2012年8月アーカイブ

 首山堡南方高地にあるロシア軍第1陣地に取り付く前に、ロシア軍の十字砲火にさらされ攻撃が一時頓挫しました。

 すでに中隊長2名が戦死しております。

 静岡連隊第1大隊の孤軍奮闘です。

 

 第3師団では左から、静岡34連隊、名古屋33連隊、名古屋6連隊、豊橋18連隊と並んで攻撃をかけました。

 敵陣肉薄しているのは、静岡連隊と名古屋6連隊だけでした。

 

 この模様を、「回顧30年 日露大戦を語る」 東京日日新聞社 昭和10年発行より、当時第6連隊の中隊長を勤めておられた松井石根大将の記録を紹介します。

 

 『そうこうしているうちに夜が明けた。

 見るというと右の方に第18連隊、左の方に第33連隊、その次に第34連隊がいるはずであるのに第18連隊も第33連隊も来ていないで、ずっと向うの崖の中腹に第34連隊の一部が噛り付いているのがわかった。

 即ちそれが橘大隊であった。

 橘大隊は緩斜面のところでしばしば逆襲を受けてやられたのだが、僕のところは非常な急斜面で彼我の距離が50mくらいしかなく、敵の話が聞こえるくらいだったから、敵が我らを突き落とそうと思えば容易であるのだが、地形があまりに急傾斜であったのと、友軍の第18連隊か何かが右の方から援護射撃を盛んにしてくれたため、敵はとうとう出て来れなかったので、それでわれわれは持ちこたえられたのである。』

 

 

橘周太大隊長.11.05.04. 

 上の写真は、長崎橘神社にあります「橘周太大隊長」の写真です。

 

 静岡連隊第1大隊は窮地に陥っていました。

 第1大隊と同じく左1線を任された第3大隊は暗夜のため道を見失い隣の高地に攻撃をかけていました。後続しているはずの第2大隊とは、こちらも暗夜のため連絡を失いました。

 この時は、撃ち減らされた第1大隊だけしかありませんでした。

 遂に橘大隊長、「突撃」の命を下します。

 明け方の薄暗い首山堡に、初めて突撃ラッパが鳴り響きます。

 今日が首山堡祭の日であります。

 現在行われているかどうかは不明ですが・・・・・。

 平成24年11月23日 板妻の普通科34連隊公報の方より、首山堡際は8月最終日曜日に行われていることをお知らせいただきました。

  

 108年前の今日、首山堡南方高地に対して静岡連隊が突撃をかけます。

 僅か5時間でこの首山堡は岳南健児(駿河人のこと)埋骨の地となるわけです。

 時系列的にまとめていきます。

 

 午前2時30分静岡連隊第1大隊は移動を開始します。

 大築第1中隊を右1線、安藤第3中隊を左1線

 青山第2中隊を右2線、中村第4中隊を左2線

 に配置して前進します。

 

 この時の道案内は昨晩より将校斥候の任についていた小原田軍曹です。

 

 全軍粛々と前進します。

 月明かりが反射するので小銃に着剣はしません。虫の音ににせた音色の笛で連絡を取ります。

 高地7合目附近に設けられた敵の第1塁まで、6,70m程の距離から突撃を開始します。

 時刻は午前4時です。

 静岡連隊の戦闘は、首山堡南方高地で行われました。

 この時の先陣は橘大隊長が率いる第1大隊です。もう一つの先陣である第3大隊は暗夜のため道を間違い隣の高地に攻撃をかけました。(南方高地の西側の高地)

 第2線(後続)の第2大隊はこちらも暗夜のため第1大隊と距離が離れてしまいました。

 

 当然ですが、なれぬ敵地でしかも暗夜(月は出ているが)では道を迷うのは必然です。

 このため払暁攻撃は橘大隊の単独攻撃となりました。

 この戦闘を詳細に物語ることが出きる方は「内田清一軍曹」であります。

 この内田軍曹の著書「ああ彼の赤い夕陽」を主に、公刊戦史等を肉付けして紹介します。

關谷銘次郎連隊長

 こちらは、關谷銘次郎連隊長のお孫さん(もちろん私よりかなり年齢は上の方です)より頂戴した、關谷連隊長の写真です。

 私が入手した中で一番綺麗に写っている写真です。

 

