2013年10月アーカイブ

 昨日は12月8日であります。

 昭和16年のこの日に、帝国海軍南雲機動部隊が真珠湾を奇襲攻撃しました。

 そして・・・・パリ不戦条約違反の侵略国としてアメにぼこぼこにされて終戦を迎えます。

 この昭和16年に農事試験場の場長に就任された方が我らが「寺尾博」博士であります。

 21年までの約5年間農事試験場場長を勤められました。

 現在でも変わらないと思いますが、国立農事試験場といえば日本最高の農学者が集まる所です。シャバとは異なり・・・・恐ろしい所のようです。(・・・軍隊か?)

 この記事は、昭和33年「農業朝日」が寺尾博士にインタビューしたものです。

 こちらに寺尾博士の写真が載っています。(75歳)

陸羽132号 寺尾博.12.11.08.

 年をとってもこのお顔です。(厳しい顔をされています)

 こわいです。だからこそ私みたいな駿河の百姓から尊敬されるのであります。商店の店主みたいにニコニコしていたら・・・・尊敬の念など、どこか行ってしまいます。

 最初に、寺尾博士の家庭菜園の状況が紹介されています。(聖一色の自宅ではなく鵠沼の御宅です)

『応接間の窓からながめると、広い庭はそのまま菜園で、キャベツやハクサイの苗がたくさん植わっている。ずっと向うには桃の木が十本ばかりある。ニワトリ小屋にはレグホンが100羽ばかりいる。』

 ・・・・・「寺尾先生ニワトリばかり100羽も飼って卵でも売るのか」と、最初は思いましたが、たぶん記者が全てニワトリはレグホン(白色レグホーン)だと勘違いしていただけではなかろうか、実は増井博士作出の「増井1号」と白レグの比較試験をされていたのだろうと考えています。(研究好きの寺尾博士ですから)

 もう一つ、菜園に植えてあった、キャベツとハクサイはどこの品種か?。タキイ、サカタ両種苗会社が有力ですが、寺尾博士の実家のご近所さんが「石井種苗」です。もしかしたらそこの品種もここで試作されていたのかも知れません。(可能性が高い)

 

 インタビューの記事に入ります。読んでいてなんか記者の方がかわいそうになってきます。

 

 この記事は平成24年12月9日に作成されました。

 先日、寺尾博士の御命日に「円福寺」を訪ねました。

 その時に、方丈さんから寺尾博士の25回忌の時に作成された資料を拝見させていただきました。すべて陸羽132号やその他水稲品種の作出回想の新聞記事でした。

 写真を撮り読み返してみると、陸羽132号が新聞にて絶賛されている日付がわかりましたので県立図書館へ向かいました。(寺尾博士のうちの前を通っていきます)

 

 以前寺尾博士の著書「農の理法」(東北冷害調査)の記事のときに紹介しましたエピソードを再度紹介します。

 当時の農林大臣が、

 『寺尾博士こそは今回の凶作におけるもっとも偉大な功績者で、今回だけでも何千万円(注、昭和初期です!)の被害額を免れたことは否定できない。銅像の一つ位は建ってもよいくらいだ』

 と、述べたという話も伝わっている。(以上、西尾敏彦著『農の技術を拓く』より)

 このお話は本当であります。

 証拠は、昭和9年10月21日(朝日新聞)の2面に掲載されております。

 時の大臣は「山崎達之輔」さんです。

 

 この記事は平成24年7月20日に作成されました。

 本日は、私の村「小坂」ではお盆送りであります。

 聞いてみると静岡でも7月盆の地域と8月盆の地域があるようです。(理由は不明)

 

 さて、寺尾博博士のご命日でありますので、お墓へおまいりにまいります。

 菩提寺は聖一色にあります曹洞宗「円福寺」です。

 お墓は「円福寺」の離れ墓地にあります。

 方丈さんにご挨拶した後、位牌堂で手を合わせ、寺尾博士の25回忌の時に作成された資料を見せていただきました。

 その後で離れ墓地にあります寺尾家の墓所に案内をしていただきました。

 こちらが許可を得て撮影いたしました寺尾博博士のお墓であります。

 

寺尾博博士の墓所.12.07.16.

