日露戦史の最近のブログ記事

 落合参謀長遺族の抗議を受けて司馬遼さんも再度文献を当たり訂正文を発表しました。

 全集28巻の巻末にある月報に記事があります。題名は「首山堡と落合」です。(文庫版にもあるようですが私は未確認)

 読んでみますと驚くことが!。

 司馬遼さん公刊戦史を入手し読んでおられるのです!。(全集お読みの方は既知でしょう)

 ・・・・が、しかし「坂の上の雲」を読んでも公刊戦史の影響は感じられません・・・。私は遼陽の記事だけでしか詳しく読んでいませんが、公刊戦史が参考にされた形跡は全くありません。落合参謀長のご遺族より抗議を受けたことも公刊戦史を参考にしなかった故です。落合参謀長のくだりだけは司馬遼さんの創作でしょう。

 ではなぜ司馬遼さんは公刊戦史を軽視したのでしょうか。

 私の想像では、この「坂の上の雲」は司馬遼さん風の「真相はかうだ」ではないでしょうか。

 終戦後GHQよりラジオ放送された「真相はかうだ」は、戦争の真相を発表し大本営発表に騙されていた国民の関心を引いたようです。もちろん私は聞いたことはありませんので、古書よりもれ知ることぐらいがせいぜいです。しかし、このラジオ番組「真相はかうだ」は、信憑性があるとは言えないうわさ話や中傷(匿名の投書)を元ににしていたため、現在では参考にされることがありません。当時は大本営発表自体が虚構であったために多くの国民が耳を傾けたことは無理もありません。

 この「真相はかうだ」は当時の司馬遼さんも関心を持って聞いていたのでしょう。それゆえに公刊戦史=大本営発表とし参考にしなかったのではないでしょうか。そのほかの古書より情報を集めそれを司馬遼さんの想像力でつなぎ合わせて「坂の上の雲」は作り出されたと考えています。司馬遼さんが博識であり一級の作家であるから可能であったのです。(そうでなければ事実だけ集めただけで力尽きてしまう・・・・実体験より)

 こちらは日露戦争当時の落合豊三郎参謀長です

落合豊三郎少将.15.02.06.

 優秀そうなお顔をされています。現実に士官学校の成績も優秀だったそうです。(当然陸軍大学でも)

 司馬遼さんの弁明書であります「首山堡と落合」より抜粋し紹介します

「坂の上の雲」が発表されて、落合豊三郎第2軍参謀長のご遺族が司馬遼さんに参謀長に関する記載に関して抗議しました。その経過に関して遺族の方が書かれた「落合豊三郎と孫子の兵法」という著書に記載されております。(もちろん抗議とは書かれておりませんが・・・。)

 こちらがその本です

落合豊三郎と孫子の兵法.15.02.06.

 この本は、2012年9月に購入しました。

 購入した理由は、關谷鉻次郎連隊長について書かれていないかと思ったからです。落合参謀長は旧士官学校で關屋連隊長と同じ3期です。陸軍大学では同期か關谷連隊長が1期上かわかりませんが、何か手がかりになることが記載されていないかと当時は非常に期待しておりました。

 ・・・・が、關谷連隊長については全く記載がありませんでした。

 それもそのはず、この本は司馬遼さんに対する抗議のために書かれたものであるからです。

 では、「坂の上の雲」で司馬遼さんがどのように落合参謀長のことを書かれたのでしょうか、全集より抜き書きします

 私のうちには父の購入した「坂の上の雲」が全巻ありますが、私は読んだことがありませんでした。確かハードカバーの本で1冊350円でしたから、父の購入した時期は私の生まれる前でしょう。

 中学校か小学校高学年位に一度ページを開いたことがありましたが、当時では難しすぎたのか、それとも私と相性が悪かったのか読む気がしないまま時がたちました。司馬遼さんの作品はそれなりに購入して読んでおりますが、なぜか今でも坂の上の雲は読む気になれません。

 それでも参考までにと県立図書館で司馬遼さんの全集から「遼陽」の項だけコピーして目を通しました。

 

 ・・・・・・・・・・。

 

