『思い出す8月31日』・・・その2 関谷連隊長 (静岡新聞記事)

| コメント(0) | トラックバック(0)
副題・自ら死の突撃決行 部下に温情・関谷連隊長
 昭和33年8月29日 静岡新聞夕刊

 関谷銘次郎連隊長は、橘中佐のお名前に隠れてあまり知られていない方です。

 また、項を改めて紹介しますが、岐阜県大垣の方です。
 もちろん士族です。

 

静岡新聞 關谷連隊長 元部下の生の声が記録されております。関谷連隊長の貴重な資料であります。(關谷連隊長の評価は非常に高いのですが、記録がほとんど残されていない方であります。現在調査中です。)


 

 基本的にはそのまま転記ですが、タイプが下手な為不要と思われる部分は(ほとんどありませんが)除きます。また、誤認による誤記や、字が判別しない場合○○とします、御容赦ください。

 

 この記事は平成23年8月21日に作成しました。

司会者
 皆さんは80を越えた方々ですが、今お目にかかってお話を聞いていますと、当時の若い頃の盛んな意気がうつぽつとうかがわれます。外岡さんは85歳だというのに今朝5時に下田から駆けつけられ、内田さんは病中だというのに、吉原から昨晩のうちに静岡に出られ、岡本さん、村松さんは東京から、白石さんは幡豆から今おつきになったばかりです。全く壮者をしのぐのに驚きました。


岡本氏
 ここに来てから吉村さんから君は何期だといわれましたが私は32年兵だと答えました。明治32年に軍隊に入った当時の青年です。「春爛漫の花の色」「都の空に東風ふきて」とか「ああ玉杯に花うけて」という一高の寮歌はみな32,3年ごろに作られたもので、盛んに愛唱したものです。何という気品の高い、骨のある歌でしょう。あの歌が当時の若いものの気持ちだったのです。私の区隊長に菊池武夫という精神家がありましたが大いに積極果敢を強調し、最後には必ず「乃公(注、オレ)がやらんで誰がやる」といわれました。こまかいことはみな忘れたが「乃公がやらんで誰がやる」だけが頭にこびりつき、何かにぶち当たると「乃公がやらんで誰がやる」という気になりました。


吉村氏
 その通り・・・・・。今日は年寄りの集まりでなく、20才30才の当時の青年が話しをしているということにしてもらいましょう。


楠氏
 私も33年兵です。満期で除隊して小学校の教師をしていましたが、小国民まで意気盛んで臥薪嘗胆が合言葉でした。宣戦が布告されると、近衛師団や仙台師団が動員されて、毎日毎日生徒を連れて駅に見送りましたが、生徒が「先生はいつ行く」という。私も早く召集令状が来ないものかと第3師団の動員が遅いのを恨んだものです。


内田氏
 2月5日が国交断絶2月10日に宣戦詔勅、3月6日に第3師団に動員が下令せられました。大島義昌師団長や児玉恕忠旅団長が連隊に来られ、関谷大佐が全連隊を営庭に集め、陸海軍に賜った勅語と、師団長の奉答が伝達されたことはありありと目に浮かびます。今は護国神社に残されたあの集会所は岳南健児の夢の跡、英霊の魂のこる唯一の記念物です。動員例が伝達されたとき、全隊員は「とうとう来たぞ。うわー」とどよめきわたりました。


村松氏
 関谷連隊長は3年間手塩にかけた岳南勇士を率いて大命を奉じられたのです。ドイツに駐在された陸軍の新知識であって、人格の高い厳格のうちにも非常に温情の深い方でした形式ばった命令だ会報だといって副官が書く中隊の曹長を集めて伝達されるようなことはされず、昼食をあの集会所で一緒にしたあと「連隊命令!」といわれて連隊長自ら明日の演習はこれこれと命令せられ、翌日、雨が降っているので各中隊は整列しようかどうかと支度していると、連隊長が営庭の真ん中に出て来て「整列!」とどなる。各中隊はあわてて飛び出す。連隊長が先頭に立って営門を出て少し行軍したかと思うと「今日は雨で演習はやらない。これで今日は終わり。帰って武器の手入れをして休め!」という風でした。いったん自分で命令を出したことは雨が降っても矢が降っても必ずやる。しかしびしょぬれになって効果のない演習をしては部下が可哀そうだから止めるという。徹底的だが、またさっぱりした方でした。連隊長は断然光っていましたね。


内田氏
 動員が下って、下のものはわいわい騒いで、乃公(注、おれ)は残るのはいやだ、野戦に行かせてくれといきり立ちました。私もその一人で、身体が悪いから補充隊に残れと軍医に診断されたのですが、残るくらいなら死んだ方がましだと考え安藤副官にせがみ、安藤副官のおかげで大隊書記として連れて行ってもらうようになり、こおどりして喜んだものです。しかし上の方はさすがに冷静で、着々と出師の準備をされていました。