 手前の墓碑が寺尾博博士で、奥の墓碑は寺尾博士のお父さんであります寺尾昌太郎翁のものです。 

 寺尾博博士の戒名は「徹證院真心博道居士」です。

 

 この記事は平成24年7月17日に作成しました。

 ふだん何気なく使われている、(野菜の)品種と言う言葉をちょっと調べてみました。

 資料は、私が尊敬いたします静岡市聖一色出身の「寺尾博博士」の著作「育種」と農業試験場で参考書として使われた厚さ7cmの分厚い「野菜園芸大事典」です。

 

 こちらが昭和6年に岩波書店より発行された寺尾博著「育種」です。

寺尾博著「育種」.12.06.24.

 静岡県立図書館になかったので購入しました。(所蔵されていてもこの本はお買い得です!)。もしかしたら静岡農学校の図書館に所蔵されているかもしれません。

 

 この著作に関して、農学の大家「野口弥吉博士」はこのように書き残されております。

『この書物は昭和初期の植物育種ならびに植物育種学の領域を代表する名著といってよい、と同時に これほど寺尾博先生の優れた性格を明瞭に現しているものはない。日本の育種学の先覚者として自負している点がよく示されている。序文の中でも、"之にはいささか創案を用いたところもあるので"という言葉があるくらいである。

 

 出版当時、筆者(野口先生)は本書を精読して正に時代を先取りしているのに驚いた。(中略)育種に関する科学書、論文は手に入る限り、内外を問わず読破したつもりだが、事実寺尾先生の本の内容には敬服した。

 

 要するに、寺尾氏の著書は、日本における独特の新しい育種学成立の礎石となって、その後の育種の研究、実施に大きな影響を与えた。』

 

 長くなりましたが、野口弥吉博士の寺尾博士の著書に対する感想です。

 この「育種」には、現在でも充分通用する内容であります、そして非常に判りやすく簡潔に書かれています。

 

 ようやく本題の「品種の定義」であります。

 

  この記事は平成24年6月24日に作成されました。

 寺尾博士が書かれた「農の理法」(昭和20年11月3日)より転記します。

 

 日本最高の農学者集団のトップ、農事試験場場長の寺尾博士が御自宅で行っていた家庭菜園です。

 文中に2,3年前よりと書かれておりますので昭和17年より始めておられるのでしょう。もちろん戦時下です。

 当時は、農学関係の雑誌だけでなくラジオや新聞でも家庭菜園(又は青空農園)を進めておりました。

 ・・・・一般の国民も配給だけでは足りないので、メディアで紹介されなくても空き地があれば開墾して菜園を始めております。闇市も大賑わいです。(泥棒も)

 

 寺尾博士は学者でありますが、農家の出身です。

 お父さんは農業振興の功績で表彰されている方であります。(郡会議員であります)

 しかし、失敗談満載で面白い文章です。

 

 この記事は平成24年6月18日に作成されました。

 静岡では鈴木梅太郎博士の御名前を知らない方は少ないようです。

 これは小学校・中学校で郷土の偉人として名前だけ教えてもらうからです。だいたい「世界で初めてビタミンBを発見した人」でありますから教える方も手がかかりません。梅太郎博士を調べてみると実に苦労された碩学の人という印象を得ます。しかしこれを人に説明するにはかなりの文章力と調査能力が要求されます。

 そうなるとほとんどの教員は給料の足しにならないから・・・「ビタミンだけでいいや」、「教えたところで分からない」とまあ理屈をつけてやめにするわけです。

 その最たる方が、寺尾博博士と増井清博士です。農学校の授業のなかで、寺尾博士の冷害の研究、増井博士の初生雛鑑別について取上げられても、その研究者が静岡の人間であったと教員自身が知らないのです!関心がまるでないのです。モンスターティーチャーですな。(モンペよりも恐ろしい)

 

 調査を始めて今年で2年が経過いたします。増井博士の調査に遅れること半年です。

 