 なんと申しますか、作家の作品に資料的な価値を求めては悪いのですが、これはかなりひどい作品であると感じます。同じ作家である児島襄さんの「日露戦争」のほうはそれでも公刊戦史に目を通してあることはうかがえます。(それでも私ですらわかる誤記・誤認があります)。

 司馬遼さんは公刊戦史にすら目を通していません。綿密な資料調査で有名な司馬遼さんですら気が付かなかったのか、気が付いてもあえて面倒であったのか判りませんが、日本の公刊戦史を参照されていないため時系列的に話が並んでいません。

 私が読んでみて、話があちこちに動いてしまっていて判り難い、話の前後に矛盾が生じていることがかなり気になりました。

 そしてそれ以上に個人攻撃がひどい。戦後進歩的文化人が行った中傷合戦と重なるような感じがしました。あまり細かい点を挙げていくと坂の上の雲のファンにやられる恐れがあるのでいくつかのみ挙げてみます

 静岡連隊の首山堡における戦いについては、私は祖父からの話で知りました。もちろん私の祖父は大正生まれですから日露戦争については伝聞です。

 關谷連隊長、橘大隊長の指揮の下激戦を行ったというものです。非常に簡略な祖父の話です。(当然ですが、私の祖父は日露戦当時生まれていないのです。詳しく知っているわけがないのです。)

 私の近い親戚に日露戦争に参加された方でもいれば別ですが、私の曽祖父の兄弟はすべて養子で跡取りとなっているので徴兵はされません。私の身内で日露戦参加者はゼロです。支那事変より対米戦にかけて、私の祖父を含め身内より多くの若者が出征しました。もちろん白木の箱で凱旋された方もおります。

 これまでの遼陽会戦における静岡連隊の戦いについての記事は、すべて古書より私が調査したものです。当時の生存者より聞き取りをする好機は昭和30年代が最後です・・・・・。ということは進歩的文化人と一緒に馬鹿学生(馬鹿教員)が大騒ぎをしていた時代であります。思うように生存者から当時の経緯を記録することは難しいようです。(その当時私は生まれていません)

 さて、現在まで一部の方々において語り継がれている静岡連隊の首山堡の戦いです。死傷者の数も第2軍の死傷者に占める割合が約2割。戦死傷者に占める戦死者の割合が4割を越す激戦でした。この数値がいかに異常なものかを含めて、静岡連隊各大隊の死傷者の数を統計より紹介します。

 

 奥大将率いる第2軍の遼陽の大会戦は、8月31日の首山堡防御線においての戦いがメインであります。この首山堡防御線を突破した事により遼陽会戦の勝敗が決しました。つまり決戦です。

 第2軍に於いては8月31日の戦いにおける戦死者がこの遼陽の大会戦における戦死者のほとんどであります。公刊戦史である「明治37,8年日露戦史」第3巻の巻末にあります資料より、第2軍の各部隊の戦死傷者数を紹介します。

 戦局に非常に大きな影響を与えた大決戦であった「遼陽会戦」ですが、旅順攻防戦や奉天会戦に比べると陰の薄い感じがします。海外的にも日本の宣伝下手のため大きな影響を与える事ができなかったようです。しかし、勝利は勝利です。この緒戦の大会戦に勝利しえた為にその後の戦いによい影響があったことは間違いはありません。負けていたら・・・・次はどうなったのか。

 これまで静岡歩兵第34連隊について紹介してきましたが、第2軍隷下の部隊の状況も比較参考までに必要だと思いました。他の部隊についてはよく調査はしておりませんが、人的被害に関しては資料がありますので紹介します。

 なぜ、静岡において8月31日が戦勝記念日として祀られてきたのか、その理由の一端がわかります。

 

 夏になりました。

 現在では敗戦の日である8月15日が記念日となっておりますが、戦前の静岡では8月31日が戦勝の記念日として陸軍墓地や護国神社などでお祭りされておりました。

 素人ながらその8月31日の記念日にあった出来事をまとめてみました。

 こちらは物語風に作りました静岡連隊の首山堡の激戦です。

静岡連隊首山堡の激戦 『24編まとめページ』

 