 内田軍曹の記録では、首山堡戦の始まりは關谷連隊長と橘大隊長の別れのシーンから入ります。

 もし、映画が造られるとすれば首山堡戦で一番重要な場面になるところです。

 本日は8月30日です。

 首山堡攻撃の前日です。

 総司令部からの命を受け、第2軍は攻撃命令を下します。

 第3師団は前進し首山堡より4,600mの距離にある土台子に陣を張ります。

 各連隊は更に前進し陣地構築と偵察を行います。

 敵の砲火の中での偵察です。

 天候は「雨」。

 

首山堡南方高地の全景.12.08.30. こちらは内田軍曹の著書「ああ彼の赤い夕陽」にありました首山堡南方高地の写真です。別名饅頭山とも呼ばれたようです。地図では148高地です。

 

 この陣地を取り囲むように、鉄条網、狼穽(尖ったくいが刺してある落とし穴)が配置してありました。そして、高地下に広がる畑は高粱が植えてあり、これをロシア軍は地上60~90cm位の部分で折り曲げており日本軍の進撃妨害と射界の清掃をおこなっておりました。

 ずいぶん念の入った準備を行っております。

 日本軍は30日に首山堡に接近し偵察、陣地構築、そして翌31日早朝夜襲(払暁攻撃か?)です。こちらは準備も何もあったものではありません。

 この準備不足は静岡連隊の将兵の血で補われたわけです。責任は総司令部の速戦にあります。

 この日の静岡連隊の様子を前掲の内田軍曹の著書より紹介します。 

 友人諸君相変わらずマニアックな記事で失礼。(なんでマニアックなんていわれるんだ?失礼な)

 

 日本が太平洋戦争で敗北するまで、8月31日は戦勝の記念日「首山堡祭」でした。

 この日を記念して素人ながら記録をまとめているだけでございます。(気持ちです・・・はい)

 

 さて、(満州軍)総司令部の判断と第2軍司令部の判断が大きく食い違います。

 この理由は、参謀の人間性はもちろん上げられますが、もう一つ騎兵の偵察報告を軽視する姿勢が総司令部の参謀(井口・松川)にありました。

 

 この騎兵報告に関して、秋山好古少将と松川大佐との間でやりとりがありました。

 「回顧30年 日露大戦を語る」 東京日日新聞社 昭和10年発行

 この本より抜粋します。

 しつこいようですがまた書きます。

 公刊戦史にも記述がありましたのであわせて紹介します。

 第2軍司令部は秋山支隊の報告により、ロシア軍が首山堡の防御陣地を固守することがわかっておりました。

 下の地図は29日のロシア軍の配備図です。

 

29日首山堡ロシア軍配備図.12.08.29. しかし、総司令部(井口・松川)は第2軍へ攻撃の命令を下します。

 この間のやりとりが記載されております。(軍司令官の状況判断p654~655)

 

首山堡の激戦(地図)

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 静岡連隊の壊滅の地であります「首山堡」です。

 首山堡の戦いに至る経緯はこちらの記事で、

『鞍山站、遼陽は男子埋骨の地となす。』首山堡戦(序)

 総司令部参謀井口・松川の判断ミスより、総司令部大山巌元帥の名前で攻撃命令が出ました。

 8月30日のことです。

 その首山堡の地図をまず紹介します。

首山堡陣地群.12.08.29.

 こちらの地図は「歩兵34連隊史」のものです。

 第3師団の左翼隊に位置します。

 左から、34連隊、33連隊、6連隊、18連隊です。

 34連隊の左翼には熊本第6師団があります。こちらの師団長大久保春野中将は遠州の神官出身です。

 攻撃目標は148と書かれた高地「首山堡南方陣地」です。

 『鞍山站(あんざんてん)、遼陽は男子埋骨の地となす。』この言葉は橘大隊長の手紙に書かれていた言葉です。

 8月20日前後に書かれた手紙に記されておりました。

 

 鞍山站の防御線では日露両軍の決戦が行われると将兵すべてが考えておりました。(鞍山站防御線は黄色で囲った部分です)

 それが・・・・・空振りです・・・・。

 

遼陽ロシア軍防御線.12.08.27.1. 以下、私の勝手な解釈です。 

 総司令部参謀井口・松川はあわてます。

 井口も松川も、なぜロシア軍がせっかく手間をかけて作ったものを簡単に手放すのか理解できなかったのです。(当然野戦軍の撃滅を目的とすれば陣地は1手段に過ぎないものです)