 先ずは御本人がかかれました業績を東豊田郷土誌より紹介します。(寺尾博士が御自分の事を書かれた記事は、私が調べた限りこの文章と雑誌「遺伝」6巻に収録されております「育種今昔話」だけです。)

 

 この記事は平成24年5月29日に作成いたしました。

 調査したのは1ヶ月半前なのですが、仕事の都合で余裕がなくようやく紹介できます。

 歴史の資料を読んでいきますと、だいたい「恩賜の○○」といいますと、陸軍大学や海軍大学の成績優秀者に授与されるものであります。確か上位6名であったとどこかの資料で読みましたが記録しておかなかったので確かな事は・・・・です。

 東京帝国大学でも陸海軍だけでは不公平であるとの議論からこの恩賜の銀時計の授与が始まったと「東京大学百年史」に記載がありました。

 明治32年より大正7年までの20年間続いておりました。毎年平均16名、合計323名が銀時計を下賜されました。

 これがその銀時計です。(セイコー社製)

恩賜の銀時計表.12.04.02.1.

 この20年間で農学部からは24名下賜されました。

 我らが寺尾博博士は明治42年7月に卒業されました。(この時は7月卒業です)

 この年は農学部より3名下賜されました。

 寺尾博士の地元では、東豊田小学校の記念祭に寺尾博士の銀時計が展示されたそうです。

 さて裏はどうなっていますか・・・

 

 この記事は平成24年5月25日に作成されました。

 静岡市立中央図書館に東豊田小学校の記念誌がありました。こちらに(当然ですが)、寺尾昌太郎翁、寺尾博博士の記事がありました。おそらくこの「東豊田郷土史」が種本になっています。

 

 私は読書家の方でありますが・・・今まで一度も寺尾博博士の業績を紹介する記事にお目にかかった事がありませんでした。(農学史、農業史関係です)。

 それでも農業技術史の関係で「農の技術を拓く」西尾敏彦著、に陸羽132号、田植え機の開発で寺尾博博士の紹介があります。この本は静岡県立図書館にございます、関心のある方は御一読を。

 

 さて、「東豊田郷土史」には寺尾博博士の学歴、職歴、業績と分けて書かれております。特に私が驚いた事は陸羽132号の記述が詳細で私が調べていた事と同じことが書かれてあったことです。・・・・一体誰がこんなに、詳細に寺尾博士の業績を調べたのかと不思議に思ったら、・・・・本人の文でした

 寺尾博士の記事の最後の方に「以上は寺尾博氏がお寄せ下さったものをそのまま載せました。」とありました。(正直な編集者です)

 

 寺尾博博士は「恩賜の銀時計」を頂いております。東大の優等生であります。(・・・ここまで来るとテストの点数ですら寺尾さんと勝負しようとは誰も思わないでしょう・・・)

 この恩賜の銀時計に関してはまた「東京大学百年史」より紹介します。

 先ずは、寺尾博士の履歴です。(学歴と職歴をくっつけました、不要だと思う部分は勝手に削除しました)

 

 寺尾博博士が日本最高の農学者であった事はあまり知られておりません。私も増井博士の調査を始めるまでは寺尾の姓しか本の中で知りませんでした。増井博士を通して寺尾博博士を知る事が出来たわけです。

 

 その寺尾博士のお父様も・・・実はすばらしい業績を立てられた方であります。なんと銅像がございます。大慈悲院川の脇にございます。

 こちらです。

寺尾昌太郎翁銅像 全景

 

 東北の冷害を救った「陸羽132号」の功績により、時の農林大臣より「銅像を建ててもよいくらいだ」と言わしめた寺尾博博士でありますが・・・・、親子二代で後世に残る功績を立てられたわけです。

 アップにして見ます。

日本遺伝学会第1回大会の時の写真です。

 
 遺伝学会は最初育種学会から始まりました。改名(この言い方が正しいか?)して遺伝学会になりました。その後又育種学会が誕生しました。


 さて、以前も一度紹介しましたが今度は遺伝研設立運動に参加した博士を中心に紹介します。皆様かなり若いです。

 時は昭和3年。場所は九州帝国大学です。

 全体写真です。

第1回日本遺伝学会集合写真

 もちろん、写真の中心は寺尾博博士であります。静岡市の方です。陸羽132号を作出された方です。私が尊敬しております農学者の一人でございます。

 