村松氏
 連隊長は出発のときに側近のものに「このうち俺は一体どれだけの人の生命を助けて返すことが出来るだろうか」といわれたのです。人一倍部下に情け深い連隊長が、容易ならぬ大敵を向うに回す戦争が、どんな苦戦になるかと言うことを先刻承知され、思わずもらされた言葉でしょう。連隊の将兵は、異口同音、こんな偉い連隊長に率いられて戦争に行くことは実に幸福だと申したのです。


馬淵氏
 今日は関谷さんのことを物語り得る方は貴方ですからもう少しどうぞ。


村松氏
 5月5日に連隊は猴兎石というところに上陸しました。長い航海で将兵は綿のように疲れきっていました。上陸するとそこに第2軍の吉橋参謀がいて連隊長と何か話しをしていられたが、連隊長は疲れ切った連隊に緊急集合を命ぜられ、夜行軍で普蘭店に急行しました。6日の明け方、東清鉄道に出て直ちに爆破の準備をしました。そこへ旅順の方から急行列車が来たので急いで点火したのですが、汽車が通りすぎてから爆発しました。汽車は一寸普蘭店の駅に止まったので、これを射撃しようとしたら、窓という窓に赤十字の旗を出したので、射撃一寸待てといっている間に、汽車は赤十字の旗を振りながら、級速度で北に逃げました。あとでこの列車には、ロシアの極東総督アレキシーフが乗っていたとことを聞き、じだんだを踏んだのです。それにしても赤十字旗を使って逃げるとは卑劣の限り国際法の無視です。


白石氏
 国際法といえば私どもは戦時国際法をやかましくいわれ、陸軍手帳には国際法が載っており、航海中も国際法を研究したものです。捕虜の取り扱いなどもこの時に知りました。列国環視の中で堂々と戦う意気込みでした。


村松氏 
 普蘭店で敵の動脈を断ち切ったのは大成功でしたがアレキシーフを逃したことは千載の恨事・・・・。獲物は一人のロシア兵でしたが、白石さんのいわれる国際法の知識でやりましたはじめてロシア兵を見たのでいろいろナンセンスがありましたしかし一つ撲るでもなく軍にとどけたのですが、軍司令部ではこの一人の捕虜を非常に喜びました。関谷さんは戦地に行ってから斥候の報告は必ず自ら直接聞き「ご苦労だった」といたわられました。
 
 どんな夜中で、疲れて寝んで居られるときでも、斥候が帰って来たら起きて形をあらため報告を聞かれました。危険を冒し苦労して来た斥候も関谷さんから「ご苦労」といわれるともう連隊長のためなら火の中でも水の中でもいとわぬという気持ちになりました。

 戦場では自分の立たれるところが、常に敵の弾丸の集まるところになるので、軍旗のことを一番心配されました。当時の旗手中山少尉は連隊長を親のように考えていたのですが、首山堡の激戦で夜襲が成功せず、前線が苦戦となるや非常な決心をされ中山少尉に軍旗を奉じて隣の森本連隊(33連隊、そこに児玉旅団の司令部があった)に行けと命ぜられました。中山少尉は連隊長のそばを去るに忍びず、渋っていると「軍旗を守れ」と大喝去れました。中山少尉が涙ながらに去ると軍旗を見送られて、これで安心というので自ら死の突撃を決行されたのです。連隊長はこのときすでに敵弾を受けられ、傷重く、そばにいた書記がしきりにいさめて止めたのですが「オレは行く」「和田オレを背負って頂上まで連れて行ってくれ」といわれました。従卒の和田平作が負って前進したのですが敵弾が飛び来たってついに連隊長の生命を奪ったのです。和田従卒は泣く泣く亡き骸を背負って山を降りたのです。

 一方中山旗手は連隊長とわかれて前進すると間もなく敵弾に当って倒れ、護旗兵もやられたのですが、通りかかった負傷の和田順雄少尉が機転をきかせ、旗とご紋章を旗ざおからはずし腰に巻きつけて向陽寺にたどりついたのです。


 以上です。これで第2部終了です。

 

やまひこ農園のHPリニューアルしました。(4月20日.2015)

 

やまひこ農園HPトップページ

やまひこ農園トマト栽培

やまひこ農園まくわうり栽培

やまひこ農園スイカ栽培

お問い合わせフォーム

 

ナチュラルライフブログ村です。是非クリックしてください

 静岡ブログ村へのリンクです! クリックお願いします。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://yamahiko-farm.jp/mt/cgi-bin/mt-tb.cgi/68

コメントする

カテゴリ

ウェブページ

Powered by Movable Type 5.02

このブログ記事について

このページは、yamahiko-farmが2012年3月18日 17:52に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「『思い出す8月31日』・・・その1 (静岡新聞記事)」です。

次のブログ記事は「『思い出す8月31日』・・・その3 橘大隊長 (静岡新聞記事)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。