 一言で言えば貧乏性、もう少し突っ込むと相手の心が理解できない「自己中」野郎であります。

 

 鞍山站陣地を占拠した28日公刊戦史では次のように記載されています。

 『鞍山站附近の敵兵陣地を捨てて退却せしにより総司令官は敵の更に遼陽附近において真撃なる戦闘を交うるや否やを疑い前計画のごとく一度この線上に開進するか如きは徒に敵に余裕を与うるものとなし機を失せず追撃を継続し・・・(略)』

 つまり、敵に余裕を与えず追撃しろと言うことです。

 

 翌29日には、総司令部(井口・松川)の判断と第2軍参謀本部(落合参謀長)との間に軋轢が生まれます。

 この記録は、司馬遼さんが参考にした「機密日露戦史」から抜粋します。

日露戦争遼陽会戦(地図)

 静岡連隊の首山堡の戦いについて紹介しております。

 あまり細かいことばかり書いていても、書いている本人がわからなくなってくるくらい情報が多いので整理しながら記述していきます。

 このようなときに重宝なのが地図です。

 地図を見ながら資料を読んでいくとよく頭に入ります。(現地に行くことが最良ですが・・・)

 さて、こちらが私が入手した中で一番見やすい全体地図です。(「遼陽占領記念写真帳」 博文館 明治37年発行より)

 

遼陽全体図.12.08.27.2.

 これではあまりにも細かい記述が多すぎてよくわかりませんのでちょっと加工します。

 なお、この地図の最大の欠点は縮尺が記されていない点です。距離がわからない。

 そのため公刊戦史についていた地図も参考にします。

關谷銘次郎連隊長の戦死

 このブログでは、関谷銘次郎連隊長の記事が多くございます。

 一般的には橘中佐が有名で、いろいろな方(長崎)が記事を書いておいでです。

 關谷連隊長に関しては・・・・ほとんど目にしたことがありません。小伝すらありません。

 僅かに連隊長の人柄がうかがえる本は橋本万平著『地震学事始 : 開拓者・関谷清景の生涯』だけであります。(静岡連隊関係の資料以外で)

 

 明治36年静岡34連隊に着任された關谷連隊長であります。翌37年の出征まで僅か1年余で静岡連隊の将兵を精兵に変えた連隊長であります。

 

陸軍墓地關谷銘次郎墓.12.02.16.

 沓谷にあります静岡陸軍墓地の写真です。こちらの墓地は追悼碑でありますので御骨は入っておりません。

 真ん中が、關谷銘次郎連隊長

 左に、橘周太第1大隊大隊長

 右に、鈴木則柯第2大隊大隊長

 であります。

 首山堡の激戦1日で静岡連隊の将校は19名戦死しております。第3師団で他の連隊の戦死将校の数をあわせた数よりも多いのです。(他3連隊合計16名戦死)

 

 激戦であったことだけではなく、言葉を変えて言えば勇敢な指揮官が多かった連隊でありました。

 

 関谷銘次郎連隊長戦死の状況は、

 「日露戦争実記」にありました連隊旗手中山少尉の記述と「歩兵第34連隊誌」を中心に他の資料で肉付けしてまとめました。

 一般的に販売されています日露戦争関係の資料では・・・・全くわからないお話です。

 

 首山堡の激戦で全国にその名を轟かした「静岡34連隊」です。

 それまで、静岡(駿河)人は強兵として評価されたことはありません。

 だいたい、精鋭、精強といわれる部隊は、九州、四国、北陸、東北にあります。昔の名将が出てきた地域と重なります。(薩摩や米沢などなど)

 

 時代は変わっても人はそれほど変わるものではありません。私の祖父、親戚衆を見ていても(もちろん私自身も)、なぜ戦記に記されている通りあれほどの大激戦を成し遂げられたのか・・・不明です。

 

 首山堡の激戦時、集中砲火の中ロシア軍陣地に突入できた部隊は静岡連隊だけでした。この時の様子を第1大隊書記内田軍曹が書いております。

 『陣頭に大隊長の勇姿を見た我将兵は、一斉に奮い立った。或は「魅せられた」と言ったほうがこの場合適当かも知れない。中隊長は中隊の先頭に、小隊長は小隊の先頭に、皆勇躍して進む。敵は一層猛烈に射撃を加え始めた、銃口も裂けんばかりに熱火を浴びせる、我将兵は彼方でもバタリ、こっちでもバタリと続々倒れる。』

 

 橘大隊長の命令一下、愚直なほど素直に(他に表現が・・・)突撃していく静岡連隊の将兵の姿が浮かんできます。(この点非常に納得します)

 勇猛だの、強兵だの、全くそれらの評価とは無縁の駿河人が示した勇戦でありました。駿河の歴史始まって以来の記録です。

 

静岡連隊正門.12.08.27.