 この記事は平成23年12月5日に作成しました。

 この記事は、養賢堂『農業及び園芸』14巻10号にあります。

 当時秋田県農事試験場の大黒富治さんの文です。大黒さんはwikiにも記事があります。歌人でもあつたようです。


 秋田県由利郡農会の農民が行った陸羽132号育成者への感謝祭です。

 育成者は、寺尾博博士と仁部富之助氏の2名です。

 そして、当時の農事試験場場長であります安藤広太郎博士も主賓の筆頭で招かれております。(安藤博士は陸羽132号作出に古在博士と共に支援されました)


 現在のコシヒカリの先祖になります陸羽132号、そして日本で初めて純系淘汰法を用いられ交雑育種された学問的にも特筆される品種です。


 もちろんこの感謝祭は農家に利するところが大きかったからこそです。寺尾博士は自らの名を残さず実を残された方であります。(静岡でも知らない方が多いでしょうから)・・・私も偉そうには言えません。増井博士を調べていて寺尾博士が静岡の方だと知ったのですから。

 

 この記事は平成23年11月20日に作成しました。

 昨日(7月16日)、寺尾博博士の御命日に当たります。静岡ではこの日にお盆送りで御先祖様を送ります。・・・この日より蝉取りが解禁になります。(消毒が出来ます)

 
 本当は昨日書く予定でしたが仕事の都合とかわいい甥と姪の相手をしなくてはならなかったので今日になりました。


 寺尾博士作出の陸羽132号は昭和6年の東北冷害(※・すみません、新聞記事で確認しましたら昭和9年の大冷害です)で非常に評価され、当時の農林大臣が、

 『寺尾博士こそは今回の凶作におけるもっとも偉大な功績者で、今回だけでも何千万円(注、昭和初期です!)の被害額を免れたことは否定できない。銅像の一つ位は建ってもよいくらいだ』

 と、述べたという話も伝わっている。(以上、西尾敏彦著『農の技術を拓く』より)


 陸羽132号の記念碑や陸羽支場の碑は現存するそうです。寺尾博士と共に陸羽132号作出に尽力されました仁部富之助さんの記念館もあるそうですが今でも残っているのか不明です。仁部さんはその後、野鳥観察のほうに努力され著書を出されています。静岡県立図書館で見つけましたのでまた紹介します。


 ・・・・。余計がおおございますが話しの都合で・・・・。

 もう一つの資料からこの時代の冷害について紹介します。(戸苅義次著『鴻巣試験場物語』 農業技術)
 昭和9年鴻巣も冷夏で暑さも感じない。それだけに東北地方の冷害は強烈である。(※・平成の冷害の時、神奈川でも暑さを感じませんでした。そこで恐らく東北地方は冷害になると素人考えで思っていましたが、この記事を見て多少は関係があることがわかりました)

 略
 本省農試においても寺尾主任はじめ福家・片山・柿崎技師らの現地調査により、不良天候下にも正常生育の稲もあり、特に相隣る水田で片や良、片や不作の対照を見るなどの事実を見出し、前記の調査結果と併せて、凶作は冷害に適応する品種の欠如や選択の誤り、異常気象下栽培法の研究不足や普及の不十分等に基づくもので、これ等の方法が適正となればこのような災害を防止できるとの結論に達す。
 以上です。この後冷害実験室の設置等冷害研究が組織的に始まるわけです。
 
 

 さて、陸羽132号がこの冷害でどのように評価されたのか。作出者であり且つ農林省種芸部最高責任者である寺尾博博士はどう見られたのか書いてあります。(※・平成の冷害の時も実は同じことが言われていたのです。)

 

