遺伝研予定地の農地問題

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 現在でも農地に何かが出来る時には必ずおきる問題です。この時は昭和22年です。あの現在でも尾を引く「農地解放」の時代です。

 今では考えられないかもしれませんが、この時解放を受ける方々の権利が異常に強く、(あちらが)気に入らないと地主が留置所にぶち込まれた時代です。


 竹中博士の記録です。
 この敷地は戦争末期に中島航空機株式会社が、軍の力で強制的に収用したものだから、元の所有者に開放されたいという運動が、かねて起りかかっていたのであった。そこでそれ等については県庁、市役所、文部省、商工省と密に連絡して手当てを行っていたのであったが、遂に8月23日、予算編成に当たって候補地視察に赴いた一行に対し、プラカードをもった農民100名ばかりが阻止運動を起こしたのであった。(後略)


 候補地視察に赴いた一行には増井清博士がおいででした。増井博士はこの時彼らと始めての話し合いを行います。遺伝研30年記念誌に記録があります。宮山平八郎事務官の記録と一緒に紹介します。


 現在とは時代が違います。つい2年前までドンパチをやっていたのです。反対運動を起こしている農民の何人かは戦地から帰ってきた者です。命のやりとりをしてきたものは迫力が違います。そういった100名を相手に増井博士他数名で話し合いに行かれたわけです。
 
 度胸がなくては学者は務まらない・・・のか。

 

 この記事は平成23年11月30年に作成しました。

宮山事務官の記録です。昭和22年8月23日です
 
 研究所側より増井、和田の両先生、文部省より3名のものが三島市の車で中島飛行機の谷田工場へ走った。途中錦田の農業会の前にプラカードを持った一群の農民が見られ、路傍の電柱には「土地を返せ」だの「おれたちの生命線」などと書いた各種のポスターが車窓に散見された。迂闊にもその時はこれらの動きが、今日われわれが現地視察にやってきたのを機会に開催されているということに気が付かなかった。

 
 ・・・「おれたちの生命線」。この標語どこかで見たような気がすると思ったら、「満州は日本の生命線」という言葉が思い当たりました。やはりそういう時代であります。

 なお、宮山平八郎事務官はただのお役人ではありません。あのノモンハンからの帰還兵(戦傷)です。名誉の戦傷であります。九州男児であります。当然腹は据わっております。(多分この一連の交渉は宮山さんしか出来なかったと思います)


 宮山事務官の記録は続きます。
 
 錦田農業会から電話があって今から農民が市役所へデモを行うというのである。話ならこちらから出かけて聞くからデモには及ばないと返事をして再び車を駆って錦田農業会の二階の一室で行われた。こちらからは増井先生に役所関係2名それに市長及び助役が同行された。先方は地区の農地委員及び地元農民100名余り、話はつまり7月31日付け商工省総務局長より富士産業(中島飛行機)社長に宛てた「三島谷田工場の遊休施設転用に関する件」という通知文が全く天下り的であり、地元農民の意向を無視するものであるというのである。戦争の犠牲において取られた土地であるから今となっては当然元の所有者に開放さるべきであるというのがその主張である。先方に取って見れば増井先生にしてもわれわれにしても直接の交渉としては的違いであったが、当方より遺伝学研究所の仕事の内容とその重要性を述べ、その日はお互いの見解言分を了解する程度で打ち切りとなった。


 この文を見る限り宮山事務官は同席されていたようです。


 増井博士の記録です。(遺伝研30年記念誌)

 関係官庁のお役人5名(?)が候補地の視察に三島市へ来られて、農民代表者とお役人とが会合し、交渉が行われた。筆者は研究所設立委員とし座長となって会議を進めた。
 
 会場は蓆を旗にして100名余の農民が威嚇包囲し、穏やかならぬ会議であった。農民の反感はお役人に集まり、筆者に対しては至って穏やかであった。筆者は研究所ができると農産物の品質改良にも力を入れる。決して農家の方々にとって不利にはならない。農家の方々は研究成果を自由に利用する事ができると説得した。農家の方々は筆者に対しては至って好意を持たれ、会議も何事もなく終了して事務所に引き上げると事務室には筆者より一足早く、数名の農家の方々が待ち合わせていて、先生のお話でよく研究所の仕事の内容を理解することができたと感謝して帰られた。農家の方々がお役人に反感を持つお陰で、筆者の考えが快く受け入れられたように感じた。(終)


  

 増井博士の少ない記録から推察することも失礼ではありますが、この時に増井博士は遺伝研ができる事を確信されたのではないでしょうか。いきり立つ100名の中から僅か数名とはいえ博士の話に共感しわざわざ礼を述べに来ることから、必ず地元には受け入れられると判断されたと思います。

 
 その後も用地問題は続きます。もちろん博士は御存知です。しかし、農民に受け入れられるという確信は揺るがなかった、だから30年経ってからの回想記にも最初の会合の時の事を文にされたと、私は考えます。

 
 最後に、遺伝研30周年記念誌の増井博士の回想より
 
 筆者が設立運動に携わったのは、昭和21年4月遺伝学会会長としてであった。この時学会に研究所設立準備委員会を設けて、すでに話しのまとまっている線に沿って活動したに過ぎないのである。


 

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このページは、yamahiko-farmが2012年3月17日 18:25に書いたブログ記事です。

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