  上の写真は静岡連隊の正門です。現在辰巳やぐらがあります。

 右側に橘中佐の銅像が見えます。奥に關谷銘次郎連隊長の銅像が見えます。

 

 さて、この勇戦の記録を作りました静岡連隊の将兵の出身地を紹介します。

 こちらもかなり昔から調べ始めました。

 静岡連隊の戦いについては幼い頃祖父から聞いたことが始まりです。(年寄に育てられたので)

 出版されております資料には結構「誤認」「誤記」が見出せます。たぶん、著者自身(当事者ではない場合特に)、一次資料を調査しなかったのではないかと考えています。

 もちろん1つの資料では一面しか見えてこないので同時期のその他の資料も参考にします。

 こちらが静岡県立図書館に所蔵されております。公刊戦史「日露戦史」です。

 

日露戦史.12.04.05.

 日露戦争にかかわる人員、資材、医療などなど、日本軍が日露戦争で得たノウハウが詰まっています。

 作家「児島襄」さんの著書「日露戦争」はこれを基にしています。

 ただ、公刊戦史といえども(細かいところで)矛盾したところや足りない部分がが出てきますます。

 そこで同時期の個人戦記、新聞記事、雑誌記事などで補います。

 私が収集した資料はこちらです。

 増井博士の設立しました「(財)増井家禽育種研究所」は昭和49年に閉鎖されました。

 結論から申しますと、この増井家禽育種研究所閉鎖を持って日本の養鶏界はアメに白旗を揚げたことになります。

 日本最高峰の人材を集め、資材、設備、多額の研究費を用意できた研究所は日本ではここしかありませんでした。

 重ねて、日本の畜産学者が無能であったわけではないのです。

 私、素人ながら敗北の理由を考察しているところであります。

 こちらは、増井家禽育種研究所がありました農獣医学部附属圃場です。

農獣医学部附属圃場.11.01.10.

 

 「日本種鶏ふらん協会30年の歩み」にあります国産鶏普及協議会の概要という記事があります。

 こちらに日本で改良された種鶏を有する種鶏場の名前があります。3箇所です。

 (株)後藤ふらん場  岐阜県岐阜市

 (株)小松種鶏場   長野県松本市

 とりっこ倶楽部"ホシノ"  静岡県島田市

 たったこれだけです。

 日本で飼育されている採卵鶏における割合はおそらく1割に満たないと考えられます。

 西尾敏彦先生が後藤ふらん場について記事を書いておられます。

「青い眼の鶏」に立ち向った、後藤静一とその後継者の国産種鶏改良

 後藤さんと増井博士とは雑誌「畜産の研究」の座談会で一緒でした。

 長らくお待たせいたしました。

 ようやく銀泉マクワウリが収穫できました。

 ・・・・・・・残念ながら。

 先日降り続いた雨により大きな果実はほとんど裂果してしまいました・・・・・・。(涙)

 こちらは採種用に収穫したものです。

銀泉マクワウリ.12.08.23.

 しりのほうが痛んでいます。

 今年は直播です。果実も大きいものが収穫できました(雨が無ければ・・・・)

 それなりに数量がまとまりましたので販売を開始いたします。

 

 御利用お待ちしております。

 マクワウリ販売ページは下記のリンクよりどうぞ。

 

 

やまひこ農園のHPリニューアルしました。(4月20日.2015)

 

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 スイカの季節 トラコミュ 

  在来品種・伝統品種 トラコミュ

 しばらくスイカの記事を御無沙汰いたしました。

 我らが増井清博士の記事をまとめることに手間取りました・・・・。まだ、完成に程遠いところです。

 もう少ししたら、今度は日露戦争の遼陽会戦について書きますので・・・・(友人衆勘弁OTZ)

 

 さて、私の可愛い甥と姪、佑太君と花奈子ちゃんのスイカです。

 母親の仕事が忙しいので家に来たのは1ヶ月ぶりです。(おじちゃん涙目)

 早速スイカ実験園へ向かいます。(彼らが来るのをずーと待っておりました)

 

佑太とスイカ.12.08.19.