 この記事は平成23年7月17日に作成しました。

 先日、『竹崎嘉徳先生の思い出』と題した本を購入しました。

 目的は、寺尾博博士について何かかかれていないかと考えましたからです。今までの調査で竹崎博士と寺尾博士は非常に近い中であると見えました。


 私が見出しました寺尾博士唯一の追悼記事は『採集と飼育』の大島廣博士の記事です。(大島博士は寺尾博士の同級生)

 その記事の中に、竹崎さんの言葉が載っていました。抜書きします。
 
 先頃、松枝の農大の学長を辞めて京都に帰ってきた竹崎嘉徳君を訪ねた。これも同じ時代、同じ寄宿寮の飯を食った仲間の一人である。しんみりと寺尾君の訃を惜しんで語り合ったのだが、そのとき竹崎君が例の調子で、
 "まともな死に方をする筈のないあいつが、あのような幸福な大往生を遂げたことは、どうしても腑に落ちない"
 と、意味深長な事を言った。私の知らないepisodeが農学者同士の間に知られているものとみられる。

 以上です。

 私はこのepisodeを追っているわけです。(内心は・・・

 さて、その竹崎嘉徳先生の思い出に写真がありました。日本遺伝学会第1回大会の時の集合写真です。貴重です。寺尾先生がしっかりと写っております。

 

 この記事は平成23年7月10日に作成しました。

 寺尾博博士が亡くなられて今月(7月)の16日でちょうど50年になります。

 

 博士について調べておりますと、なぜ今まで寺尾博士の話がこの静岡で聞かれないのか不思議に思います。

 例えていうならば、『遠州に鈴木梅太郎あれば、駿河に寺尾博あり』と言われてもおかしくはありません。そのくらいの研究、業績をあげられた方であります。

農の理法 内容

 さて、この寺尾博士"品種の相対性"という言葉を残されております。博士が寄稿されました雑誌(農業及園芸等)にもいろいろな書き方でこの"品種の相対性"について説明されてました。
 
 『最高の品種は存在しない。あるのはその場所、その時期に適した品種があるだけだ』

 含蓄のある言葉です。私はこの言葉の応援を受けて現在素人育種を行っているわけでもあります。


 さて抜書きします。

 

 この記事は平成23年7月7日作成しました。

 ステックセニョールを沢山栽培していると、いろいろ面白い姿を発見することができます。

 F1種子ですので遺伝的には揃いがよいのですが、環境や樹勢など内外の要因で姿が変わってくるようです。

 こちらです、先ずは全体像から。

ステックセニョール.13.10.24.

 9月の台風で被害を受けて、先日剪定したものです。

 まだ株はしっかりしています。

 花房の中央が黄色くなっています。

 

 

 静岡市(駿河)が生んだこれまでの農学者の中で最高の方が寺尾博博士であります。


 寺尾博(てらお ひろし)博士の紹介

 聖一色のお生まれで静中より一高、東大農学部に進学されました。東大御卒業後、農事試験場に奉職し場長(第4代)まで務められました。

 東北地方の冷害対策に努力され、陸羽132号の作出、水稲冷害の生理学的研究では学士院賞が与えられました。

 戦後、参議院議員(緑風会)として農政、国立遺伝学研究所の設立に携わりました。その後、電力の農業利用に関しての事業に関係しました。

 昭和29年頃、増井清博士に助言され増井家禽育種研究所の設立のきっかけになりました。増井家禽育種研究所には、寺尾博士は亡くなるまで関係されました。

 昭和36年に逝去されました。享年77歳。今年で50年になります。

 
 私の(現在まで)調べた限りですが寺尾博士の残されたお仕事
 

 農事試験場陸羽支場にて日本で始めて純系淘汰法による育種を開始。在来品種愛国より陸羽20号選抜。この陸羽20号に同じく純系淘汰法にて選抜した亀の尾4号を交配し陸羽132号を作出。

 国立試験場の作物栽培試験に精密試験法を導入(当時種芸部主任)種芸・・・育種より栽培試験まで幅広く含む。
 

 昭和9年の東北大冷害を受け、翌10年より冷害対策試験を開始。総指揮を取る。・・・この結果が学士院賞となる。(稲の生理の授業で障害型、遅延型、混合型の冷害について教わりますがこの研究が元であります)

