2012年3月アーカイブ

 昭和43年11月18日に発行されました『静岡市産業百年物語』の酒類の項に満寿一酒造、増井房吉さんのお名前が載っております。

 

 この増井房吉さんは小坂で生まれました。増井清博士のお兄さんであります。私の家の4代前の先祖と仲がよかった方です。私の曽々祖父であります。(・・・・百年も前の話です)

 増井浩二さんのお通夜、お葬式の時飾ってあった屏風に張ってあった賞状はこの増井房吉さんが受けたものです。

 "全国優勝通算3回"という快挙を成し遂げた酒蔵が満寿一酒造さんです。

 

 聖一色の寺尾昌太郎、博の親子は2代で後世に残る偉業を残されましたが、満寿一さんでも増井房吉、清の兄弟で偉業をなしたといえます。

 どうも優秀な人材は1人では現れないようです。

 

 満寿一さんは4月一杯で営業を終了します。

 ・・・・・しばらくは寂しくなります。

 記事を紹介します。

 かなり時間がかかりましたがようやくスイカのカテゴリーにある記事の移動終了しました。

 昨年こんなに書いたのかと、思いましたがどの記事を見ても記憶にあり・・・面倒くさいから削除しようかと思いましたが、何とか移動させました。

 

 まだ、マクワウリの方が残っております。

 ・・・・何時になったら終わるんだ。 本日もかれこれ4時間近く使っております。

 

 もうマクワウリにしても季節ですから早めにこちらに移します。

 

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ルッコラの開花

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 今年も採取用にルッコラを用意しました。別に特別な事はしておりません。そのままトウ立ちさせただけです。

 土手の菜の花も盛りをすぎてきました。気温が高くなってきた事を感じます。

 隣のビートはまだトウ立ちをしてきません・・・・何時になったら花を咲かせるのか。ちょっと縁起の悪い野菜です。(最もすぐにトウ立ちするようでも困りますが・・・。)

 

 こちらが現在の様子です。

 

ルッコラの花 12.03.29

 

 近くの土手には菜の花が咲いております。一昨年までは交雑を非常に気にしてハウス内で採種しておりましたが、昨年の実験でそれほど気にする必要がないと分かり気楽にしています。おそらくは、この時期寒さのためそれほど虫が飛んでいないのでしょう。(アブラムシはいますが)

 お彼岸でございます。この時期に安養寺では「大般若法要」と護寺会の総会が行われます。

 

 私はまだ若いのです。お寺や町内の役員をやっているのでよく誤解されますが若いのです。本来なら無役であります所が・・・敗戦末期のドイツ軍のように役に立つものを根こそぎ動員を行っております。ずいぶんこの小坂も変わったものです。「こんな若い者まで戦わせるのか・・・・」

 まあ、そんなことはどうでも良いのですが、方丈さんが若いので私みたいな若者が1人くらいいたほうが気分的によいのではないかと、勝手に解釈して自分に存在意義を見出しております。

 

 この建物が我が菩提寺「安養寺」の本堂です。

安養寺本堂 12.03.29

 

 端に見える鬼瓦は・・・兎に角デカイ!。江戸時代からそんなにこの小坂は財力があったのか。瑞応寺さんも立派な建物です。そういえば、昔からの家柄の家は「お寺と教育」には決して出費を惜しまないと聞いた事があります。

 駿府公園にある徳川家康公お手植えのミカンは有名であります。こちらは古文書より家康公ご自身が定植された事が確認されたそうです。これは、静岡大学の先生が公開講座で講義してくれました。(お名前は・・・失念しました)

 

 我が由緒ある安養寺にも徳川家康公お手植えのミカンと呼ばれているミカンの木がございます。

 こちらです。逆光のため駐車場より撮影しました。昨日3月28日撮影。

 

安養寺 家康公お手植えのミカン12.03.28

 

 公開講座で講義してくれた静大の先生はこの安養寺のミカンに関して、「現在まで安養寺のお手植えについて記載のある文書がないので断言は出来ないが、家康公が鷹狩によく方々に行かれたようだし、農業にも関心が高い方であったから可能性はあります」と、言う事でありました。

 別に静大の先生のお墨付きがほしかったわけではありません。記録があるかどうか知りたかったわけです。この安養寺は非常に歴史が古く・・・実は、2回全焼しております。

 年寄に聞いたところ、現在の本堂は、赤穂浪士討ち入りの翌年立てられたということです。つまり、元禄16年(1704年)・・・今から約300年前です。当然ですが当時は5代将軍綱吉公の御世でございます。それより前の火事で・・・証拠が・・・なくなりました。道理で石碑が建てられるわけです。

 橋本万平さんの著作『地震学事始 : 開拓者・関谷清景の生涯』。  

 この本と出会ったことで關谷銘次郎連隊長のお人柄について幾分か知ることが出来ました。橋本さん苦心の作でありますこの著書には私は心から感謝しております。  

 橋本万平さんは2006年に亡くなられております。享年93歳。  

 橋本さんと私全く接点はないのでありますが近い部分があるようです。橋本さんの著書に『素人学者の古書探求』(東京堂出版)があります。私のこのカテゴリーは古書探求です。知らず知らずですが同じような言葉を使っております。  もちろん橋本さんの『素人学者の古書探求』は図書館より借りてきて拝見しました。本のなかで自分も経験があることが出てくると相槌を打ちながら楽しく読ませていただきました。  

 私は完全な素人でありますが、僅かでも橋本さんの労に報いたく一つのエピソードを紹介いたします。關谷清景博士の奨励金です。   

 『地震学事始 : 開拓者・関谷清景の生涯』を御覧になりました方、こちらのエピソードも参考にしてみてください。  出典は静岡県立図書館に所蔵されております「征露岳南武鑑」明治40年11月11日発行(非売品)です。  静岡県軍人伝の關谷銘次郎大佐の項にありました。  

 紹介します。

 ようやく春が来たとうれしがっていたら・・・また寒の戻りです。たまり水に氷が張っていました!

 よくあるんです。静岡はお茶の産地です。私の地域でもお茶を栽培している方が多く(かつては私のうちも)、遅霜(おそじも)を警戒しております。

 お茶の場合の対策は、防霜ファン(扇風機の親玉)と寒冷紗を茶樹上部に展帳します。昔は一部でスプリンクラーで散水して霜害を防ぐ対策を採られてきましたが、用水が近くにないとできない方法なのであまり使用されていません。

 

 私にとっての問題は、育苗中のマクワウリ、トマト、トウモロコシ及びK君の枝豆が被害にあわないかどうかです。昨晩遅くハウスに行ってトンネルにもう1枚ビニールを被せてきました。

 今朝確認したら被害は何もありませんでした。

 安心してまたトマトの鉢上げ作業を続けました。

 

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 満寿一さんが今月の31日で店を閉じると新聞で拝見し、私にとっての思い出のお酒であります「伝次郎」をもとめにいきました。

 店頭販売のみ来年の1月まで行われるようです。(静岡新聞記事より)

 

 浩二さんの最後のお酒でありますので、もちろん日本酒も。

 ・・・・・。

 さすがに満寿一さんと懇意にされている販売店さんの御注文が多く、小売されている商品が少なくなってまいりました。

 なんとか伝次郎を求め、日本酒を選びます。(実は・・・私は日本酒の知識は・・・まるでないのです。父親は日本酒マイスター又はソムリエになれる程ですが、息子は・・・です。)

 説明を受けながら求めた日本酒は「大吟醸 満寿一」です。

 こちらです。

大吟醸 満寿一

 床の間の大黒様と差しで飲みます。

 

 さて、梅酒「梅花 伝次郎」はもう商品僅かとなっておりますが、こちらの「大吟醸 満寿一」は在庫に余裕がございます。満寿一最後のお酒でございます。是非、お買い求めください。

 今月末で小売店への販売は終了いたしますが、4月一杯営業を行います。静岡にお住まいの方是非お出かけください。

 満寿一 大吟醸 4合瓶(720ml) 3,360円です。

  満寿一酒造株式会社

住所 静岡市葵区山崎32-5
連絡先 TEL. 054-278-6005 FAX. 054-278-0052
代表者 増井 成美
杜氏 増井 浩二
休日 土、日、祭日

 静岡市外の方は郵送いたしますので、満寿一酒造まで御連絡ください。

 

 昨年試作いたしました、スイカの権威神田武さん作出のスイカ品種「太陽」です。

 昭和31年命名されました。『王冠』と『旭大和』との一代雑種です。

 

 こちらが昨年当家の圃場で撮影しました「太陽」です。

スイカ品種「太陽」

 

 どうです綺麗でしょう。

 この果皮色ただの飾りではありません。この色が収穫の目印になるのです!。味の方も良好です。種子袋の説明文に記載があります。糖度12度。

 はい。スイカは太陽で決まりです!(・・・強引な)

 糖度が12度出れば十分です。私の収穫した太陽も12度出ました。現在のF1品種がいくら進んでいても13度~14度出す事は非常に困難です。栽培方法、圃場の自然環境がかなり影響します。高望みをしても結果は知れています。

 スイカ栽培を楽しみたい方にお勧めの品種はこの「太陽」です。

 有岡さんの著書では20年物の梅干でした。

 先日、機会がありまして当家にあります古い梅干の樽を開封いたしました。


 

 非常に熟成されております。

 ・・・やはり発生していました。ゼリー状の物質「・・・・」

 最近聞く話ですが、「スイカは自根栽培の方がおいしい」。

 本当かどうかは同一圃場で同じように栽培して比較すればよいのです。私は学校以外では自根栽培しか行った事がないのでこの点断言できません。

 ただ、通常のF1品種で自根栽培をすれば糖度16度にできると断言できるようであるなら・・・・そんな事ありうるわけがありませんがね。従って自根栽培の方が美味しいと言う説は信じてはいません。

 私が自根栽培をする理由は、接木栽培をする理由がないからです。いたって単純です。

 まず、接木栽培を行う理由を資料と共に説明していきます。

1、蔓割れ病防止(これが最大の理由です・・・昔は)

2、いや地防止(連作障害の予防です)

3、移植による根痛みの予防

 

 以上3点です。3番目は私が勝手に解釈している点です。これは、スイカ(ウリ科)は直根性の植物であります。移植すると直根が痛み地中深く根が進入しないで地表面に広がっていきます。同じ遺伝子を持ったスイカ品種でも吸肥能力、耐乾能力が大幅に異なります(移植により低下するわけです)。そのため根の発生のよい(強い)ウリ科の植物を台木として使うわけです。

 