 本当は黄色いスイカ太陽と一緒に写すつもりでしたが、佑太が気に入ったのは「三笠」でした。(私と近いところがあるのか)

 将来は・・・・・。

 昭和13年から増井博士は東大と自宅で鶏の「近交系」と「雑種」の研究を行っておりました。(実用鶏作出の研究)

 アメリカに遅れること約2年です。

 昭和11年(1936)に、世界で最も優れた遺伝子を持った鶏の開発を目的にハイライン・インターナショナル社が設立されました。(「日本種鶏ふらん協会30年の歩み」より)

 

 この時期は、戦争中であります。昭和12年の第2次上海事変より泥沼化した戦闘は日中戦争にまで拡大しました。日本中で物資、人員が不足していました。

 そして昭和16年、太平洋戦争が始まりました。

 

 増井博士の耳にもアメリカで大規模な研究が行われている情報は入っていたのでしょう。しかし、状況は戦時下なので細々と研究を続けられました。

 昭和20年3月の東京大空襲で東京帝国大学農学部は被害を受けます。駒場の自宅に疎開させていた鶏以外は全滅。その後鶏舎再建しても野犬に襲われ・・・・。

 踏んだり蹴ったりと散々な状況でした。

 それでも、その生き残りの鶏の中に一筋の光明を見出すことができました。

 これらの鶏が後に作出される近交系交配種「増井1号」の親(先祖)となります。

 

 苦心の末、作出された「増井1号」は昭和28年より愛知県安城市の農家にて委託試験が始まりました。

 日本で始めて現場(農家)での試験が行われた鶏です。

 その増井1号の性能を紹介します。

 日本の養鶏の歴史を見ていきますと、明治末期から大正時代にかけて大量の支那卵が輸入され日本の養鶏業が立ち行かない事態となりました。

 (なぜ農学の授業で、昔から食料輸入により日本農業が苦境にあったことを教えないのか?。農地解放ばかりえらそうに・・・・。)

 このため日本政府は高率の関税をかけ支那卵の輸入を抑制し、逆に輸入飼料の関税を抑えました。この保護貿易がなかったら日本の養鶏は成立しませんでした。

 このことは、畜産関係者(学者、業者、官僚)すべてが理解しておりました。

 保護貿易にくわえて政府は、欧米から優良な種鶏を輸入して日本の鶏の改良を行うようになりました。これが、日本の鶏改良の始まりです。

 この辺の事情は、増井博士の著書にも記載されております。詳しくは、農事試験場場長を務められました安藤先生の「安藤広太郎回顧録」と岩住博士の「畜産昔話」でよくわかります。

 

 保護貿易のおかげで何とか息をつき発展を見た日本養鶏界ですが、先見のある方々は次の2点を考えておりました。

 1、実用的な多産鶏の合理的な作出方法。(ただ365鶏を作ると言う意味ではありません)

 2、保護貿易がなくなったときの日本養鶏業のありかた。

 以上2点は、養鶏だけでなくほかの畜産、農業にも当てはまるところがあります。

 

 なんとか日本養鶏界のおかれた状況を整理してみました。

 

 この状況下、実用的多産鶏の作出に取り組まれた方こそが、我らが「増井清」博士であります。決して初生雛雌雄鑑別の研究だけの方ではありません。

 日本動物遺伝学最高権威として鶏の育種に取り組みました。

 博士の行われた方法は2つ、「近交系の作成」と「雑種強勢の利用」です。

 

 365鶏とは、1年間365日休まず卵を産み続けることが出来た鶏のことです。

 これは、自称ではだめです。種鶏場のトラップネスト試験にて観察されたものです。(公の機関です)。産卵検定試験と呼びます。

 従いまして本物です。

 少なくとも300鶏でも非常に優秀といえます。

 この365鶏の鶏を世界で始めて作り出した方は岩手県の小農「橋本善太」さんです。

 昭和14年のことだそうです。

 この橋本善太さんは増井博士の著書にも度々登場してきます。博士に評価された一流の養鶏家であります。

 

365鶏では無い鶏.09.04.18. 上の写真は「365鶏」とは無関係の青い目の鶏であります。

 

