の一人が寺尾博博士であります。

 

 こちらは寺尾博士の御自宅にありました寺尾博士直筆の額です。博士が尊敬する宮崎先生の言葉であります。

 

 

宮崎安貞先生遺言.12.07.16.1. 

 寺尾先生の考え方が伝わってくる文章であります。(宮崎安貞先生遺言)

 

 「農の理法」(昭和21年)を執筆された4年後の文であります。

 現在における農業の問題点を浮き彫りにしたような内容であります。 

 少しずつ紹介していきます。

 

 この記事は平成25年3月9日に作成されました。

 宮沢賢治といえば「雨にもまけず、風にも負けず」と言う言葉で有名です。農学者でありますが童話作家として名が知られています。

 この宮沢賢治が愛し普及に努めたとされる水稲品種が「陸羽132号」であります。

 賢治の「稲作挿話」に、「君が自分でかんがえた/あの田もすっかり見て来たよ/陸羽一三二のはうね/あれはずゐぶん上手に行った」とあります。(農林省HPより転記)

 

 宮沢賢治の著作は「注文の多い料理店」など有名なものしか知らなかったのでこの「稲作挿話」は未見です。

 宮沢賢治より高い評価を受けた陸羽132号は、日本初めて近代的育種法(科学的育種)により作出された品種です。

 こちらは珍しい陸羽132号の記念切手です。

陸羽132号記念切手.12.07.16.

  この切手は陸羽132号作出者「寺尾博」博士の御子息「寺尾明」さんが収集されたものです。

 

 HPでも宮沢賢治の名前と共に紹介されることが多い水稲品種「陸羽132号」であります。(さすが高名な作家であります)

 この陸羽132号の作出者の御名前を紹介します。

 

 この記事は平成25年1月28日に作成されました。

 「農業朝日」の記事で寺尾博士曰、

世間では陸羽132号を寺尾がひとりでつくったように伝えているが、あれはいささか迷惑ですよ。いったい、作物の品種改良、育成事業というものは、たった一人の人間の力では出来るものではありません。

 

 はい、先生のおっしゃる通りでございますOrz。

 早速、関係された方々の御名前を紹介させていただきますOrz。

 

 最初は、寺尾博士と一番付き合いの長い「仁部富之助」さんです。仁部さんは野鳥の研究家としても知られています。静岡県立図書館の蔵書にあります。

 こちらが仁部富之助さんと寺尾博士です。(大正末)

仁部富之助さんと寺尾博士.12.12.11. 写真を取り直しました

 これならよくお顔がわかります。(元の写真が古いので・・・・)

 陸羽132号作出初期から関っておられたのがこの仁部富之助さんです。

 朝日新聞昭和59年10月10日の記事に「秋田の明治百年」から引用して、次のお話が紹介されております。

 『寺尾や仁部は素っ裸で、蒸し風呂のような温室で人工交配に熱中、2日の作業で寺尾は7kg、仁部は5kgもやせた。そして2粒のコメが生まれた。この2粒から本県の稲作を飛躍的に発展させた陸羽132号が誕生した。』

 仁部さんは実直なお顔をされております。寺尾博士の最初のパートナーです。

 続いて5名紹介します。

 

 この記事は平成24年12月10日に作成されました。

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