 3番目の点は私の勝手な解釈でありますが、1番から順に説明していきます。

 マクワウリの播種に続いてスイカの播種を始めました。

 本年は営利栽培をしませんので昨年に比べて少ない数となります。実験用と同級生K君用です。

 昨年一生懸命採種したつもりが・・・種はどこに行ったのか・・・(涙)。

 行方不明、神隠しにあってしまった私の苦労の結晶が・・・・(大粒涙)。

 何時までもいじけていても仕方がないので、大和クリーム2号だけは一応注文しました。(神田育種農場です)

 保存してある種子だけでもK君と確認してみるとかなりの数になるので試験的には問題はなさそうです。本当は・・・直播栽培を大規模に行いたかったのですが・・・、どのみち営利栽培は行わないのでよしとします。

 

 本日播種した品種は、黒部スイカと採種した大和クリーム2号・・・そして大和クリーム2号と旭大和を掛け合せたF1、他雑種2種類です。

 

 今年も神田さんから「太陽」を購入しました。(まだ種子は到着していません)。この太陽の特徴こそ今後スイカ栽培を容易にしてくれると考えています。こちらも僅かながら栽培していきます。

 

 

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十年物梅干

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HPにて販売しております十年物梅干。ある本で面白い記事が載っておりました。当家の知見とあわせて紹介します。


梅花と梅干.09.10.28.JPG "梅花と梅干"


 当年度産の梅干と較べて味はまろやかになっております。塩味に丸みが出たような感じです。もちろん梅に含まれるクエン酸の酸味も十分残っております。

十年間熟成された梅干です。

 スイカ栽培で頭を悩ませるところは・・・、

1、高畦か平畦か

2、接木苗か自根苗か。

3、つるの摘心、整枝について

4、果実の収穫適期について

 

 以上4点ではないでしょうか。

 

 スイカ栽培の権威、神田武さんの言葉を借りながら説明していきます。

 

 

 まだ、スイカ、マクワウリ他の作物の記事の移転は終了しておりませんがそろそろ播種時期となってまいりましたのでカテゴリーを新設して書いてまいります。

 もちろん最初はスイカであります。

 

 ・・・・・・。

 なぜ、学者でもない山にこもる百姓が恥ずかしくもなくこんな記事を書いていくのかと申しますと・・・・、農業は自然相手の産業であることが理由です。

 その地域その地域の気候(環境条件)により栽培に用いる技術が異なってまいります。その技術の選択、技術開発に必要な学問こそが農学であります。農学は理学を基礎にしておりますがより自然に影響される度合いが強いところがあります。この点が非常に難しい点であります。(実験の再現性とか・・・).。

 それ故に私みたいな百姓の知見でも参考となってくるのです。もちろん地域ごとの差異があることも当然であります。

 

 

 素人理屈はこの辺で、私の崇拝いたします農学の最高権威であります"寺尾博 博士"の言葉を引用いたします。(農の理法より)

 稲を作る一番優れた方法を示せ」など言うことも無条件では答えられない。「稲は直播と稲代を作って田植え式に行うと何れか良きか」などの質問もその基底の条件を示さずしては無意味である。

 

 非常に分かりやすい言葉です。その地域の自然を理解し、そして利用する為にいかなる方法をとるか。

 私がこの静岡市小坂で行っている方法を紹介してまいります。

 

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 とても暖かくなってまいりましたが、私はまだ布団の中に豆炭アンカを入れております。

 もちろんズボンの下には中学校以来愛用の袴下(こした)をはいております。この点だけでいかに年寄に愛されてきたかが分かります。決して私が寒がりだからではありません。年寄が私に授けた転ばぬ先の杖であります。

 

 さて、育苗中の苗も私と同じように大事に管理しております。播種床は温床で3重被膜です。鉢上げをした苗は1重のトンネル内においてあります。定植を早めてハウス内でもトンネルをかけます。マクワウリはまだ本葉展開中でありますが、ミニトマトは生育良好でもう少しで定植が出来ます。(といいますかもう定植しても問題はなさそうです)

 

 葉物野菜の収穫と相談して定植していきます。現在路地畑に葉物野菜の苗を定植しています。

 ・・・・キウイの剪定、山の除草剤、葉物野菜の定植にトウモロコシの播種、トマト、マクワウリの育苗と・・・この季節やることばかりであります。

 

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 一生懸命、コピペして誤字脱字がないか軽くチェックして、を繰り返しております。

 まだ、半分も行っていません・・・・。

 昨年張り切りましたから結構な数の記事をアップしています。マクワウリの記事を後回しにしても明後日くらいまで移動がかかります。

 

 栽培に関する記事を紹介する予定でありますので、明後日に公開します。(移動が終了するしないにかかわらず)

 

 なれない仕事は手間をとります。

 

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 スイカ、マクワウリを播種する季節となって来ました。

 ようやくスイカの記事の移動を始めております。古書探求の記事と違うのは当初アップした日付で更新しています。そのためこのブログは最近出来ましたが記事はその前の日付であります。(いちいち日付を入れるのが面倒くさくて・・・もともとアップした日にあわせてありますから問題はないでしょう)

 

 過去のスイカ記事移動終了後、今年の記事を書いていきます。

 

 もう少々お待ちください。

 

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 橋本万平著 『地震学事始 : 開拓者・関谷清景の生涯』。この本を拝見いたしましていろいろ面白い記事がたくさん書かれておりました。


 関谷銘次郎連隊長の事を紹介する前に、この方を紹介します。

 
 向坂兌さんです。この方と関谷博士はロンドンで一緒でした。向坂さんは法律の勉強で留学しましたが28歳で亡くなりました。

 この方の姉様が、名古屋大学第三代学長勝沼精藏博士の御祖母様であります。(山梨医大紀要 勝沼精藏先生の嘆息-杉浦重剛撰文「向阪兌之墓」-)より

 勝沼博士は静中で増井博士より3級上です。お生まれは兵庫県ですが静岡市でお育ちになりました。(当時も静岡市です)


 こう見ていきますと(こじつけに近いですが)静岡と縁のある方が集まってきました。


 さて、本題の関谷銘次郎連隊長の記録です。

 

 この記事は平成23年12月23日に作成しました。

静岡県立図書館にてこの本を借りてきました。(腰が悪くなった日です)


 丁度、県立大学の図書館から借りた本の期限が来たのでついでに借りました。


 関谷清景博士は関谷銘次郎連隊長のお兄様でいらっしゃいます。生誕の地の碑が地元の方の手により造られ現在にも残ります。この場所は関谷連隊長の生誕の場所でもあります。場所は岐阜県大垣駅のすぐそばです。


 関谷博士は東京帝国大学にて山川健次郎博士と同じ時期に教授を務めていらっしゃったようです。

 学士という言葉はこの明治の世に生まれた言葉でしょうが、関谷博士や山川博士の伝記を拝見しておりますと、正に学問の士(侍)の意味で作られたのではないかと思います。

 戦場ではなく研究に命をかけた侍であります。関谷家は兄弟で両方の方面で偉業をなしたと言えます。


 さて、その『地震学事始 : 開拓者・関谷清景の生涯』の結びの部分の一部を紹介します。橋本万平さんがなぜ関谷博士の伝記をまとめる事になったのかわかります。

 

 この記事は平成23年12月22日に作成しました。

 関谷銘次郎連隊長の資料を調査しておりますが、私随分そそっかしい男でして目を通していて紹介する事を忘れておりました。


 関谷連隊長の銅像の碑文です。現在実物は静岡の沓谷にあります陸軍墓地に現存します。この碑文の写しが「歩兵第34連隊史」に記載されておりました。


 この文章の中に関谷連隊長の御家族の事が記載されております。関谷連隊長は岐阜県大垣市の御出身です。


 お父様は、岐阜県士族関谷玄助氏

 お兄様は、世界初の地震学者、理学博士関谷清景。
 岐阜県の偉人として紹介されております。また、wikiにも紹介されております。
 リンクです。
 
公報おおがき
 WIKIです。

 国立科学博物館地震資料室


 関谷博士は明治29年結核の為亡くなりました。 関谷博士の伝記『地震学事始 : 開拓者・関谷清景の生涯』と言う書籍があります。静岡県立図書館にありますので読んでみます。

 wikiの関谷博士の記事には、関谷銘次郎大佐の事は何も書かれておりませんでした。詳しい理由は分かりませんが・・・(軍人と言う理由でしょうか)


 関谷銘次郎連隊長の碑文は銅像の件と一緒に紹介します。

 

 この記事は平成23年12月16日作成しました。

 

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 本日、やまひこ農園の野菜を放射能検査にだすため珍しく焼津に行きました。


 帰りに、日露戦争の英霊を木像にして祭ってあります岡部の常昌院に向いました。


 「ああ、静岡連隊」にも記事がありましたが、関谷銘次郎連隊長以下227柱の立像が安置されているとの事。(こちらの旧地名で志太郡の地域の戦死者を1体1体の木像に名前を書いて祭ってあります)


 こちらが常昌院です。

常昌院

曹洞宗のお寺です。

 

 この記事は平成23年12月13日に作成しました。

関谷銘次郎連隊長

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 関谷銘次郎連隊長についてその後も調査しておりますが・・・関谷連隊長の記載がある小伝も古書もありませんでした。

 インターネットで検索したら・・・・私のブログが幾件もヒットしました・・・・内容は見なくても判っております。


 そのため、「ああ、静岡34連隊」「ああ彼の赤い太陽」に少し記載がありましたので紹介します。

 HPの記事で関谷銘次郎大佐は上原勇作元帥、秋山好古大将と陸軍士官学校で同期だと記載されていましたが・・・確認できる資料がないので確信がありません。


 こんなに記録の無い方でありますが(理由が不明です)、静岡連隊の将兵から慕われた連隊長であった事はまちがいがありません。新聞記事ですが下のリンクよりどうぞ。

『思い出す8月31日』・・・その2 関谷連隊長 (静岡新聞記事)

 

 この記事は平成23年10月26日に作成しました。

 本日は日米開戦の日でございます。南雲機動部隊がオワフ島真珠湾を奇襲した日であります。

 支那との戦いが片付かない状態で(片付けられないような国家が)、当時でも最強と言われるアメリカに戦端を開いたのですから、おかしくなったのかと言われてもおかしくありません。(・・・・・。)


 日本は戦に破れましたが・・・別に私が負けたわけではありませんから、感傷的にならずに記事を書いていきます。

 ただ、もしアメが駿河湾に上陸していたら・・・私の家、親戚一同みな死んでいた事は間違いありません。断言できるだけ悲しいものですが。


 さて、石光少佐の『望郷の歌』 から橘少佐の転属です。

 橘周太少佐は奥軍司令官ともお知り合いだったそうです。橘少佐が東宮武官だった時の武官長が奥軍司令官であったそうです。橘少佐は関谷連隊長とも士官学校で教え子、教官の関係でありましたから、橘少佐としても第2軍そして静岡34連隊は最高の勤務先であったのではないかと思えます。