 当時(戦前)の養鶏雑誌では350鶏の鶏ができたというとその種鶏場はもとより、その鶏を出した、ふらん場、ふか場、養鶏場のよい宣伝になりました。

 当時の記事をコピーしたのですが・・・・あいにく見つからなかったので・・・・。

 実にどうだといわんばかりの太文字で書かれた広告は・・・・面白いです。

 養鶏場では、この350鶏を作出することが宣伝であり、この350鶏からできた子供がまた良い値で売れたわけです。

 

 このヒナの売れ行きを左右する350鶏ですが、これにけちをつけた方がおりました。

 もちろん当人は学理的な観点より真実を述べたまでであります。

 

 その方は・・・我らが「増井清」博士であります。

 

 さすがは、「天下のご意見番」石川千代松博士の一番弟子であります。(こちらは私が勝手にそう思っているだけです)

 増井博士の論を紹介します。

 夏ですが怪談話ではありません。

 「青い目の鶏」とは、アメリカ(欧米)より輸入された種鶏から増やされた採卵鶏の事を指します。

 外国生まれの親から生まれた鶏です。

 

 ・・・・・・・・。

 それがどうした?。といわれそうですが、農学を真面目に勉強してきた者からみると非常にまずい話です。(理学も含まれるかなあ)

 石川千代松先生の言葉を借りると、「不都合」であります。

青い目の鶏09.08.04. 写真では赤い目ですが・・・・・。

 なぜ、「青い目の鶏」(輸入種鶏)が不都合であるか、増井博士を始め多くの研究者、識者が雑誌や新聞で述べております。(昭和30年代の畜産関係の雑誌には多く見られます)

 これらをまとめますと、

 1、外貨の流出

 2、飼料の輸入。

 3、肥料の輸入。

 簡単に以上3点が挙げられます。

 こちらを説明してまいります。(いろいろ資料はございますが主に増井清博士の著書「鶏の改良と繁殖」を参考にいたしました)

 

 増井博士には2人の師がおります。

 お一人は、日本生物学の草分けの一人「石川千代松」博士であります。

 もうお一方は、ドイツカイザーウィルヘルム研究所所長を勤められました『マイマイガの間性の研究』で高名な「リヒャルト・ゴルトシュミット」博士であります。

 こちらのゴルトシュミット博士については、増井博士他の方が数多く業績、思い出について雑誌「遺伝」や「採集と飼育」等に寄稿されております。増井博士の寄稿が一番多いです。(弟子ですから)

 又、建部民雄さんが「ゴルトシュミット」正、続、続々と3冊私家版にて出版されております。こちらはほぼ入手不可能でありまして、静岡では清水図書館に所蔵されております。

 

 昭和11年のドイツで行われた世界家禽会議で、増井博士は議長国ドイツより招待を受け特別講演として「初生雛雌雄鑑別」について発表されました。

 当然、誰が考えても栄光の時に違いはありません。どの研究者もあこがれるのでしょうが、世界から注目される研究者は数えるほどしかいません。

 維新以来、欧米諸国から遅れた国と思われて来た日本が賞賛(尊敬)の目でみられた時はこれが初めてでしょう。

 

 最高のスポットライトを浴びた増井博士ですが、心中愉快とはいえないことがありました。

 それは、この昭和11年(1936年)に増井博士の師「ゴルトシュミット博士」がアメリカへ亡命されるからです。

 そうです、時のドイツ最高権力者はヒトラー総統であります。ユダヤ人のゴルトシュミット博士は追放されました。1933年より危惧されてきた事態が現実化しました。

 

 増井博士の寄稿された記事なども2年前より収集しておりますが、さすがにすべて手元におくことが出来ずにおります。

 特に大正時代には関東大震災、昭和には東京大空襲と、貴重な資料が焼かれてしまう事件が起こっております。

 戦後の資料は比較的楽に収集できますが、戦前のものは・・・・・なかなか骨です。

 この資料は農業技術史を専門とされております、とある方より頂きました。

 昭和14年発行された雑誌「養鶏」に増井清博士が寄稿された記事であります。題名は「雌雄鑑別研究当時の回顧と隠れたる恩人」です。

 こちらは記事にある写真です。

雌雄鑑別研究恩人.bmp

 非常に見にくい写真で失礼をいたします。

 右より、余語彦三郎氏、石川千代松博士、増井清博士であります。

 この記事が書かれた年は昭和14年です。ドイツで行われた世界家禽会議より3年が経過しております。世界各国が鑑別師の派遣をもとめてきた時です。この年36名の鑑別師が欧米へ派遣されました。