 もちろん上記の記事はすべて図書館や購入した古書を基に作成いたしました。決してファンタジーではありません。

 この記事では、記事を作成するに当り参考とした資料を示した記事を紹介いたします。

 順番が多少前後する所はありますが・・・・その点ご了承ください。

 13編あります。

 素人の戦史探求でしたが何とか続きページ24編、その他含めて計48篇のページで紹介してまいりました。

 見直していきますと・・・・ところどころ誤認・誤解が見えますが、まあ素人の調査ですので大目に見てやってください。(肝心な部分はそれほど間違いはないはずですが・・・・。)

 1篇~24篇までの続きページを見やすいように簡単な紹介を含めてリンクを張っていきます。

 

静岡県護国神社.12.09.06.

 写真は静岡県護国神社です。

 

 日露戦争3大会戦の一つであります遼陽会戦、首山堡の戦いが舞台であります。

 8月25日有名な仙台第2師団の弓張嶺への夜襲にはじまり、9月4日遼陽城占領まで、10日間の戦いが遼陽会戦といわれております。

 この10日間の戦いの内で、8月31日の首山堡の戦いを制したことで日本軍の勝利が決定しました。(9月1日未明完全占領)

 静岡連隊が死山血河の激戦をおこなった1日であります。

 「乃木将軍は無能ではない」、これは今村均大将が、当時新聞上で連載されていた司馬遼さんの「坂之上の雲」を読んで、反論の形で書かれたものです。新聞記事として発表されたものと今村大将の著書「私記・一軍人六十年の哀歓」に収録されているものの二つあります。

 新聞記事になったものと著書のものとはちょっと表現の仕方が異なります。こういうときは字数が多いほうを参考にするのが私の方法です。

 この記事は今までにない大山巌元帥と児玉源太郎大将の関係を紹介してくれてあります。

 

 旅順攻略戦は上原元帥に指揮を取らせれば犠牲が少なかったなどと書かれた記事も見たことがありますが、ご当人の弁を拝見していると、やはり上原元帥であっても屍の山を築かないでは攻略し得ない要塞であることが分かります。

 上原元帥の乃木希典大将に対する、尊敬と同情の念を感じてきます。

 司馬遼太郎さんの「坂之上の雲」はベストセラーとなりましたが、これは小説です。

 私のうちには父が購入したハードカバーの「坂之上の雲」(当時1冊350円!!!)がありますが・・・・・ほとんど読んでいません。

 司馬遼さんの著書はかなり購入し熟読していますが(特に関が原はお気に入りです)、なぜか「坂之上の雲」だけは苦手です。初めて読んだのは小学生の頃ですが・・・・早すぎると言うよりも私と波長が合わない読み物でしょう。

 この「坂之上の雲」は歴史研究書ではありません、ただの小説です。

 これが日露戦争の研究に関して負のイメージを与えていることは私も感じております。

 くどいようですがこの本は小説です。決して研究書には引用してはならない資料であります。(司馬遼さんの作った歴史です)

 しかしながら司馬遼さんの名文により多くの読者が誤認することは致し方ないところです。

 私が公刊戦史を熟読しただけでも、世間で言われている司馬遼さんの主張が間違いであることはよくわかります。

 先日の橘祭でお話をした偕行社の方も「あれは小説だ、時代考証に間違いがある」と語ってお出ででした。

  ごもっともであります。

 史実に花を持たせる脚色ならばそれでも良いのですが、侮辱をするようなことをすれば当然ですが文句は言われます。

 司馬遼さんが坂之上の雲の中で行った批判は、旅順の戦いにおける乃木希典大将と遼陽首山堡の戦いにおける落合豊三郎中将に対してのものであります。

 まずは乃木希典大将です。記録を残された方は陸軍大将今村均さんです。新聞記事のほうは他の方がブログで紹介されているので、「私記・一軍人六十年の哀歓」に収録されている長文のほうを紹介します。我らが關谷鉻次郎連隊長の同級生、上原勇作元帥のお話が元になっております。

カテゴリ

ウェブページ

Powered by Movable Type 5.02

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうち日露戦史カテゴリに属しているものが含まれています。

前のカテゴリは新鮮野菜 レシピです。

次のカテゴリは日記です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。