 静岡連隊は実に上官に恵まれた連隊であります。今後、日本一の指揮官に恵まれた連隊と呼称してもよいと思いますが。

 

 この記事は平成23年12月8日に作成しました。

 橘大隊長は、その呼称が明らかなように静岡連隊の第1大隊長に赴任した後の呼称がそのまま一般には残っております。階級は少佐です。僅か20日間の大隊長でした。


 その橘周太少佐が静岡連隊に赴任する前の武勇伝を書き残してくれた方がおります。後に橘少佐が勤められた第2軍管理部長を勤めることになります石光真清少佐です。

 この本です。

望郷の歌

 全4巻の単行本です。これら4冊は約10年前に東京神田古本街のはずれにある古書店で求めました。この本は日露戦争に関する書籍では結構引用されています。しかし、私でも分かる誤記、誤認が所々ありましたが、第2軍司令部においでになっただけあってかなり参考になる記録を残してくれております。


 石光少佐は橘少佐とかなり親しい間柄であったそうです。石光少佐は熊本の出身、橘少佐は長崎ですから親近感があったのかもしれません。(もちろん共に士族の出身です)


 さて、静岡連隊にこられる前の橘少佐ですが、なかなかの武勇伝を残してくれております。

 

 この記事は平成23年12月3日作成しました。

 8月9日に静岡県護国神社の遺品館を見学した時、

 

 『・・・・む!』

 とした、展示品がありました。これです。

 

内田軍曹の記録コピー 勿論昔からありましたがコピーです。橘大隊長の最後が記録されております。

 私は昔の字が読めないので(内田軍曹のお名前は知識にありましたが)、よく観ないで通り過ぎていました。もちろん現在もこの字は読めません。しかし、この文と同じものを目にした記憶があります。


 場所は長崎、橘中佐の記念館です。

 

 この記事は平成23年8月12日に作成しました。

長崎見聞録 橘神社

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 時間通り長崎駅に到着しました。

 長崎といえばハイカラなイメージがあります。しかし、来てみるとなんだか静岡と同じような感じがします。山が近いからそのような気がするのでしょうか。(静岡の中心の話ではありません。あくまで私の住んでいる小坂と比較してです)


 お迎えにきてくださる間その辺をきょろきょろします。(どこいってもおのぼりさんです)


 車で橘神社、島原方面を案内していただきます。

 

橘周太大隊長像 全形

 橘周太大隊長の像です。戦前より現存する唯一の銅像です。

 静岡の駿府城に、同じく首山堡で戦死された関谷銘次郎連隊長の銅像と共に橘大隊長の像もありましたが、戦時中金属の供出で現在はありません。

 お墓はご両者とも静岡市葵区沓谷(くつのや)の旧陸軍墓地にあります。(ただ、地元の方の話によると橘大隊長のお骨は遺族の方が長崎に持っていかれたそうです)

・・・・、その後の調査で陸軍墓地のお墓は記念碑的なものであるようです。お骨は入ってはいないようであります。

 

 この記事は平成23年 5月12日作成しました。

 

 昨日、一昨日と同級生K君の助力があったので一生懸命(同級生K君が)トウモロコシの播種を行いました。(私はトマトの鉢上げです)

 今年は朝取りトウモロコシを出荷する予定です。お楽しみください。

 

 さて、発芽したマクワウリの状況ですが・・・順調です。本日も確認しましたが本葉が出始めました。トンネルの中で育苗しています。昼間はトンネルを空けて日光にあて、夕方寒くなってくる前に閉めます。トマトの育苗トンネルは夜温最低12度であります。作物が生育しやすい温度になってきました。

 

 育苗できたマクワウリは、ハウス内で1畝だけ直播実験を行っているところの欠損部分に先ず定植します。ハウス内でも冬季にはマクワウリは発芽しませんでした。(温床、加温すればよいのですが)。来年は温床にて2月播種を計画します。

 

 マクワウリ収穫予定時期は6月です。・・・・たぶん。・・・・願います。

 

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 本日は8月31日です。首山堡陥落の日とともに関谷銘次郎連隊長、橘周太大隊長以下静岡34連隊約500名の命日であります。


 本日の記事の主人公は市川紀元二中尉です。(この時は少尉です)

 静岡34連隊が奮戦空しく首山堡をロシア兵の手に委ねました、その後名古屋6連隊に属する市川紀元二少尉率いる小隊が奪取しました。(北大山)

静岡新聞 市川紀元二

 

 ロシア軍の計画的な撤退が背景にあるようです。しかし、静岡連隊の奮戦も無駄なものではなく、首山堡陣地群をあくまで日本軍を引付けるおとり(言い方がわからないので)として考えていたロシア軍も一時的とはいえ橘大隊に首山堡の重要拠点を早期に奪取されてしまったのですから、他の方面に向わせる部隊を首山堡に廻さなくてはならなくなつてしまいました。その数、2万といわれています。

 ロシア軍1個師団が静岡34連隊の奮戦に逆にこちらの方面に足止めされてしまったというところでしょう。(負ければ完全に悲劇でした)

 この激戦を栄光にかえた方こそ遠州出身の市川紀元二中尉でありました。

 

 この記事は平成23年8月31日に作成しました。

副題・ 軍神・壮烈な最後  人望のあった大隊長
 昭和33年8月30日 静岡新聞夕刊

静岡新聞 橘中佐

もちろん、橘中佐のお話は、内田軍曹から始まります。また、村松少尉、下村 元大将のお話も貴重です。


 タイプしていて・・・結構きついです。まあ、首山堡を攻めるよりははるかに楽ですが、農作業と兼任はやはりつらい・・・。


 文字ばっかりです。

 

 この記事は平成23年8月29日に作成しました。

副題・自ら死の突撃決行 部下に温情・関谷連隊長
 昭和33年8月29日 静岡新聞夕刊

 関谷銘次郎連隊長は、橘中佐のお名前に隠れてあまり知られていない方です。

 また、項を改めて紹介しますが、岐阜県大垣の方です。
 もちろん士族です。

 

静岡新聞 關谷連隊長 元部下の生の声が記録されております。関谷連隊長の貴重な資料であります。(關谷連隊長の評価は非常に高いのですが、記録がほとんど残されていない方であります。現在調査中です。)


 

 基本的にはそのまま転記ですが、タイプが下手な為不要と思われる部分は(ほとんどありませんが)除きます。また、誤認による誤記や、字が判別しない場合○○とします、御容赦ください。

 

 この記事は平成23年8月21日に作成しました。

 副題・ 残る岳南勇士の魂 軍歌の白眉"橘中佐"の歌。
 昭和33年8月28日 静岡新聞夕刊

 出席者(カッコ内は当時の階級)

 外岡彦兵衛(歩18小隊長)
 柴山 重一(第2軍参謀)
 岡本 忠雄(歩6副官)
 村松 清作(歩34小隊長)
 内田 清一(歩34大隊書記)
 白石 信明(歩18旗手)
 吉村 彰久(歩34少尉)
 楠  正吉(歩34伍長)
 
 ・下村  定元大将
 ・馬渕 逸雄元少将

 以上10名です。

 基本的にはそのまま転記ですが、タイプが下手な為不要と思われる部分は(ほとんどありませんが)除きます。また、誤認による誤記や、字が判別しない場合○○とします、御容赦ください。

 

 この記事は平成23年8月21日に作成しました。

 この座談会は、『思い起こす8月31日』と題しまして昭和33年8月28日~9月1日の5日間連載された記事です。静岡県立図書館のマイクリフィルムからコピーしてきましたが・・・画像が悪く、写真は黒ずみ文字はかすれて判別しにくいものもあります。(もう少しきれいに撮れないものか)


 どうせ一般の目に触れる事が無い記事ですが。首山堡の勇者の話を聞くことは無駄にはならないと思いますので紹介します。


 この座談会は、市川紀元二像の除幕式に合わせて市民の関心を高める為に企画されました。

 昔は8月の戦争の話は、この首山堡(遼陽)の戦いのことだったようです。現在は・・・言うまでも無く敗戦記です。


 さて、この記録だけではありませんが、この首山堡の戦いで高名な方(私が知る方ですが)を観てみますと面白い事がわかります。

 

 この記事は平成23年8月21日に作成しました。

 東京大学当局から厄介者扱い(そのように扱われていました。時の総長は小野塚 喜平次。新潟出身の政治学者です)されていました市川紀元二像ですが転機が訪れました。


 共に首山堡で戦った上官(戦友と呼んだほうがよいのかもしれませんが)松井石根大将の言によるところです。

 昭和10年日露戦役30周年、東京日日新聞座談会における松井大将の話

 「この間も帝大工学部の催しで中尉のお祭りをやったので自分も参加したが、もう当時の人達は学生は勿論職員も中尉の事を知らない人が多かった。それで僕が憤慨して当時の事情を話した事もあったが、特に遺憾に思ったのは銅像の軍刀が折れていることである。誰か子供がいたずらしてとったものらしいがこれはどうかして直してもらいたい希望している」。

 その後間もなく破損は修繕されました。このことについては「電気乃友」昭和10年4月号の市川中尉30年祭(3月7日)の記事の中に渋沢元治博士の話が載っています。(渋沢元治博士は、昭和33年8月31日 静岡県護国神社での除幕式に参加されております)

 

 この記事は平成23年8月13日に作成しました。

 市川紀元二像は二つありました。
 

 一つは、東京大学工科大学の方々を中心に建立された、静岡県護国神社に現存するもの。もう一つは、市川中尉の地元磐田にて有志の方が建立されたものです。こちらは戦時中に供出されました。


 私、早速『市川紀元二中尉伝』横山 英著 を古本屋より求めまして調べてみました。その本を参考に東大にて建立されました市川紀元二像についての記録を紹介します。この『市川紀元二中尉伝』は静岡県立図書館にあります。

市川紀元二中尉像 反対側全体

 東京大学工学部電気工学科主任教授 山下英男祝辞では分かりませんでしたが、東京大学にあった時から市川紀元二像いろいろと波風があったようです。(戦前の話です)

 この市川紀元二像を建立し守ってくださった方のお名前が分かるのであえて紹介します。

 

 この記事は平成23年8月13日に作成しました。

 静岡新聞昭和33年9月1日の朝刊に市川紀元二中尉の銅像除幕式の記事が載っていました。

 この8月31日を挟んだ1週間、当時を知る方の座談会記事が掲載されました。あの、橘中佐を看取られた内田軍曹が健在でした!・・・驚きです。項を改めて紹介します。(とにかく長いんです)

  
 こちらがその記事です。

静岡新聞 昭和33年8月31日

 