 水稲の室内育苗(箱育苗)技術と田植え機を結びつけ、現在に残る田植え法をプロデュースする。(このエピソードはまた紹介します。面白い話です)

 以上です。

 寺尾博士のお写真を拝見しますと・・・威厳があり軍司令官のような感じがします。博士の著書やお仕事を調べていますと、寺尾博士を刃物にたとえるならば鉞(まさかり)です。新たな技術、学問を切り開いていくには必須の方であると思います。

 

 この記事は平成23年7月1日に作成しました。

 諸事情がございまして駿河の生んだ天才農学者「寺尾博博士」の記事を削除しておりましたが、この度再開することとなりました。

 声援を下された方はこの方々でございます。

寺尾博を慕う3人.13.10.21.

 中央の方が、「西尾敏彦博士」

 左側の方が、「石原邦 博士」

 右側が・・・・・非常に緊張した表情をしている私です・・・・・。

 3人の年齢を合わせると、200歳を越えます。

 私が勝手に命名しております「寺尾博博士を慕う会」であります。

 この3人の中で唯一寺尾博士と面識がある方は「西尾敏彦博士」であります。

ロメインレタスの採種。

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 またまたロメインレタスの採種です!

 今度は1年分位の量を確保しなくてはなりません。

 いろいろと障害(主に人為的災害)がありましたが何とかこれだけロメインレタスを乾燥させました。

ロメインレタスの採種.13.10.20.

 よく乾燥しています。

 このくらいよく乾燥していれば保存のほうも問題ありません。

 この静岡市小坂の地にあう品種の作出には、先ず自家採種を行うことです。

 「基礎あって応用あり」であります。地道な活動の始まりです。

 10月14日に中耕を行い、16日に除草剤「プリグロックス」を散布したステックセニョールの圃場に雑草が生え始めました。

 早いです!。

 中耕後6日、除草剤散布後4日で雑草が発芽を始めました。

ステックセニョールの圃場.13.10.20.

 除草剤で大体草が枯れて綺麗になりました。

 使用した除草剤「プリグロックス」は茎葉処理のタイプで液が付着した部分のみが枯死します。(ラウンドアップと異なり浸透移行性はありません)。散布後すぐに効果をあらわすのでかけムラがすぐに判ります。もちろん土壌処理効果はありません。

 しかし、散布後の発芽が早すぎます。温度が低下してきたのであまり問題ないと考えていましたが、ここのところの雨が好環境を与えたのでしょう。もちろん温度も高いせいです。

 くそー!。

 また除草剤をかけなくてはいけません。

 雑草発芽の様子を記録しました。

 

 マクワウリの秋作は数年前より小規模ですが実験を続けてきました。

 実験内容は、営利栽培の障害となる問題点の発見です。問題が判れば解決の方法も理解できます。

 マクワウリの秋作はあまり行われておりません。理由は気温の低下です。高温を好むマクワウリが結実して収穫するまでに必要な温度が確保できない可能性がありました。この点は近年の温暖化のお陰で収穫までの必要温度を確保できるようであります。

 ただ、近年の異常気象の問題はもう一つあります。台風による風害であります。

 マクワウリに限らずスイカもキュウリも強風が最大の脅威であります。

 蔓が強風であおられるとてきめんに威勢が低下します。こうなると回復が非常に困難となります。低温期までの時間制限のある秋作にはこの強風による樹勢低下が最大の問題となります。

 9月の台風による強風被害を何とか乗り越えた露地マクワウリでしたが・・・・遂に10月の風害に白旗を揚げることとなりました。

 こちらです。

露地栽培マクワウリ.13.10.18.

 欠損があるところは9月の台風で枯死した株です。

 生き残りの株も一時は威勢を回復しましたが・・・・遂に及ぶところとなりませんでした。

 私の畑がある前の小坂川の土手には河津桜が植わっています。

 有志の方が手をかけてくれているお陰で大きくなり段々見ごたえがするようになりました。

 最近も花を咲かせました。

 気象災害があると花を持つのは桜の特性なのか?