 写真の余語さんがその海外派遣(アメリカ)の第1号であります。当時最年少の天才鑑別師と評された方です。この派遣の年は昭和8年です。この余語さんの日本人鑑別師初の海外派遣に関して、写真中央の石川千代松博士がアメリカ各所の大学、研究所に連絡されたようです。

 石川千代松博士はこの2年後昭和10年に亡くなります。この時には18名の鑑別師が海外に派遣されておりました。僅かな期間で世界中より認められました。

 

 なお、この余語彦三郎さんはフィリッピンにて戦死されます。

 大正14年東京青山会館において開催された第1回日本畜産学会において発表された『初生雛雌雄鑑別の研究』でありますが、この時には誰も相手にする人は居なかったようです。

 昭和初期にかけて初生雛鑑別の技術については懐疑的な方が大半であったことは想像できます。そうなればこの研究が開始された年に関心が集まるのは、当然初生雛鑑別技術が有名になって後の話です。

 

 理論的にはこの時の論文で完成しておりますが、実際に行うべき技術的な点でまだ足りない部分が多くありました。基礎研究と応用研究の2種類あるのと同じように一つの論文ですべてを満足させることは無理です。特に今まで(鶏で)着目されていなかった退化交尾器を視認する方法ですからデータが多く必要になってきます。

 

 初生雛雌雄鑑別の研究が有名になるのは昭和7年です。

 「生殖突起の形態並びに統計的研究並びに雌雄鑑別方法についての一考察」と題しました論文からであります。こちらの研究は橋本重郎さんとの共同研究です。

 当時既に職業としておりました鑑別師に対して福音でした。

 感に頼る部分が多くあった鑑別ですがこの研究でより科学的になり100%鑑別が可能となりました。

 こちらが「雌雄鑑別てほどき」に記載されていた増井博士の研究された分類です。

生殖突起の形式.12.08.13.

 昭和11年ドイツ、ライプチヒにて行われた世界家禽会議に発表された特別講演はこれが基になっております。

 初生雛雌雄鑑別の研究も多くの方の協力と理解があった上で最初の論文発表より7年かかって世界的な鑑別技術にまで昇格したようです。

 さて、俄然注目が集まってまいりますと多くの方からインタビューや寄稿を求められるようになってきます。こうなってきますと初めて初生雛鑑別の研究を始めた年が関心を持たれるわけです。

 一般的には大正12年といわれていますが・・・・・実は。

 久々のアップでございます。最近体が大変で・・・・何とか生きている状態であったので遅くなりました。

 

 初生雛鑑別について調べ始めて・・・・びっくりしたことが。

 この初生雛鑑別の論文が発表された大正14年4月の第1回日本畜産学会大会においてほぼ無視されておりました。

 「日本独自の技術である初生雛鑑別!」なんて口にはしておりますが最初はこんなものでありました。この時、この技術こそ将来養鶏界に役立つと関心を示した方が「小島学」さんです。この方は「初生雛鑑別実用化の父」と呼ばれるようになりました。

 この初生雛鑑別技術に対して当初畜産界がとった行動こそ日本的といっては日本的であります。そのほか舶来の技術、理論に対しては無批判で受け入れる反面、日本人学者の研究に対しては無条件で批判的です。

 このことを書き残された方は遠州の鈴木梅太郎博士の弟子であります「波多野正」博士であります。(畜産の研究2巻6号より抜粋)

 「大正13年頃千葉の畜産試験場で増井先生、橋本先生、大野氏の私達一緒に研究しておりましたが、増井先生は初生雛の雌雄鑑別についてしらべておられ、その結果を畜産学会で発表されたのですが何の反響もありませんでした。」

 千葉の畜産試験場にて一緒に研究をされていた波多野博士の言葉です。

 ・・・・・・・・・・。

 増井博士は、学理的なことや恩人への感謝の言葉以外は書き残されておられませんでしたので、当初から日本養鶏界が待ちに待っていた待望の技術と簡単に考えておりましたがそうではなかったようです。

 なお、この初生雛鑑別の実用化に取り組んだ小島学さんは周囲の方から変人、キチ○○扱いされたようです。

 

 さて、この初生雛雌雄鑑別(ほぼ正式には)技術について、まだ当時では革新的な点がありました。これは発表者の肩書きを見るとわかります。

 本日増井博士の命日であります。

 お墓のあります、静岡市駿河区小坂の瑞応寺に向かいます。

 もちろんお供えになる物を持参します。

 ・・・・・・・・・・・。

 ろくなものがない!。

 買ってくれば見掛けは整いますが、そういうことを喜ばない方であります。この点を踏まえると、私が苦労してつくった物でなくては意味が無い。

 しかし、まだこれと言った品種も出来ていないし、これという花のあるものも無いし・・・・、と朝から考え、これにしました。

メロン日本一ゴールド.12.08.06.