 なぜ、8月31日に除幕式を行うかといいますと、この日が遼陽の会戦最大の激戦でありました首山堡の戦いを征した日であります。もちろん、首山堡一番乗りの快挙を成し遂げられた方は市川紀元二少尉(当時)であります。(資料により9月1日となっておりますが、静岡連隊の奮戦は8月31日でありますので・・・細かい話は・・・)

 

 この記事は平成23年8月10日に作成しました。

 

 日露戦争の英雄の銅像も多くは戦時中金属物供出で撤去されました。

 

 静岡にありました、関谷連隊長、橘大隊長の銅像も供出されました。長崎にある銅像は、地元の方が砂浜に埋め守ってくれた為に現存しています。静岡の場合は、連隊本部にありましたから・・・守りようがありません。市川紀元二中尉の銅像がもう1つ掛川のほうにあったことが別宮先生の著書に書いてありましたが、やはり駅前にあったため供出されました。(その後調査で中泉駅前、現在の磐田駅前にあったそうです)

 
 この市川紀元二像は東大の構内にあり工学部の教授方を中心に守ってくれていました。終戦後もGHQより撤去されないよう職員一同この像を隠し守り抜いたとあります。(・・・天下の東京帝国大学にも卑しいチクリ魔(売名者)がいたと言うことです)

市川紀元二中尉像 顔アップ

東京大学工学部電気工学科主任教授 山下英男祝辞 を紹介します。

 

 この記事は平成23年8月9日に作成しました。

 高校の時は毎日この銅像の前を通っていました。

 

 もちろんこの銅像が日露戦争に関係があり何か功績を立てた方だとは思いましたが、紹介文も無いので詳しく分からないままでした。

 祖父より聞いていた話は、もちろん関谷連隊長と橘大隊長の話です。市川紀元二中尉の話は聞いた事がありませんでした。

 
 私に、この市川紀元二中尉の功績を紹介してくれた方は別宮暖朗先生です。別宮先生の著書『日露戦争陸戦』と先生のHP第一次世界大戦で紹介してくれています。
 リンクを張りました。

市川紀元二中尉

 本日撮影しました市川紀元二中尉の銅像です。(磐田市中泉の御出身です

市川紀元二中尉像 全体

詳細に説明していきます。

 

 この記事は平成23年8月9日に作成しました。

 今日も雨です。

 昨日は、「畑に除草剤をかけるから、よっちゃん明日は来れないよ」と、言っていた同級生K君が今日も手伝いに来てくれました。(雨天は除草剤をかけられません。)

 この機会にトウモロコシの播種をある程度片付けないと後大変になるのでK君にお願いします。私は出荷と並行して、トマトの鉢上げとずらしを行います。

 

 鉢上げをするトマトは、昔懐かしき「世界一」トマトです。自家採種したものです。生育旺盛で雨にも強い品種です。(生育が衰えない、病気が出にくい)。欠点は結果量が少ない事です。そのため今年はかけ合わせの親として利用します。もちろん味の方も独特の風味と味で、トマト好きの方には人気商品になるだろうと思うので販売もいたします。

 

 ブログの方は現在、旧ブログより記事を移動中です。増井博士、寺尾博士、石川千代松博士は何とか終了いたしました。これから、市川紀元二中尉より静岡連隊のほうを移動させます。スイカ、マクワウリの記事はその後に行います。しばらくお待ちください。

 

 

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 夏になりますと盛んになるのが、怪談話と戦争話です。

 私は年寄に可愛がられて育ちましてから戦争の話は季節を問いません。

 本日紹介します護国神社と市川紀元二中尉の銅像は、私が高校の頃の通学路にあり毎日目にしておりました。護国神社には遺品館があり無料で見学できるので学校帰りにニコニコ社会科見学をしておりました。おかげで結構目が肥えてきました。


 先ずは護国神社の風景を紹介してから市川紀元二中尉の銅像を調べた限り紹介します。

静岡県護国神社

敷地の中は散歩に最適です。

 

 この記事は平成23年8月9日に作成しました。

 石川千代松先生がご自身の幼少期の頃を書き残してくれております。

 著書は、『人間不滅』昭和4年5月7日発行です。

 これです。

 

石川千代松著 『人間不滅』

 石川先生のお父様は勝海舟先生と幼馴染であったそうです。石川先生も勝海舟先生とお知り合いであったようです。ただ、勝先生は駿府(静岡市)に移住されましたが、石川博士は沼津に移住されました。どう違うのか不明ですがそのようです。


 石川博士は幼少期に修羅場をくぐっております。時は幕末、位は武士。どちらにしても平民とは胆のすえ方が異なるようです。この時石川先生僅か9歳です。

 

 この記事は平成23年12月12日に作成しました。

石川千代松博士の著書『人間』昭和3年版 p442~p459に『停年に際し私が急に職を辞せざる理由』の長文が収録されています。この長文は『人間』昭和3年版にしか収録されておりません。


 大阪府立大学附属図書館には小冊子となった、『停年に際し私が急に職を辞せざる理由』が保管されております。

 

停年に際し私が急に職を辞せざる理由

 

 文中よりこの文章が書かれた年は、大正10年と考えています。

 これまで何とか途中までタイプしてきましたが・・・農作業だけでなく、増井博士、寺尾博士の調査と首山堡を攻略しておりましたので、長く途中のままにしておりました。

 とにかく、石川博士の文章は漢字や仮名遣いが難しくタイプするのに苦労しております。
 
 最後の部分ですが、増井清博士があの(やかまし屋の・・・悪意は一切ございません)石川千代松博士に認められた数少ない一人である証拠でありますので紹介します。

 
 なお、増井清博士は静岡市小坂の御出身でございます。東名日本坂トンネルの静岡側出口附近が小坂です。

 

 この記事は平成23年12月6日に作成しました。

『停年に際し私が急に職を辞せざる理由』(古在帝大総長に提出したる文章の写)

 

停年に際し私が急に職を辞せざる理由

 

私は先般来川瀬農学部長より停年になったから辞職願いを出せと勧められている。勧められるまでもなく私は満60歳になった昨年既に辞表を出したのだ。然るに宛名が違うとて却下された。其の内佐々木、勝島両教授の辞職があり、勝島君の事は別に論じないが、佐々木君の辞職は、私をして前に急いで辞職願いを出したことを寧ろ大いに悔ゆるに至らしめた。故に私は軽々しく辞表を提出することは見合せたいと思う。一身上の都合からでは無論ない。理由は下の如くである。

 

 この記事は平成23年8月31日に作成しました。

ブログを見返してみれば、この古書探求のカテゴリーをつくってからもう時期1年になります。

 最初は、昔の(戦前)農学書(農業資材関係)を中心に紹介していこうかと考えていましたが、まとめるのに手間取り・・・つい時間ばかり経ってしまいました。(失礼)


 『古書探求』最初に紹介する方は、石川千代松博士の書かれた『人間』です。

 

石川千代松著 『人間』

 なぜ、石川千代松先生かといいますと、当初紹介しようと考えておりました、この小坂ご出身の増井清博士の師に当る方でございます。

 石川千代松先生については、雑誌、『採集と飼育』第43巻6号(1981)で増井博士が紹介されております。関心のある方はその巻をご覧ください。又は、『近代日本生物学者小伝』(監修:木原均・篠遠喜人・磯野直秀 平河出版社1988)に収録されております。


 私が購入しましたこの『人間』(万里閣出版 昭和3年発行)は、再販された人間には収録されていない次の2編があるからです。

 『停年に際し私が急に職を辞せざる理由』(古在帝大総長に提出したる文章の写)
 『東京帝国大学に起れる学問独立の危機』

 今後何とかこの2編紹介していきます。

 

 この記事は平成23年8月30日に作成しました。


 増井博士が三島の農家との会合から4日後の8月27日午後首相官邸で、片山総理を囲んで種無しスイカの試食会が開催されました。

 今ではおなじみの3倍体スイカの初舞台です。もちろん主人公は木原均博士です。私達農学を学んだものには木原博士は3倍体スイカ生みの親であります。

 
 この時の様子を篠遠喜人博士が記録から紹介します。

 この会見は有光次郎文部次官のおとりなしで、文部省からは、次官、中西勝治研究助成課長、こちらは木原均・増井清の両博士に篠遠が加わった。汗をふきながら入ってこられた首相は、はじめに、遺伝研の設立理由とお願いとをきいてくださった。そのあとで、木原博士はまずふつうのスイカを2つに割られた。たくさんの黒いタネが目に入った。つぎにもう1つの同じような大きさのスイカにナイフをいれて真っ二つになった。そこには美しい紅色の肉だけで黒いタネは1つもなかった。


 首相は、「ほーこれは科学の魔術だ!!!」と声をあげられた。

 「ふつうの魔術にはタネがあるが、科学の魔術にはタネがない」と、一同を笑わせながら、もなとなごやかに、この珍品を味わわれた。 (終)


 雑誌遺伝1巻2号に記事がありましたが増井博士が同席していると知らなかったのでコピーしてきませんでした。残念。


 さて、木原博士の3倍体スイカについて紹介します。

 

 この記事は平成23年12月4日に作成しました。


 三島の農民百人余と1年以上の騒動の舞台となりました遺伝研の予定地ですが、どのくらいの規模(面積)があったのでしょうか。

 農家の出身でないと面積についてはピンとこないかもしれません。100人もの農家がかかわってくるからさぞ広い面積であると思うかもしれません。

 さて、遺伝研予定地の規模はどのくらいであったのでしょうか、宮山平八郎事務官の記録から紹介します。


 敷地は全部で28,649坪、建物は総延坪が2,553坪、本館だけで1,240坪となっている。


 坪換算でありますが、基本的に農地は反部(300坪)、町部(3,000坪)で面積を表します。理由は、最低でも2反部ないと生活できないからです。(当時、もちろん出仕事もしている前提です)


 建物の建坪の規模が大きいのはやはり天下の中島航空機工場だけはあります。もちろんアメの航空機工場にはかなり劣りますが。・・・ちなみに静岡市に建設された三菱発動機工場(たしか発動機だと思います)は・・・登呂遺跡が発見されました!もちろん遺伝研の候補地にはなりませんでした。


 敷地面積からわかる事は・・・。

 

 この記事は平成23年12月3日に作成しました。

 満寿一酒造さんは明治41年に現在の静岡市葵区山崎に移転しました。現満寿一酒造の杜氏をされている増井浩二さんから伺いました。


 増井博士は明治20年9月14日生まれです。仙台2高へ進学されるまでの間、この小坂で過ごされました。昭和22年の著作『鶏の改良と繁殖』の前書きに書かれた話もこの小坂での話です。