 いつも季節外れの花に気がつくのは気象災害の後です。

 こちらがその花です。

季節外れの桜.13.10.13.

 時期の桜に比べると寂しいですが、なにか励まされるような感じがします。

 「残る桜、散る桜。残る桜も・・・・・・。」まあ、この辺にしておきます。

 もう一つ咲いています。

 幸いにそれほど被害が無く台風が通過しました。

 雨台風と言う感じでした。今の所目に付いた被害は・・・・・ハウスの外に出してあったアイスプラントの育苗箱です。発芽初めのアイスプラントをハウスの高温にさらさないように外に出してあったのですが、仕舞い忘れて強い雨に当たってしまいほぼ全滅の状態です。外見よりアイスプラントはデリケートにできています。(はあ)

 圃場で気になるところは今年水田をやめてステックセニョールを栽培してある水田転作園です。

 排水に問題があり、これが原因として枯死したステックセニョールがありました。一番の枯れた原因は台風による強風です。わずかでも排水溝を掘ってあったので命拾いをしていました。

 秋の補植のときに排水溝を拡張して対策としておりましたが、まだまだ不完全なようです。

 こちらが全景です。

ステックセニョール.13.10.16.

 畦作りは人力です!

 高畦にしないと水につかる恐れがあるのでかなり努力しています。そのためからだが大変で・・・・・まだ完全に園地に畦を作れずにいます。重粘土の畑はおこしにくい。

 右側の畝間には水があまり溜まっていません。左側になるほど悪くなっています。

 天気予報では、十年に1度といわれている(本当か?)大型台風が関東に上陸するそうです。

 この季節にまた台風か・・・・・、といぶかしくも思いますが自然のほうで何かが変化しているのでしょう。もうじたばたしません。なるようになれだ。

 さて、昨日中耕して液肥を灌注したステックセニョールに変化がでました。

 こちらです。

ステックセニョール.13.10.15.

 しゃきっと立ち上がりました。

 綺麗です。この姿勢が好きなので液肥を潅注します。(理由の一つ)

 よく見てみます。

 先日定植の完了したステックセニョールの圃場に来ました。

 台風で剥されたマルチの部分に草が生えてきたので中耕と除草を行い液肥を施用します。

 こちらがその畑です。

ステックセニョール圃場.13.10.14.

 通路には特に草が生えています。こちらは除草剤を使用します。

 畦の中には除草剤はかけられないので手取り除草です。別名「テデトール」です。

 マルチの穴から生えてきた草もついでに除草します。

 圃場のすべての草を手で取るわけではないのでかなり作業上は楽になっていますが・・・、手間がかかります。

 農業には気象災害が付き物であります。

 もちろん後片付けは・・・・・農家がやります。

 収入には関係ありません。ただ作業あるのみです。

 せっかく植えた苗が駄目になり補植を行い、張ったマルチがはがれてしまいこちらは張りなおしであります。

 その上、注文の野菜を増産するために新たに畑もこしらえなくてはなりません。収穫を止めれば収入にはならず・・・・・うーむ「進むも死、退くも死」の悩みどころであります。

 まあ、そんな悩みは日常茶飯事の百姓であります。

 また時間が取れたら紹介しますが、ハウスとなりの畑を新たに作りました。そこにも畦を立て葉物野菜を定植します。

 こちらです。

畦たて.13.10.13.

 今の所この畦に定植する葉物野菜はロメインレタスです。

 今後かなり増産いたします。

 破れたマルチを剥し、畦を延長してマルチを展張する準備をします。

 秋です。涼しくなってきました。

 ・・・・・・・・・・。

 つまり、仕事が沢山できる季節です。

 収穫・出荷に加えて秋作の準備を行わなくてはなりません。

 ただ植えるだけなら問題は少ないのですが、土作り(畑作り)からはじめなくてはいけない園地もあり、私大忙しの毎日でございます。

 いくら涼しくなってきても・・・・まだ温度は高く潅水にも行かなくてはなりません。

 

 うーん。

 百姓仕事は大変だ。(自然を知らない人間には決して理解できない世界であります)

 

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