小冊子 「国立遺伝学研究所設立の急務」

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 この小冊子は、小熊捍博士が作成されたものです。20pの小冊子です。こちらは私も入手することが出来ませんでした。静岡県立図書館はもちろん大学図書館にも蔵書がありませんでした。唯一国立国会図書館にはありました。まだ、未見です。


 昭和14年、第12回日本遺伝学会の役員会において小熊博士が国立遺伝学研究所設立の緊要なるを説かれ、役員一同協力して、この設立に邁進する事を申し合わせた。


 同年12月、小熊博士はこの小冊子を作成し、議会の要人に設立の要を説かれました。特に笠井重治代議士は熱意を持って各方面に働きかけ、その結果議会の質問にまで進み、時の総理大臣 米内 光政予備役海軍大将より考慮するとの答弁を得た。

と、竹中博士は記録されております。


 しかしこの時期は、昭和12年に起った支那事変が泥沼化し日中戦争にまで発展しておりました。当時の首相近衛文麿の思慮の無い一言「帝國政府は爾後国民政府を対手とせず」の声明により終りの無い戦いへと邁進しました。

 軍事予算は青天井となり、他に振り向ける予算が縮小されました。陸軍の予算の半分は弾代として中国戦線に消えていきました。文人が終わらなくさせた戦いでした。上海陣地群突破戦で数千人の死傷者を出した静岡連隊の苦戦も報われなくなりました。

 
 貴重な人命と膨大な予算が中国大陸に吸い込まれていきました。

 国に予算無く、国民の心に余裕の無い状況でありましたが、小熊博士以下賛同された博士方は運動を続けました。

 この記事は平成23年10月31日に作成しました。

 昭和15年8月、第13回日本遺伝学会大会では、全会一致をもって国立遺伝学研究所設立へ邁進するという決議がなされ、直ちに同学会内に研究所創立委員会が作られました。

 
 昭和16年6月、日本遺伝学会は「遺伝学の振興をめざして」と題する小冊子をつくり、それを各方面に配布し、重ねて遺伝学研究所設立を説きました。

 第4特別委員会も同年4月に設置され体制が整ってきたところですが・・・。


 同年12月8日、大日本帝国海軍の機動部隊による、ハワイ真珠湾奇襲攻撃が行われました。日米開戦です。

 当時でもインテリなら戦いの結末は予見できたでしょう。しかし、この遺伝学研究所設立にかかわった多くの先生方は、自分の子供、教え子を戦場に送らなくてはならない世代でありました。

 辛く情けない4年間を堪える事になりました。


 遺伝学研究所設立運動再開は昭和20年11月に再開されました。

 

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このページは、yamahiko-farmが2012年3月16日 21:00に書いたブログ記事です。

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