 増井博士はヒナのオスメス判別技術であります初生雛鑑別の生みの親として有名でありますが、博士の御専門は動物遺伝学でありまして鶏の育種の方に強く関心をお持ちでした。


 満寿一の名前の由来は、増井家と市川家と2件で酒造業を始めた事から「ますいち」と言うようになったと祖父から聞きました。市川さんの方は現在でも小坂で酒屋を経営しております。(田舎の酒屋ですが・・・身内です)


 満寿一さんが山崎に移転された理由は、良質の水を求める為と聞いております。この研究熱心な姿勢は、確かに静岡産業史(正式な題名は失念しました)にも先代、先々代のお名前が見えますことでもわかります。この小坂伝統的な御大家の姿勢とも言えます。


 満寿一さんの跡地は現在は畑です。私の母親の世代の遊び場でした。私の世代ももちろんこの場所で遊びました。戦争ごっこやチャンバラがもっぱらです。(安定成長期世代です)

 また、増井博士の記事とともに紹介してまいります。

 

 この記事は平成24年1月16日に作成しました。

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 鶏の雌雄鑑別といえば、増井清博士です。

 ・・・・。別に博士の地元だからといって増井博士を紹介しているだけではありません。増井博士を通して博士と共にご苦労されてきた方々を紹介する目的もございます。これが駿河の文化であり、そして博士の地元小坂の文化でございます。


 この雌雄鑑別(初生雛鑑別)技術は数少ない日本独自の技術です。人間の持つ感覚を利用する技術であります。外国人(ギャージン)には真似できない技術でもあります。現在の養鶏界ではすでに主流から外れたようですがこの本が書かれたときは世界中の注目を集めた栄光の時でした。

 これが初生雛鑑別師の為に作られた本です。昭和15年発行です。

指数鑑別手ほどき

文字が右から左です。時代を感じさせます。

 現在でも農地に何かが出来る時には必ずおきる問題です。この時は昭和22年です。あの現在でも尾を引く「農地解放」の時代です。

 今では考えられないかもしれませんが、この時解放を受ける方々の権利が異常に強く、(あちらが)気に入らないと地主が留置所にぶち込まれた時代です。


 竹中博士の記録です。
 この敷地は戦争末期に中島航空機株式会社が、軍の力で強制的に収用したものだから、元の所有者に開放されたいという運動が、かねて起りかかっていたのであった。そこでそれ等については県庁、市役所、文部省、商工省と密に連絡して手当てを行っていたのであったが、遂に8月23日、予算編成に当たって候補地視察に赴いた一行に対し、プラカードをもった農民100名ばかりが阻止運動を起こしたのであった。(後略)


 候補地視察に赴いた一行には増井清博士がおいででした。増井博士はこの時彼らと始めての話し合いを行います。遺伝研30年記念誌に記録があります。宮山平八郎事務官の記録と一緒に紹介します。


 現在とは時代が違います。つい2年前までドンパチをやっていたのです。反対運動を起こしている農民の何人かは戦地から帰ってきた者です。命のやりとりをしてきたものは迫力が違います。そういった100名を相手に増井博士他数名で話し合いに行かれたわけです。
 
 度胸がなくては学者は務まらない・・・のか。

 

 この記事は平成23年11月30年に作成しました。

 ようやく財団法人 遺伝学研究所ができました。雑誌『遺伝』の発刊も始まりだんだん設立運動にも弾みがついてきましたが・・・・何時の世もそううまくはいかないようです。


 この時の内閣は社会党片山内閣です。

 関係省庁、内閣、議会への働きかけが行われました。


 請願書の申請人は、遺伝学者61名、その他関係者7名。創立予算1億円、昭和23年度予算は5,000万円でした。


 しかし、文部省でも予算の件で行き詰まりました・・・。

 森戸文部大臣より重ねて諮問がありました。(ということは既に諮問されているわけです。私の持っている記録にはありません)

 内容は、

 

 この記事は平成23年11月29日に作成しました。

家畜改良と遺伝学

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 雑誌『遺伝』の1巻に収録されております。増井清博士の文です。

 昭和22年に書かれました。この年に出版されました増井博士の著書『鶏の改良と繁殖』にも異なる書き方ですが同じ内容の事が述べられております。


 まだ、国立遺伝学研究所が設立される前です。遺伝学研究所の必要性が説かれ、そしてモデルにイギリスの動物遺伝育種研究所を挙げておられます。(もちろん動物の遺伝育種に関してですが)


 研究に独創性(オリジナリティ)が重要であることは昔からのようです。しかし、実際そうでなかったのも昔からのようです。


 戦争に敗れた後、博士にとって反省される点はその独創性であったのかもしれません。
 
 皮肉な話です。増井博士のように独創性にみちた研究をされた方は日本には数えるほどしかないのですから。

 

 この記事は平成23年11月20日に作成しました。

 『科学者の夢』と題して文章をかかれました方は、日本畜産学の世界でも5本の指に入る増井清博士であります。「畜産の研究」第1巻。


 時は、昭和21年です。もしかしたらこの年の9月16日に行われた三島での講演会でお話されたのかもしれません。

 昭和21年は、終戦直後の混乱期です。闇市は賑わい、汽車は買出しの都市民であふれ、多くの国民は夢や希望もなくただ日々を生きることに精一杯の状況でした。
 もちろん学者も当時の記録では研究よりも菜園管理に時間をかけていたようです。食べる物がなかったのです。


 この状況下、増井博士は遺伝学研究所設立に向けて運動しておられました。それだけなく自身が設立されました養鶏研究会の再開の仕事もありました。食糧増産は急務でした。


 鶏研究の第一人者であります増井博士がこの時書き残されました『科学者の夢』です。

 

 この記事は平成23年11月18日に作成しました。

増井博士の望郷の念

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 増井博士がご自分の事(幼少期)を書き残された記事は私が確認した限りで3点です。

 年代順で行きますと、
 「鶏の改良と繁殖」 昭和22年12月30日発行 序言

 雑誌「遺伝」6巻  昭和27年  「思い出」

 長田南小学校90周年記念誌 昭和52年 「幻児の思い出と年寄りの願望」


 この中で文中に博士のお母様との思い出が出てくる記事は「鶏の改良と繁殖」と長田南小学校90周年記念誌であります。一番楽しかった頃の思い出ではないかと感じられます。


 既に実家であります満寿一さんは小坂から現在の山崎へ移転されておりました。東京で研究や講習に忙しい博士が実家の去った後の小坂に立寄る事は無かったのでしょう。

 
 たまたま、遺伝学研究所候補地として静岡市の大岩、聖一色、用宗を視察した時、故郷小坂の山を見て(もしかしたら立寄ったのかも知れません)、幼少期母親と一緒にすごした時の事を懐かしく思い出し記事にしたと思います。

 「鶏の改良と繁殖」序言。昭和22年6月に書かれております。(財団法人遺伝学研究所設立直後です)

 静岡市小坂にいた頃の話です。

 

 この記事は平成23年11月7日に作成しました。

 財団法人 遺伝学研究所の設立と共に発刊が決定されておりました、普及雑誌『遺伝』の創刊号です。現在も刊行されております。


 写真が記念すべき第1巻のコピーです。(本物は農獣医学部附属図書館蔵です。)

雑誌「遺伝」

 

 増井清博士が「遺伝」の刊行にあたって、と寄稿されております。ちょっと長いですが紹介します。
 一部コピーミスでかすれて読めない部分がありますがそこは飛ばします。今、また藤沢の農獣医学部図書館まで行く暇がないので・・・・。

 

 この記事は平成23年11月6日に作成しました。

 昭和22年1月、竹中博士は国立遺伝学研究所設立請願に関する事務を遺伝学会長増井清博士から懇望され、引き受けられました。

 これにより請願その他に関する事務が統一され、順次軌道に乗ってきた。

 と、竹中博士の記録にあります。

 
 宮山事務官の記録です。

 三島の候補地の折衝及び静岡市に対する交渉も活発に展開されていった。これらの仕事の立回りを引き受けて竹中さんが登場したのはそれから間もない事であった。例の引揚者を標榜した向う意気強い姿が2,3日おきには現れて、書類の調製その他連絡が促進された。


 竹中博士のおかげで、現在でも国立遺伝学研究所の設立にいたる記録を見ることができるわけです。当時でも竹中博士のお仕事は地味ながら非常に重要なお仕事でありましたことが分かります。


 さて、候補地は三島に決定いたしました。しかし、まだ静岡市でも会議が開かれております。その記録を紹介します。(竹中博士の記録です)

 

 この記事は平成23年11月6日に作成しました。

 昭和22年4月28、29日の両日神戸にて4特の第16回会議を開き、財団法人遺伝学研究所設立を急ぐこと及び普及雑誌『遺伝』を発行するよう努力する事が決められた。
 (竹中博士の記録)


 5月末には設立が許可された。基本財産70万円(内20万円は中央馬事会より寄付されたものです)。

 この中央馬事会よりの寄付には、松村真一郎氏と増井清博士の努力によるところが大きかったようです。
 
 当時は、獣医学科卒業の方は馬産の関係に多く行かれたようです。松村氏は中央馬事会の会長を勤められた方。昭和22年緑風会所属の参議院議員として活躍されます。竹中博士の記録にも何度もお名前が出てまいります。増井博士も松村氏の尽力を30周年記念誌に書かれてます。


 終戦直後の物も金も無い中、干天の慈雨に等しい中央馬事会からの寄付でした。

 遺伝学研究所の意義に協力したと言うより、遺伝学研究所設立に携わる方々に助力されたのではないかと思えてきます。(人柄・・・と思っています。)

 

 この記事は平成23年11月5日に作成しました。

 国立遺伝学研究所候補地の視察から数週間後、日本遺伝学会 静岡大会の2ヶ月前。

 昭和21年9月16日、増井清博士と佐々木清綱博士は三島市において畜産関係の講演会を行いました。この講演会がきっかけとなり、養賢堂の『畜産の研究』が発刊される事となりました。


 畜産の研究は昭和22年発刊されました。第1巻には佐々木博士の三島での講演記録であります、「日本の畜産とその将来」が掲載されております。

 増井博士の記事は「家畜を中心とする性の問題」です。この記事は5回に渡って掲載されておりますから、おそらく講演の内容とはちょっと関係ないのかもしれませんが。(内容がかなり難解です。農家を前にして話すには・・・。なのでおそらく鶏の育種についてお話されたと思います)

 性の研究(間性について)は増井博士が専門にされている分野です。日本農学会賞を受賞した研究が鶏の間性です。

 この時増井博士は、日本畜産学会の会長もされています。遺伝研候補地の三島の農家に少しでも遺伝研の必要性を肌で理解してもらおうと企画された講演会ではないでしょうか。

 