 神田育種農場作出の日本一ゴールドです。

 右側の物を持っていきました。重さ3,6kgです。

 ・・・・・・・なぜこんな馬鹿でかいメロンが取れたのか。周りではカボチャと呼ばれております。

 これしか関心を引きそうな品が無いので持参します。

 スイカの実験園は草が生え、蔓が枯れた株もあります。

 その辺に大きなスイカがごろごろと・・・・転がっております。

 小さなものも、生長中のものもまだあります。生き残ったスイカは結構丈夫です。

 梅雨明けの高温期初期が境目でしょうか。

 

 こちらが太陽です。

スイカ太陽.12.08.01.

 綺麗な黄色が出ていますが、まだ緑が残っています。

 今年は2株で12個スイカができています。(もちろんそれだけの面積をとっています)

 1個割ってしまったので食べましたが・・・・果皮に緑がかなり残っていたのに食べごろでした。

 今年は・・・・どうしたんだ?

 初めての出来事に・・・・内心混乱が・・・・・。

 採種用のスイカ「三笠」が盗難にあいました。

 なぜ、こんなものを盗むんだ?

 私には価値があっても、その他の皆様方にはゴミ同然です。

 夕方除草剤をまいていて気がつきました。

スイカの盗難.12.08.03.

 淋しくなった蔓・・・・です。

 農作物の盗難自体は昔からよくありました。私の園地でも、トマトなどもやられました。どこにも育ちが悪い人間は居るものです。

 食糧危機の時代ならいざ知らず・・・・・この時代でこのようなことをする奴は・・・・・よほど親から愛されていない証拠といえます。

 出ました!

 交雑したマクワウリ(ニューメロン)です。

 これを待っていたのです。そのための実験園です。

交雑ニューメロン.12.08.01.

 よく変り種の植物が出てくると・・・・「突然変異だ!」と口にする方がいますが、あまり例はありません。

 だいたい、要素欠乏か、薬害の被害を受けた植物を見間違えたものが多数です。

 こちらは突然変異ではなく「交雑」です。

 ただ、お父さんは誰?(・・・・青年の教育上あまり宜しくない言葉です)

 ついに1年越しに試食にこぎつけました。

 苦労の結晶、「三笠」です。

 昨年は9月の台風で全滅、今年は6月の台風で踏み潰されたようになりその後の生育が心配になりましたが、どうやら日本海海戦の旗艦の名を持つだけに打たれ強かったようです。(・・・・・すまん。)

 味については、奈良農試に問い合わせた時に「肉質は粘質であまり美味しくない」との返答を頂きました。もちろん試験場の方は食べたことがありません。伝聞です。昔の資料では、肉質優良で食味良好とあります。(もちろんその時代の品種と比べてです)

 ここにその答えがあります。

スイカ在来品種「三笠」.12.07.29.

 マジックで収穫日を記載しておきました。販売用ではないのでその点気が楽です。

 旭大和と同じく縞なしスイカです。

 昨年も栽培しておりましたノーネットメロン「日本一ゴールド」です。

 ・・・・「日本一メロン」と誤認していました、正式には「日本一ゴールド」です。

 収穫時期もわかりやすい色合いで果肉部が多く、食味・糖度共に良好と言う、私お気に入りの品種です。

 何が一番よいかと言うと、収穫時期の目安がついて、生育がよく、果実の品質が特別な方法をとらなくてもそれなりによいことです。

 ただ、育種もとの「神田育種農場」さんに問い合わせたところ、「露地栽培は難しいです」とのことです。

 基本的に路地メロンの認識でおりました私は・・・・・でありました。

 理由は、おそらく収穫末期に果実表面にひび割れを生じる可能性が高くなることでしょうか。

 確実に成熟させる為に果皮の色合いが濃い黄色になるまでおいておきます。この時につい置き過ぎてひび割れを生じてしま��%

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