 この記事は平成23年11月4日に作成しました。

 ずいぶん長い質問でした。これ読んでみないと分かりませんが、読んでみても分かりにくい文章です。コピーの文字がかすれて見難い上に旧字体を使っています。また、言い回しも(慣れてきましたが)なじみの無いもので・・・大変です。

 竹中博士が簡潔にまとめてくれております。


 寺尾博士の優生問題の調査研究には国立の研究所が必要ではないかとの質問に対し、河合厚相及び和田農相は国立遺伝学研究所の設立は望ましいと答えたが、田中文相は国家が学問的研究をすることは官僚が主体となることになる幣があるから、学者が研究主体となり、官僚は助成連絡にあたる方がよいではないかと答えた。


 田中文相は、田中耕太郎法学博士です。後に参議院議員となり緑風会に所属します。


 簡単に書いてある方が楽ですが・・・1次資料を挙げないと何か苦労しないで書いているようで・・・参考までに。

 長いです。質問も長いが答弁も長いです。事前に答弁書を作成しておかないとこんなに長く答弁できないと思いますが。


 
 竹中博士の記録によりますと、

 12月27日増井研究室(東大農学部畜産学教室)に増井・木原・古畑・和田の4博士と宮山事務官が集まり、第2回遺伝学研究所設立準備委員会を開いた。主として田中文部大臣の意見に対処してであった。また予算委員長竹田儀一氏の助言を参考にして議を練った。

 とあります。

 遺伝研30周年記念誌にあります増井博士の寄稿に田中文相の意見が出てきます。たぶん、同じ考えをお持ちだったのでしょう。

 

 この記事は平成23年11月3日に作成しました。

 今日は雨です。

 

 キウイの剪定はお休みです。

 同級生K君の手伝いがありますから先週と同じくトウモロコシの播種をお願いします。

 

 私は、午前中シソの植え替えと、播種を行い、午後は、試験栽培を行うミニトマトの鉢上げです。

 現在、聖一色出身の寺尾博博士を調査しておりますが、博士の残された言葉に「品種の絶対性」と「品種の相対性」の2つあります。(もちろん他にも多くありますが)

 この二つの言葉の意味は著書に書かれておりますが、私はこの言葉を圃場にて実体験しないと気がすまない性格でありますので数年前より実験しているトマトの品種で昨年試してみました。

 なるほど、と僅かではありますか寺尾博士の言葉の意味が分かってまいりました。今年はより確実に示せるような標本を作らなくてはなりません。そういった意味もありまして今年は昨年に増して試験品種を増やしました。(栽培予定品種はまた紹介します)

 どのような実が収穫できるのか今から楽しみです。

 

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 ようやくこの記事がかけます。

 順を追って書いていかないと何を書いているのかわからなくなるのが私の欠点で、やっと寺尾博博士を紹介する事できます。

 これまでも、おそらくこれからも寺尾博士のお名前は遺伝研(遺伝学)だけでなく、農学の分野でも取り上げられる事はほとんど無いでしょう。

 静岡市の生んだ最高の農学者(育種学)は寺尾博博士であります。浅学な私が調べた限りですが・・・現在においても寺尾博士に匹敵する方はおりません。(博士号をもっている方は沢山いるようですが)


 この時寺尾博士は農事試験場を退職され貴族院議員(現 参議院議員)となられました。会派は「緑風会」です。この遺伝研の影の協力者(言い方が・・・?)には緑風会所属の議員の方が幾名かおります。また、紹介します。

 
 時は、昭和21年11月29日 貴族院本会議です。議長は徳川家正公爵です。

 答弁する大臣は、河合良成厚生大臣、和田博雄農林大臣、そして田中耕太郎文部大臣です。

 とにもかくにもながーい文です。

 

 この記事は平成23年11月2日に作成しました。

 昭和21年11月 第18回日本遺伝学会大会が静岡市で行われました。この時の日本遺伝学会長はもちろん増井清博士です。


 静岡のどこで行われたのか不明です。遺伝研静岡候補地の視察は8月に行われました。わずか3ヵ月後の11月に静岡の戦災が復旧されているわけはありません。

 焼け残った市役所(現 旧館)を使用してのでしょうか。それとも静岡中学か高校の校舎を使用したのでしょうか。興味を持って日本遺伝学会誌のバックナンバーに目を通しましたが・・・、別にこれといって書かれていませんでした。

 竹中博士の記録です。
 幹事会において、国立遺伝学研究所設立についての今後の方針が討議され、昭和23年を期して実現するよう努力する。しかし万一を考えて、とりあえず財団法人の研究所を設立しようではないかということになった。


 宮山事務官の記録では、幹事会が開かれた旅館は「旅館 杉本」です。現在はありません。

 

 この記事は平成23年11月2日に作成しました。

 

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 遺伝研の候補地は

 善通寺第11師団跡地
 日光、伊香保、大宮の御料地
 静岡市郊外
 三島市中島飛行機谷田工場跡地

 でした。

 このうち特に誘致に熱心だったのは善通寺です。昭和21年5月22日に小熊博士宛に善通寺町長松浦慎吾氏が手紙を送っております。古里氏の記録では木原博士と共に善通寺師団跡地を視察に行かれております。

 
 しかし、静岡と三島が選ばれました。これには、小熊博士が3つの条件を挙げております。(5周年記念誌)

 

 この記事は平成23年11月1日に作成しました。

 昭和21年8月10日、増井清、田中義麿、木原均、古畑種基、和田文吾の5博士と古里氏は静岡駅に集合し、出迎えの市の職員の案内で宿舎に入る。翌11日には市長に面会し、市の郊外の敷地予定地を視察した。そして午後は三島に立ち寄り、花島周一氏の案内で谷田工場を視察した。


 と、竹中博士の記録に見えます。

 まだ、静岡大空襲で焼け野原になった中心街の再建ができておりませんでした。私の祖父の復員が昭和21年(何月か?)です。静岡駅から浅間さんが見えたといいます。ろくな建物が残っていなかったから市の宿舎に1泊されたと思います。

 当時の市長は宮崎通之助市長です。(静中出身です。増井博士の先輩になります)

 


 後に浜松フラワーパークの園長になられた古里和夫さんの記録を参考に書いていきます。(30周年記念誌)

 

 この記事は平成23年11月1日に作成しました。

 終戦と共に、我国文化再建の一翼として先ず遺伝学研究所を作るべであるとの運動が小熊捍博士の手紙によって開始され、文部当局においても熱意を以て遺伝学会に協力される気運となった。

 この小熊博士の手紙は宮山平八郎事務官の手記によりますと昭和20年11月17日付となっております。終戦後3ヶ月で活動が始まりました。


 幾つかの候補地が選ばれ、検討されました。

 善通寺第11師団跡地
 日光、伊香保、大宮の御料地
 静岡市郊外
 三島市中島飛行機谷田工場跡地

 
 昭和21年4月、日本遺伝学会に遺伝学研究所設立準備委員会ができ、この委員会の名をもって「遺伝学研究所設立についての依頼の件」を文部省に提出し、設立の趣旨及び計画案を述べた。(竹中博士の手記より)

 この時の日本遺伝学会長は増井清博士であります。

 

 この記事は平成23年10月31日に作成しました。

 この小冊子は、小熊捍博士が作成されたものです。20pの小冊子です。こちらは私も入手することが出来ませんでした。静岡県立図書館はもちろん大学図書館にも蔵書がありませんでした。唯一国立国会図書館にはありました。まだ、未見です。


 昭和14年、第12回日本遺伝学会の役員会において小熊博士が国立遺伝学研究所設立の緊要なるを説かれ、役員一同協力して、この設立に邁進する事を申し合わせた。


 同年12月、小熊博士はこの小冊子を作成し、議会の要人に設立の要を説かれました。特に笠井重治代議士は熱意を持って各方面に働きかけ、その結果議会の質問にまで進み、時の総理大臣 米内 光政予備役海軍大将より考慮するとの答弁を得た。

と、竹中博士は記録されております。


 しかしこの時期は、昭和12年に起った支那事変が泥沼化し日中戦争にまで発展しておりました。当時の首相近衛文麿の思慮の無い一言「帝國政府は爾後国民政府を対手とせず」の声明により終りの無い戦いへと邁進しました。

 軍事予算は青天井となり、他に振り向ける予算が縮小されました。陸軍の予算の半分は弾代として中国戦線に消えていきました。文人が終わらなくさせた戦いでした。上海陣地群突破戦で数千人の死傷者を出した静岡連隊の苦戦も報われなくなりました。

 
 貴重な人命と膨大な予算が中国大陸に吸い込まれていきました。

 国に予算無く、国民の心に余裕の無い状況でありましたが、小熊博士以下賛同された博士方は運動を続けました。

 この記事は平成23年10月31日に作成しました。

遺伝学研究所設立の為の特別委員会が『第4特別委員会』です。

 これは、学術振興会の内につくられました。


 この略称「4特」のメンバーの記録が記念誌には無くかなり探しました。ようやく東畑精一博士編集の「日本農業発達史 第9巻」に記載がありましたので紹介します。


 
 始まりは、昭和13年の秋、人物は北海道帝国大学教授「小熊捍(まもる)博士」です。

 小熊博士は、学術振興会学術部次長でありました波多野員夫理事に、遺伝学の基礎的研究の重要性を強調してその了解を得、第7、第8及び第12の常設委員会のそれぞれの委員長、柴田桂太、坂口康蔵、岩住良治の3博士を歴訪され、遺伝学研究の特別委員会を作るべく奔走されました。


 この小熊博士の運動が、国立遺伝学研究所設立に向けての一番最初の活動でした。(まだ、この時には遺伝学研究所とは出ていませんが)

 
 この活動は、3年後の昭和16年4月に「第4特別委員会」として学術振興会内部に設立されました。内容は「遺伝の理論及びその応用」です。

 

 この記事は平成23年10月31日に作成しました。

 「国立遺伝学研究所ができるまで」これは昭和34年4月23日、竹中要博士が遺伝学研究所10周年の記念特集としてまとめられたものです。

 

 竹中博士は、昭和22年1月に当時日本遺伝学会長でありました増井清博士より研究所設立嘆願の事務を懇望され引き受けられました。竹中博士はそのときの記録を基にこの記事を残されました。


 私が参考にした竹中博士の資料は、「創立25周年記念誌」に再収録されていたものです。

 また、多くの方が国立遺伝学研究所の設立に至るまでの苦労を書き残されております。

 当時、文部省大学学術局研究助成課 宮山平八郎事務官の記録。雑誌「遺伝」に寄稿されております。

 また、当時はよく創立記念がおこなわれたらしく、「創立5周年」、「創立30周年」と記念誌が発行されております。この2冊は三島市立図書館に所蔵されております。静岡県立図書館には「創立25周年記念誌」のみです。こちらにも当時の記録が良く残されております。

 
 これらの資料を基に、他の資料を付け加えて国立遺伝学研究所が出来るまでをまとめてみます。

 静岡の方必見です。静岡が舞台です。そして中心の博士の内2名が静岡市出身の方です。(正確に言えば安倍郡です)

 もちろん、お名前は「寺尾博 博士」、「増井清 博士」のお二人です。


 仕事の都合上、てきぱきかけませんがお付き合いください。遺伝研設立までの10年の苦労の記録です。

 この記事は平成23年10月30日に作成しました。

 

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 待ちに待った県立図書館の開館です。耐震工事のため休館しておりましたが、本日より開館です。

 

 本日はキウイの剪定をしながら配達が待ち遠しくて仕方がありませんでした。

・・・・・。

 私は酒を飲む事よりも本を読む事でストレスを発散するタイプのようです。

 

 県立図書館に到着した時間は・・・6時です。あと1時間で閉館です。いそいで車を降りて階段を駆け上がります。県立図書館へ来る時はだいたい時間ぎりぎりですからなれたものです。

 調査予定資料は事前にリストアップしてありますから後は書庫から出してもらうだけです。コピーの時間を計りながら書庫から来た本に目を通します。真剣勝負です!。目がマジになるときであります。受験勉強をしたことのない私でありますが、受験生はこのような精神状態ではなかったのかと想像する時であります。

 

 今回の調査のメインは、寺尾博博士であります。お彼岸ですから(理由になりませんか?)

 収穫はありました!。

 増井淳一博士は昭和26年東北大学理学部岩石鉱物鉱床学教室から農学部農林立地学講座に助教授として移られました。初代の教授は内山修男教授です。

 内山博士の文より当時の東北大学農学部の状況が見えてきます。

 ビーカー、試験管などの実験器具がない。試薬がない。本もなければ研究費もない。ないない尽くしの何もない状態だったようです。この状況の中、内山博士と増井淳一博士は学生を教育し研究を続けました。

 状況の改善が見られたのが昭和32年。昭和35年アメリカでの国際土壌学会において火山灰土壌の粘土分についての注目されうる発表が行われました。

 

増井淳一博士

 

 どことなく増井清博士に似ておられます。まあ、親子ですから。

 淳一博士の事故は私が小さい頃聞いた事があります。ただ誰がと言う話は覚えていなかったので昨年より調査しておりまして・・・あ、あの方が淳一博士かと再認識しました。

 奥様は現在仙台にお住まいになられておるようです。震災後瑞応寺さんが心配され連絡を取られているようで、御無事のようです。

 

 この記事は平成23年9月17日に作成しました。

 増井清博士と共に日本畜産学会設立の中心人物になられたかたです。

 明治23年3月生まれ、広島県出身です。

 東大農芸科学部に所属し、遠州出身の世界的な碩学鈴木梅太郎博士の助手になられました。(どっちにしても静岡と縁のある方です・・・遠州と駿州です)


 資料が少ないのですが、鈴木幸三博士の恩師、鈴木梅太郎博士の御進講の要旨と、愛弟子になります、西川哲三郎博士の著書より紹介します。

 

鈴木幸三博士

 鈴木幸三博士は、昭和11年11月30日 台湾にて逝去されました。享年47歳。

 足指の傷がもとで敗血症を起こされ亡くなりました。

 剛毅・果断・俊敏・緻密等の形容詞は氏のためにできたような人柄であった。と西川博士は書いておられます。

 初期の日本畜産学会誌にはよく論文が掲載されております。惜しい方を早く無くされました。

 この記事は平成23年9月17日に作成しました。


 静岡市駿河区小坂瑞応寺には、増井博士は二人祭られております。

 お一人は、もちろん増井清博士です。

 もうお一方は、東北大学農学部農林立地学講座第2代教授 増井淳一理学博士です。

 
 増井淳一博士は昭和50年1月2日不慮の事故にて亡くなりました。後任が庄子貞雄博士です。

 『東北大学農学部 35年の歩み』を拝見いたしますと、農学部附属圃場の川瀬火山灰土壌中の主要鉱物がモンモリロナイトであることを昭和35年米国ウイスコンシンで開かれた第7回国際土壌学会で発表され、大きな反響を巻き起こされたようです。

 増井淳一博士の論文は検索できます。共著者が庄子博士、三枝博士、南條博士のお名前も見えます。(御三方共にに土壌学会会長経験者です。)私は三枝博士の著書よりセンチュウの知識を得ました。南條博士の論文より水田土壌中のリン酸の肥効についての知識を得ました。


 当然ですが、増井淳一博士が不慮の事故にて亡くならなければ土壌学会会長になる方であったことは疑いようもありません。また、著書が1冊もないのは非常にさみしい限りです。(論文の数は多いのですが)

 私も10年ほど前から日本土壌肥料学会会員の末席におります。もちろん増井淳一博士のお名前は全然知りませんでした。論文、わずかな資料を散見いたしますと実に惜しい方を早く亡くされました。増井清博士の嘆きの声が聞こえてきます。

 

 この記事は平成23年9月16日に作成しました。

 この記事は平成23年8月14日と15日に作成しました。 

 本日9月14日は、この静岡市駿河区小坂ご出身の増井清博士の誕生日であります。

 博士が御存命なら今日で124歳であります。(・・・とすると私の曽祖父は120歳になります)

 古くは遺伝学の基礎を築いたメンデルは生誕百周年が行われたようです。農芸化学の基礎を築かれたエルンスト・フォン・リービヒ博士も生誕200周年が行われたようです。


 増井博士は93歳まで長生きされましたから、100周年は無理でも・・・まあ博士自身はあまりこういうことはお好きではないので・・・・。(たぶん)

 奮闘の末、なんとかシバ刈りを終了させました。

 

 場所は、早生ミカンと青島ミカンの植えてある山です。手がむずむずしてきます。どの道この園地のミカンも剪定しなくてはいけません。感が鈍っていないか心配になります。

 

 早速鋏とのこぎりを腰につけて剪定を始めます。

 ・・・・・。

 切れます。切る枝が分かります。まだ感が鈍ってはいません。一安心したところですぐにキウイ畑に向かいます。こちらの剪定が先です。ぐずぐずしていると芽が出てきてしまいます。

 

 絡み付いた蔓を整理しながら少しずつきれいにしていきます。

 

 こちらはまだ先が長そうです・・・・・。

 

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 今日8月6日は、増井清博士の30回目の命日です。

 増井博士は明治20年生まれ、私の曽祖父と同じ世代です。

 博士について、私が祖父より聞いた話はあまり多くはありません。造り酒屋"満寿一"さんの出である事。鶏の初生雛鑑別を発見した人。鶏の研究で非常に有名な方であること。・・・このくらいです。

 博士の記録もこちらには何も無いので、昨年より昔の専門誌、論文等で調査を始めています。


 今日は、博士の命日に初めて参拝します。(博士の命日を知ったのは昨年です・・)

 下の写真はお盆の時(7月16日)、可愛い甥と姪を連れて行きました。(もちろん参拝の順番は最初に満寿一さんからです)

増井博士のお墓に参拝

 この日は非常に暑い日で二人とも真っ赤になって汗をだらだらかいていました。そのため帽子は取らせませんでしたが、博士も許してくれるでしょう。

 

 先日甥の佑太を連れて初めて博士のお墓にお参りに来ました。別に薄情ではないのですが、博士ほど高名な方のお墓へはなかなか近寄れず、遠くから目礼するだけでした。

 ところが、初めてだと思っていましたら私の祖父が私をここに連れて来た事がありました。もちろん小さい頃です。佑太が座っているように私を座らせて博士の業績を話してくれました。

 ・・・・。

 今頃になって思い出すとは。

 この記事は平成23年8月6日に作成しました。

 タイプがあまりうまくないので。

 

 ようやく最後の総括(考察)の部分です。岩田氏の伝書鳩の鑑別の概略についても紹介します。


 増井博士らが鶏の鑑別法発表する以前に、岩田 巌氏が「伝書鳩の雌雄の鑑定法」を発表していました。

 
 家鴨(アヒル)のオスにも交尾器があることが、エレンベルゲル氏の論文で知られていたようです。

 

初生雛鑑別論文

 

 この記事は平成23年7月21日に作成したものです。

 

 

 かなり長いので3つに分けました。

 

 こちらで紹介するものは、
 3.初生雛の鑑別について
 (1)従来雛の雌雄区別の参考とせる事項
 (2)我々の雌雄鑑別法

 以上3項目です。こちらは雌雄鑑別に就いて説明されていますから紹介します。


 このような論文を調べていて、一般向けの本で書かれている内容に結構間違いがありことが分かりました。これは、一次資料を確認していない事が原因でしょう。いくら関係者が書いたものでも、誤認、誤記がつきものでありますから。(歴史の本ではいくらでもそういう事例があります。特に戦争関係のものは・・・)。

 ・・・・確認しながら整理していますが、やはり誤認があります。分かり次第修正していきます。

 

初生雛鑑別論文

 

 では紹介していきます。

 この記事は平成23年7月20日に作成したものです。

 初生雛鑑別の研究・・・鶏のヒナの雄雌の判別(やさしく言うとこんな感じでしょうか)

 

 昭和12年に発行された、増井清著『初生雛雌雄鑑別の研究』より抜書きします。

 雌雄鑑別の研究は大正10年著者が農林省畜産試験場において、家畜家禽の遺伝及び繁殖に関する事項の研究を委託された時に、橋本重郎及び小川敏夫の両氏と共に着手したのである。小川氏は研究の中途において朝鮮に転任され、大野勇氏が代わって助手としこの研究を助力されることになった。大正14年第1報として初生雛雌雄鑑別の理論と応用についてその一端を発表することが出来た。この報告は現今の研究応用共に完成に近づいた時から観れば、鑑別理論の大要と応用の可能とを説明したに過ぎなかったけれども、雌雄鑑別技術の基礎は既に第1報によって確立されたのである。

(最初は大野さんではなく小川敏夫さんが助手を勤めておられた事が分かります。)


 増井博士が雌雄鑑別の研究されたのが大正10年。第1報の論文が完成したのが大正13年。発表されたのが大正14年でありますから、間違いなく第1回日本畜産学会の大会(大正14年4月1日 場所は青山会館)です。

(雌雄鑑別の論文は大会の前日、3月31日に新聞に発表されたと小島学さんの記事で分かりました)


 この研究は、明治維新以来欧米列強の後塵を拝してきた日本の畜産学界が、初めて世界に放った一発でした。


 これが第1報のコピーです。

 

初生雛鑑別論文

 

 古い字体の漢字とカタカナの論文です。意味を変えないように注意しながら今の字体、言葉で書きます。(上手に出来ませんがご了承ください)

 図表を含めて11ページです。(長いので3つに分け、一部略します)

 

 この記事は平成23年7月20日に作成しました。

日本畜産学会 設立

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大正13年(1924)6月、日本畜産学会が設立されました。

 会長は岩住良治博士。会員は約180名です。

 このときの役員の名簿です。

 コピーですが・・・。

日本畜産学会役員名簿

 この時増井博士は37歳です。鈴木幸三博士のお名前もあります。鈴木博士は庶務のほうを担当されたようです。学会報の編集、発送は増井博士の研究室で行われていました。
 

 ただ、会員数が180名しかなく資金の余裕もありませんでした。(会費は年6円)最初の学会報発行は増井博士と鈴木博士が経費を負担されました。鈴木博士はその後もなにやかや負担をされていたようです。(会計の問題は戦後まで尾を引きました・・・)
 

 昭和7年に事務所を東大に移すまで畜産試験場で実務が行われていました。


 さて、この日本畜産学会報第一巻は大正13年9月10日に発行されました。第1回の大会は翌14年4月1日、青山会館にて行われました。

 この記念すべき第1巻の目次です。

 この記事は平成23年7月19日に作成いたしました。

日本畜産学会設立前夜

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日本畜産界が世界に誇る『初生雛鑑別技術』。この技術の基礎になる論文『雄鶏に於ける退化交尾器並びに初生雛の雌雄の鑑別に就いて』(増井・橋本・大野)が発表された舞台が、第一回の日本畜産学会であります。

 


 この日本畜産学会の設立に関して以下の資料からまとめていきます。当時の畜産界の状況、獣医学徒と畜産学徒の対立・・・、今では考えられない事、今でも十分ありえることなど、なかなか面白い事が記載されております。

 参考にする資料は、
 日本畜産学会誌 30周年記念号、50周年記念号。
 『畜産昔話』 (岩住、石崎共著、昭和27年)
 『飼料に明け暮れ50年』 (西川哲三郎著、昭和50年)

 
 増井博士は、著書、(雑誌)記事の類では畜産学会についてお書きになっておられなかったので、漫然と私は昔からあったものだと思っておりました。(昭和49年の座談会は除く)

 研究発表する場を作るにも博士、ずいぶん苦労されております。


 日本畜産学会設立の中心人物は、鈴木幸三農学博士(鈴木梅太郎門下)と増井清獣医学博士のお二方です。

 この記事は、平成23年7月19日作成しました。

 今年の8月6日で、増井清博士が逝去されてちょうど30年になります。

 

 増井博士は、ヒナのオス、メスの識別・・・初生雛鑑別技術の開発の第1人者です。日本畜産学会と日本遺伝学会の学会長を務められ、昭和24年に学士院会員にに選出されております。現在あります、三島の国立遺伝学研究所設立にも尽力されました。

 世界的に有名な動物遺伝学者であります。

 

 この小坂はもちろん長田地域(昔、この地域は安倍郡長田村と呼ばれていました)、全体でも増井博士に続く大学者は輩出しておりません。

 ・・・・静岡市でもどうでしょうか。


 増井博士についての記録はこちらには全く残されていないので、昨年の7月より博士に関する調査を始めました。丁度1年になります。

 
 今月、静岡ではお盆になります。博士もこちら世界に帰ってこられるので、私が調べた範囲ですが増井清博士の記録を紹介していきます。

 
 写真が入手できなかったのでコピーより写しました。

増井清博士

 増井博士の年表を作りましたので参考までに紹介します。

 この記事は平成23年7月8日作成しました。

 少しずつ新しいブログにも慣れてきました。

 別に特別な事はする必要がないのでありますが、畑違いの作業は非常に重荷となります・・・・。

 

 旧ブログの方の記事も幾分かデータ移動時に破損しているようであります。こればかりは仕方がありません。バックアップはとっていないので・・・なくなればそれっきりです。

 

 それでも時間をかけて書いてきた記事でありますからこちらの方へ移動させます。

 

 分かりやすいように(私が)項目ごとに移動させていきます。

 

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 野菜の出荷と並行して、畑には除草剤散布、急斜面の草刈を行います。

 

 まだ、キウイの剪定が終わっていませんが先にこちらの作業を終わらせないと後で・・・凄い事になります。

 除草剤散布も傍目で見るほど楽な作業ではありませんが、草刈はより楽ではありません。本日草刈を行っている園地は、早生ミカン園です。

 あまり手をかけていませんでしたが、今年こそは本業に従事しないと・・・心が痛みます。

 

 この作業どのような場所で行うかといいますと・・・写真を撮ってきました。

 今年はスイカの販売は行いませんが、マクワウリには力を入れます!。

 

 栽培するマクワウリの品種の主力は、「銀泉マクワウリ」です。

 

 他に、路地メロンですが神田種苗の「日本一」とニューメロンを少々栽培します。

 

 ニューメロンはプリンスメロンの片親になった食味が比較的良好なマクワウリです。(生食用です)。各種苗会社ごとオリジナルの系統を販売しております。家庭菜園をお持ちのかたはお試しください。もう少ししたら昨年の比較写真を公開します。

 

 ただ、このニューメロンは非常にメロンに似た形状をしているので(外見はほとんどプリンスメロンです)、静岡では・・・・甘くないメロンという不本意な評価になってしまいます。そのため生産量は減らしました。主に試験用です。

 

 こちらは、贈答用も視野に入れた路地メロン「日本一」です。

 

 

 

IMG_4826.11.08.10.nihonnichi.JPGのサムネール画像 

 

 旧ブログの方の記事が・・・破損しておりまして、キャッシュのデータを取っておいたのですがこちらもまただめでした・・・。

 

 辛い事をまた書くのか・・・・・・・・。

 

 本年はスイカの営利栽培を中止いたします。

 

 理由は、販売しにくい商品であります。遠距離の配送時における破損、お客様の好み(こちらはスーパーですが)などなどを考慮いたしますと、マクワウリとトマトの増産の方が現状においては合理的と判断いたしました。

 

 昨年、お求めくださいましたお客様、お問い合わせくださいました方、誠に申しわけございませんが本年はスイカの販売はいたしません。御了承ください。

 

 ただ、ここ幾年か研究しておりますので圃場の一部をスイカ研究圃場として本年も試験栽培は行います。こちらの方はまた記事にい�

 先日栽培計画を紹介いたしました。  お客様の声を重視して栽培品目を選んでまいりました。今年はトマトがメインでありますもので・・・その・・・葉物野菜の品目を絞らなくてはならなくなりました。  ・・・御了承ください。  

 

 本年の葉菜類の栽培予定品目です。 葉菜類  ロメインレタス(秋〜初夏) 島チシャ(春〜秋) チジミ菜(周年) アイスプラント(秋〜夏) ビート(初夏〜秋) キャベツ「あまだま」(冬〜春)栽培面積を増やします。オカワカメ ハーブ類(ルッコラ、バジル、ローズマリー、タイム、ミント、イタリアンパセリ等)  以上の品目となります。

 ハーブ類を除いて7品目です。  

 

 モチナは・・・・生産を中止します。  「モチナを食べたら病み付きになっちゃって」・・・と仰って下さった方、誠に申しわけございません。  御説明申上げます。

 

 こちらの記事は再アップしたものです。

 私が家に入り農業を始めた頃はミカンと梅を主力としていたので別に栽培計画自体は必要ではありませんでした。  

 その後野菜(トマト、葉物野菜など)の栽培をはじめるようになってからは絶対的に必要になりました。最初からこの必要性に気がついていたことは当然ですがその計画に必要な要素が未知でありましたので・・・すぐに修正をしなくてはならない幾年でありました。  

 

 その要素とは、需要のある品目と数量(販売先)、生産可能な時期、品種、収量(生産地)、そして当然コスト(出荷、生産、手間も含みます)であります。  重要度からいけば、お客様の嗜好もありますから需要が大きい要素となります、次いで私の手間の及ぶ範囲となります。そうしてだんだん輪を小さくしていって圃場への割り振りを行って決定です。  

 

本年はスイカに関して残念でありますが営利的な栽培は行いません。

こちらの記事は再アップしたものです。

除草剤散布

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 今日は出荷をお休みして畑と山の畑に除草剤を散布します。

 

 ・・・・?。

 有機栽培愛好家の方々が目をむく言葉です。仕方がありません、手で取る余裕がありません。

 

 使用薬剤は、プリグロックスです。かかった部分が枯れる即効性のある除草剤です。2,3日で効果が分かります。草が枯れた後、施肥・耕運してマルチを張ります。

 

 マルチには(ビニール黒マルチ)、昨年は非常に助けられました。草を抑えるだけでなく水もちも良いので省力化に最適です。マルチを張る手間が大変ですが今年は使用面積を増やします。後で除草剤をかけることを思うと・・・安心です。

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生物学ブログ 

 ブログの方はお休みしておりましたが野菜の配達は順調に続いております。

 

 キミサワグラッテ大谷店には、ロメインレタス、島チシャ、ルッコラ、チジミ菜、モチナ、ハーブ各種配達しております。

 

 生で食べても美味しい野菜を、新鮮・安価で御提供しております。是非キミサワグラッテ大谷店にて御利用ください。

 今年の栽培計画は、野菜の旬 を重視して計画いたしました。作りやすさこそ、安心・安全・安価の野菜生産の鍵であります。やまひこ農園では、様々な品種を収集し試作した中からお客様の嗜好に合った野菜(品種)を選択し栽培してまいります。

 

 栽培計画につきましては、再アップいたします。

 

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 ブログ村 

 

 

 何とか安心してブログを書いていけそうです。

 

 ブログを新しいプランに対応したソフトにしたので以前の記事を引き継げない為、前のブログはそのまま残しております。

 また余裕を見て前の記事をこちらのブログへ再アップいたします。(農作業ともろもろの調査の合間を見計らって行います)

 記事の一部はデータ移動時に破損してしまいましたのでこちらも優先して復旧予定です。

 今度のブログの方が文字を大きく出来るので見やすいので私は気に入っています。

 

 以前のブログと同じくこちらもよろしくお願いいたします。

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 サーバーのプラン変更のためブログを一時休止しておりました。

 

 ブログ作製ソフトが古いので新しいプランには適応できない事が分かり、こちらも新しくいたしました。

 

 今度のプランはディスク容量が以前のものに比べておーーーー幅に増えておりますので、これで残量を気にしないで画像をアップできます。(やっと安養寺晋山式の記事がかけます)

 

 まだ、こちらのソフトに慣れていないのでしばらくは若葉マークをつけてぼちぼち書いていきます。

 

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